東京芸術劇場 シアターウェスト 『OTHER DESERT CITIES アザー・デザート・シティーズ』

 舞台は上半分がスクリーンで閉じられ、背板を抜いた棚にも見える枠が、4つほど重ねられて塔のようになり、中にいかつい本が、覗き込むキャビネット照明の厳しい明りにさらされている。上手奥のホリゾントには禍々しい強い影が出ているが、中央に少し離れておいてある枠の中のランプが(ポールセンのパンテラに似る?)、舞台全体をふんわりと、とても柔らかく、やさしく見せる。この矛盾なに?

 2004年のクリスマスイヴ、パームスプリングスに居を構えるワイエス家。父ワイマン(斎藤歩)はハリウッドの元俳優で政治家、妻のポリー(佐藤オリエ)は脚本家で夫と共和党の強い支持者だ。同居の叔母シルダ(麻実れい)はアルコールの問題を抱え、息子のトリップ(中村蒼)はテレビの仕事をしている。この家に娘のブルック(寺島しのぶ)が帰ってくる、親たちを弾劾する原稿を携えて。

 最初から終幕近くまで、登場人物たちは言い争いを止めない。各人ごとに立場と意見は違うのに、演出は彼らに再々手をつながせ、愛と憎しみとつながりの深さを印象づける。ポリーは登場すると舞台中央に立つが、その視線は舞台を支配し、「深い」。家族とは一番弱いものに脅かされるものだと彼女は言うが、本当は、一番弱い者の所に、家族の一番強いものの矛盾が噴き出るのだ。強いものの矛盾が大きければ大きいほど、弱い者の苦痛は激しくなる。しかもこの関係は固定ではない。

 「ブルックはどうなるの」というセリフを聞いて寺島しのぶが首を垂れると、小さい子供がうつむいて泣きだしたように見え、ここが一番大事なリアクションのように感じる。頑固に生え変わらなかった乳歯が抜けそうになり、矛盾した家族に引き戻されてしまう瞬間だ。彼女は枠から出て、また枠に入る。しかしもうキャビネット照明じゃない、パンテラだ。そこには、新たな矛盾が待っている。

世田谷パブリックシアター 世田谷区制85周年 『子午線の祀り』

 車の免許を取ると、私どもの田舎では(と、突然司馬遼太郎みたいだが)、関門海峡のあたりへドライブに行くというのが相場となっていて、壇ノ浦の、道の間際まで海のせり出している急カーブに差し掛かると、「出るよ平家の幽霊」「きゃー」と、必ず言っていた。すごく出そうなのだ。三角浪から立ち上がる、無数の白い腕が見える。時空を越えた怪談だ。

 翻って今日の『子午線の祀り』は、なかなか時空を越えない。客入れの間じゅう、波の音が聞こえ、アルコールランプの「なま」の生きている火がたかれ、ポンポン船の発動機の音がし、時々汽笛が混じる。この海辺から、一気に源平の浜まで飛ぼうというのに、喚起力が薄い。プロローグのセリフが難しいのかもしれない。

 平家の大臣殿宗盛(おおいとのむねもり=河原崎國太郎)の弟新中納言知盛(野村萬斎)。目の前で息子武蔵守知章(浦野真介)が討たれ、その仇を討った郎党も死ぬ。なのに知盛は「ふっと」生き延びてしまい、「非情のめぐり」を感知する眼を持つようになる。その眼を共にするのが影身の内侍(若村麻由美)という、知盛の兄弟重衡の思い者の女性だ。

 野村萬斎、見直した。声のよく出るすこし大仰な人と思っていたのだが、ここでは、私にとって切実に「平家物語そのもの」であった。美しい公達の、齢を重ねた顔に、敗亡を知って浮かべる苦悶の表情。アイリスやフリージヤが、咲いたまま透きとおってゆくような終わりの予感。

 知盛が鎧を二領つけて、海に沈むと、エピローグのセリフが始まる。プロローグと違い、今度こそ、海面が、小さな灯とともに盛り上がって見える。

 水主梶取の殺されっぷりに迷いがない。怪我がありませんように。

シアターコクーン CUBE 20th presents 音楽劇『魔都夜曲』

 7月19日、藤木直人さんお誕生日おめでとうございます。

 藤木直人が今日45歳だと知って本当に驚いた。30代にしか見えないもん。世の中が求めている藤木直人とは、ハンサムな知性派であり、その要求に彼も、よく応えてきたのだと思う。

