二兎社公演43 『私たちは何も知らない』

雑誌編集って遠い。でも、ツイッターは個人発行の「zine」に似ているような気がする。そう考えると、「青鞜を編集」というのもちょっと身近に感じられるのだった。

 青鞜の盟主平塚らいてう朝倉あき)、美術の才能のある尾竹紅吉(夏子)、事務を統括する保持研(富山えり子)。らいてうは細身で美しく、コムデギャルソン調の服を清潔に着こなし、紅吉はパリの少年のようで、保持や伊藤野枝藤野涼子)は、すこし野暮ったい。歴史上の人物を現代の女のひとのように舞台に貼りつける。そこに血を通わせるのには、魔法の一吹きが必要だ。それがなー。私が重要だと思ったのは、まず女に欲望があるという発見、らいてうと紅吉の恋愛表現だ。ここ、「欲している」切実さ、肉体の重さが最初にもっとはっきり出ないと、貞操論争も堕胎論争も売春論争も、紙人形さながら吹き飛ばされてしまう。もう一つはらいてうが恋人博(須藤蓮)に質問状を出すところ。あの質問を読むと、らいてうが肩をいからせ、目をらんらんと光らせて書いている絵が思い浮かぶのに、朝倉あきの声が「ぎりぎり」、「足りてない」。

 鶴見俊輔の本には、「転向」をせず、きちんと人生を生き切ったのは、趣味に沈潜したものと、最初から最後まで同じことを言う強さをもった人だったとあったが、永井愛は後者だろう。不意に舞台上の時間が昏迷し、観客を巻き込んで、「一瞬先もわからぬ私たち」を、芝居がカッターナイフのように突きつけてくる。ここは素晴らしい。

 が、そこに至るまでが「学級委員」みたいでつまらない。「逸脱」がない。「最初から最後まで同じことを言う」のは厳しい道だなと思う。伊藤野枝、もっと「太かおなご」ではなかろうか。濡れたおしめを洗わずに干す女。もっと押し強くないと話の動因になれない。