本多劇場 KERA・MAP #010 『しびれ雲』

 KERAの頭の中から生まれた架空の島「梟島」に、一人の怪我をした男が現れる。記憶を失い、フジオ(井上芳雄)と名付けられた男と、彼の周りの20人に満たない人間関係の、戦ぐ波乱と頭上に浮かぶ「しびれ雲」。島の住人の潮目になるという「しびれ雲」を見上げながら、皆、泣いたり笑ったりして生きる。「しくさる」という言葉が、丁寧語として島の方言では使われている。はい、ちゅうもーく、ここ試験に出ます。この言葉は「軽蔑」で使われる架空でない日本の通常のカタチと、「尊敬」語(梟島では)をつないでいる。東京と梟島、架空と現実、フジオの過去と現在がつながり、縁談が結ばれ、いろいろの事が、つながることで、雲のようにゆっくり動き、おさまっていく。

 これ、KERAの言うとおり、役者の味で観るタイプの芝居だなあと思う。例えば佐野周二の演じる原節子の上司(『麦秋』)は、原にちょっと気持ちのある芝居が全然嵌らず、「不味い」のだが、『風の中の牝鶏』の、身を売る娘に職を世話してやり、妻と生き直す復員兵は、どこかあっさりしていて、全人的に信じられる明るさが体にあり、「旨い」。俳優は、恐れず全身を見せないと、『麦秋』の佐野周二のように「不味く」なる。不味い人はいません。けど、萩原聖人、クロールの腕が縮んでる。自分らしくのんびりやっていいよ。大きく手をかき、水をしっかり押さないと、遠くまで行けません。富田望生、あごを引く。後ろの首筋を伸ばすのだ。首が前に出ていると、「旨く」ても「不味く」なる。ともさかりえ、手足がちょっと漫画になりそう、気をつけて。KERAが「小津」で表わすものの本体が、正確にはよく掴めず、時代の「夜風の中に泣き声を聴く」小津に対して、「戦ぐ(風)波(海)」、「年末(冬)に鳴くヒグラシ(夏)」を一つにして、世界を一巡りにつなげるのかなと思う。小津みたいに。