 今日の役はいつもの藤木直人の役とは違う。馬鹿正直な御曹司である。そしてその馬鹿正直が、いつか光り輝いていなければならない。藤木直人は「自分」の上に役柄を足して、「気のいい藤木直人」を演じるが、そうではなくて、防御を外して(竹刀を構えず下げる感じ)、体の中の「いい人」を探さないと、ボタンを掛け違ったシャツのように全てがうまく働かなくなってしまう。自分の中のアリョーシャ(『カラマーゾフの兄弟』)を探していただけるようおねがいします。体の中にその人がいるからこそ、紅花(ホンファ=マイコ)は清隆(藤木直人)に惚れ、志強(チーチャン=小西遼生)は去るのだ。

 志強の「紅花はお前にくれてやる」というセリフが巾いっぱいで出すぎず引っ込まずとてもよく、中国訛りも自然に聴ける(リスペクトがあると思う)。清隆と紅花が去る時、清隆がスーツケースを持っているのがちょっとそぐわない感じがした。1939年、上海の租界にあるジャズの店で物語は進む。イン・ザ・ムード、ブルームーンなど、こんないやな世相で流行した美しい音楽だったんだなあと思った。ブルームーンの最後のハモりがきれいだったし、字春(ユーチュン)の秋夢乃の歌がとてもよかった。あんな理由でつきあって別れるなんて、ひどすぎるような気がするよ。

 川島芳子壮一帆)が様になっていて、煙草の扱いがスマートでかしこそう。山西惇の二役、外務省のお目付け役籾田と甘粕とで、すこし混乱してしまった。混乱させる狙いがあるのかな。

新宿シネマカリテ 『霊幻道士 こちらキョンシー退治局』

 古びたエレベーターのB3F表示が光り、今しも降下してきたところだ。扉の中から現れた青い制服の警備員が、異変を感じて耳の横に懐中電灯をかざす。フロアの夥しい血、肉片、停まっていた軽トラックの中を見ると、運転席の男が死んでいる。「!」カメラは死んだ男を映さない、次の瞬間、襲われた警備員の恐怖の表情とその顔を掴む手をアップで撮る。

 はなしちがう!こんなこわいはなしって知ってたら来なかったのに!

 しかし、そんな心の叫びも数秒だ。襲ってきた男が、とつぜん、両手を硬直させて胸の高さまで伸ばしてあげ、ぴょん、ぴょん、と足をそろえて前進する。

 キョンシーかぁ。脱力と可笑しさで、怖さがどこかへ行ってしまったよ。しかし最近、映画の細部の血とか死体とかのリアリティ、すごいよね。それが映画全体のリアリティを支えるっていう思想なんだろうね。ちょっとイヤ。

 青年チョン・ティン(ベイビージョン・チョイ)は、清掃局を装い、キョンシーを駆逐する秘密の公的機関、キョンシー退治局(Vampire Cleanup Department)にスカウトされる。いろんなへまを重ねるうちに、チョン・ティンは一人の美少女キョンシー(リン・ミンチェン)に出遭うのだった。

 美少女をかくまい、そのお世話をするっていうの、古典やらなんやら、ある話だけど、今の日本で、特に女の目で見ると、変。この映画はギリギリのところでなんとかそこを回避できている。それは一重にベイビージョン・チョイの軽い嫌味のない芝居と、爽やかさのおかげだろう。師匠(VCDの上司)のジーチャウ(チン・シュウホウ)とのカンフーは、まるで、ほっそりしたお花が揺れているみたいだった。

天王洲銀河劇場 『遠い夏のゴッホ』

 「胸が大きくなりませんように、これ以上おとなになりませんように」と、毎晩うつ伏せで寝ていた子供だったので、惑星ピスタチオの『熱闘!飛龍小学校』を観た時は、むっとしていた。大きくなる子が悪者。そういう扱い?だって成長って、みんなに降りかかるんだよ。

 と、思ってから20年、『遠い夏のゴッホ』で西田シャトナーは、また成長と変化を扱う。劇場に入って舞台の明かりを見て、(おや?)となった。舞台面から見上げる光と、天井から地上を見下ろす光が、斜めにスモークを照らし、筋状に交錯して美しい。これ、視点が複眼化したことを示しているのでは。成長しちゃってるよ。

 虫たちの、生まれて生きて死ぬめぐりと、その中のあがきや喜怒哀楽。蝉の幼虫ゴッホ(安西慎太郎)は、恋人ベアトリーチェ(山下聖菜)より一年早く羽化してしまう。ベアトリーチェに会うため、ゴッホは何としても冬を越さなければならない。

