TOHOシネマズ渋谷 『フェイブルマンズ』

 サム(ガブリエル・ラベル)の母ミッツィ・フェイブルマン(ミシェル・ウィリアムズ)が笑いながら、戯れに葉をつけた若木につかまり、木は左右に大きく反って撓む。あれ、サム――スティーブン・スピルバーグだと思うのだ。折れそうな程傷められる少年。後半に入るとスピルバーグは自分に、「はいれ」と呪文をかける。たちまちスピルバーグは雑木と化し、「愛の縺れと哀しみ」を「内側から」、はっぱの表裏を同時に眺めるように見つめ始める。『フェイブルマンズ』は、最初一見徒長枝のように見えていた「縺れと哀しみ」を主枝にする。けど、このもつれもかなしみもなんか等分。これきっとスピルバーグが余りにも早くからカメラ(等分で、客観的な視線)を獲得していたことから来るんじゃないかなあ。最後の一押し、陰影のひと筆がうすい。感情的な何か、怒りや悲しみで「脈打つ」視界が欠けてる。圧倒的な作品を創りながら、ぽつんと最後に「ぼくはどっちだっていいんだ。」って付け加えそうな寂しささ。雑木だもんね。そこが弱いと思う。

 ミッツィが「一生の仕事だ」「いつか戻る」(ピアニストの手を大事にするために紙皿を使い続ける)と思い詰めているのに、夫のバート(ポール・ダノ)は息子のカメラを「ホビー」とよび、間接的にミッツィを傷つけている。この夫婦の問題はここで、別にベニー(セス・ローゲン)が彼女を笑わせたからじゃなかろ。竜巻とショッピングカートのエピソードも、全体との緊密さがなく、まるで「徒長枝」だね。たしかスピルバーグのお父さんはノルマンディ上陸作戦でこころに深い傷を受けていた筈だけど、この映画では違う?子供の作品とはいえよく出来た戦争映画に、微妙な貌はしなくてよかったの?あと、映画がフェイクだと高校で責められるシーンの脚本の詰めが、いま一つじゃないかなー。