 最初に赤いTシャツを着た人々が現れ、蟻だと名乗ってもピンと来ないのだが、舞台に葉っぱの乗り物のように設えられた大きなセットが、バッタの頭だと教えられると、とつぜん、全員ちっちゃいよく働くアリにみえてきた。

 ゴッホは「めぐり」や「時間」に抵抗するが、ファンタジーとして昇華されているので、無理矢理感はない。群唱がきれいで、風や星を表わす身振りもいい。セリフの間に擬斗や登退場が多く、話が緊密でなくなり、芝居の見せ場が薄くなる。パンフレットの表紙がかっこよく、ゴッホの頑張りを一瞬で表わしている。このようなシーンが、芝居の中にもあればよかったのに。ベアトリーチェ、「チュー」というセリフは重要なので、渾身の無邪気でやってもらいたいです。音楽にセリフが埋もれがちでした。

ムジカーザ 『第九回 上原落語会 夜の部』林家彦いち 音楽ゲスト ユザーン(タブラ)

 開場を待つ列に並ぶと、前にいる女の人たちの首が皆細くて白い。あの、ごめんね、落語会的には今日はずいぶんと若い人たちが来ている。

 キーンと冷えた会場で、ひざ掛けを配る係の人が、すまなそうに、「もうなくなってしまったんです」という。いいのいいの、若い人に貸してあげて。痩せてると寒いもんね。

 ちょっと時間が押して、林家彦いち、タブラ奏者ユザーンが登場。ひとこと「...近い(客席が)。」という。二人でカレーの話をする。「ぼく、インドの楽器やってるからインド料理屋よくさそわれるんですよ」(タブラ、インドの楽器なのか!)と思う。例によって予習ゼロ、見たことしかわからないと、ある種の諦念を持って臨んだ今日です。おいしいインド料理屋、彦いちさんが好きな川魚のこと、かなり話して「おもしろいですね。」といったあと、ちょっと間があり、「...ユザーンと申します。」とぺこりと頭を下げた。その間が、プロの笑いの人ではないのに笑いの人のよう。わざとらしさのない、淡々とした人だった。

 てんてんてんまり(鞠と殿様)の出囃子にのって、林家彦いちが座布団に上がる、その前には自分で出番の「めくり」をめくっていたのだった。今日は「青菜」という話をやろうと思っていたこと、昼の部でその話が出てしまったこと、クマの話、クアラルンプールで落語をやったことなどを話し、今日の落語は「ムアンチャイ」というタイ人が主人公です、という。客席に二度ほど、主人公の名前を唱和させて(音響がよくて、会場全体がどよもす感じ)、話は始まった。

 ムアンチャイは日本のボクシングジムでセコンドにつくことを目指している。しかし言葉の壁があり、ジムではバンコクに帰れとすすめられているのだった。ちょっと暇をやるから日本の様子を見て来いと言われるムアンチャイ。歌舞伎町で果物屋の呼び込みをしたりヤクの売人と話したり、ティッシュ配りの手伝いをする。

 まず、このムアンチャイが凄くいい人だった。もしかしたら差別になりそうなところを、彦いちさんが主人公に思い入れ(思い入れてる?)、純朴な田舎の人に作ることでからくもまぬがれている。歌舞伎町では果物屋のおじさんすら目付きが「すすどく」、世知辛い。売人にヤクをすすめられ、ムアンチャイが「ご通行中の皆さま」と大声でいうとこ、訛ってないから誰が言ったかわからなかった。マウスピースをジムの「ハセガワ」が口に入れる描写が何気なく巧かったです。

 

 

こけざるの壺。『丹下左膳百万両の壺』で、子どもが金魚いれてたあの壺だ。あれをちょっと小さめにして、壺の口にあたる太鼓の鼓面をたたきやすいよう斜めに切り取ってある感じ。奏者の右に小さめのタブラ、左に大きいタブラを置く。ユザーンは空色と白のストライプのクルタを着ている。「いいかなとおもったんですが、人間ドックから出てきた人みたいかなあ」そうでも...ない。

 演奏が始まる。うーん、鼓の「ぽ、ぷ、た、ち」どころじゃない、鼓のような音、カンと乾いたおおかわの音、「どぉん」と胴に響く太鼓の音、でんでん太鼓のぱらぱらいう音、雅楽の鞨鼓みたいな音、ぜんぶある。それらすべてが両手で、恐るべき速さで演奏される。雨の日に、瓦屋根やトタン屋根、窓枠、木立の青い葉の上、地面に打ち付ける、激しい音を聞いてるみたいだ。

 雨だれの中にも規則性があるように、カン―カン―カンと乾いた音が整列して鳴り、深い音、足元まで響いてくる奥深い音がその合間を縫って聴こえる。人差し指で軽くたたく音さえ響く。右手は手首を右左に返しながら指を開いて一本ずつうちあて、左手は手首で縁を抑えて(手首でも打ってる?)とんとん打っているように見えた。

 「楽しめてるこれ?古典の曲でもやろうかな」というと、シチュエーションにあわせて作られたという、俳句みたいに短い曲を続けてやる。

 「クリケットで4点入ったときの曲」(ホームランのようなものかな?ゆっくり余韻を持って消えていく。意外にのんびり。)

 「だるい人と怒っている人の会話」(口でリズムを取ってみせてくれて、それがすごい。あの中に、叩き方と音色が入っているんだろう)

 「機関車の曲」(パンジャブマハラジャがタブラ奏者に汽車の開通を記念して作らせた曲。蒸気や車輪の動くところがある)

 馬の走る音楽っていうのが、馬が地面を飛ぶように駆け、御す人の鞭が入り、加速していくところ(ギャロップ!)がリアルだった。他の楽器と一緒だったら、こんなによぅく聴けなかったろうと思う。ついつい旋律聞いちゃうもの。表目、裏目、掛目、ねじり目、単純な編図の中から複雑な模様編みが現れてくるようでした。

 

 

 

他人の旅行写真を見るほど苦痛なものはない。写真になってる時点でテレビみたいに他人事になっているのに、「へー」「ほー」「これなに?」をうまく混ぜながら相槌を打たなくちゃならないからだ。人んち行ったらアルバムとか見せられて、きついよね。あれ、見ても3枚まで、選り抜き精鋭の3枚にしてほしい。

 彦いちさんがダンガリーシャツに着替えて、パソコンの写真を一枚ずつ披露する。2年前ネパールに行ったんです。へー。エベレストのベースキャンプまで行きました。ほー。

 お蕎麦屋さんのご主人とご一緒したんですけど、その人店休む理由を「出前」って言ってました。あれっ笑える。写真見せたい人は、このくらいのこと言ってくれないとだめだよ。面白い話しながら、3000メートル、4000メートル、5000メートルと山を登っていく。よく行ったねそんなとこ。どうやって撮ったのか、水滴くらいの大きさの星が、空いっぱいに広がった山の写真がある。でも、この写真の説明を彦いちさんはしないのだ。渋いね。

 惜しいのは山であった日本人の女の人が落語家だといっても信じてくれない話。もうちょっとドライに話さないとつまらない。自慢に聞こえる。

 人の旅行なのに面白かった。でも、旅行写真は、やっぱり苦手だ。

新橋演舞場 七月名作喜劇公演 『お江戸みやげ』『紺屋と高尾』

 『お江戸みやげ』

「しわがよる、ほくろができる、腰曲がる、頭ははげる、髭白くなる」って、江戸時代のお坊さんが年寄りのこと言ってて、その他に、「さびしがる」とか「くどくなる、気短になる、愚痴になる」とかいろいろあるんだけど、今自分が着実にその道を辿りつつあることを考えると、夜中に目が覚めて索漠としちゃうことがある。みんなどうやって我慢してるのかな。

 『お江戸みやげ』のヒロインお辻(波乃久里子)は、苦労しているけれど、それを呑み込んで口に出さない賢い女だ。結城の里から、呉服の行商に来た在の人で、散々歩き回って湯島天神の茶屋で一服する。登場した時、とても遠くから歩いてきた感じがし、着物から出ている足を少し開いて座るところが「おばさん」だ。愛や恋は今までもこれからも関係ない、年は取っていくけれど日々坦々とそれを受け入れている女。そんな女が何の気なしに見た芝居にのぼせて、役者の阪東栄紫(喜多村緑郎)に夢中になる。

 最後に「やまとや!」と栄紫を送り出した後、すこし気脱けしたような表情のお辻が、『ローマの休日』の長いエンディング(会見場に一人残るジョー・ブラドレー、恋は去っても人生は続く)を思い出させ、これは索漠を輝かせる小さい美しいおみやげなんだなとちょっと涙出た。

 波乃久里子の最初と最後はすごくいいのだが、「吝嗇」と「酒好き」のスケッチが今一つ。愛嬌多めじゃないと喜劇に乗れない。観客一人一人のこの索漠を乗り切るために、波乃久里子にはもっと頑張ってほしい。仁支川峰子、「油をかけておくれでないよ」「いじのやける子だよ」など今はない言葉をさらっと言い、さすが。けど、もっと強さと重みがないと話が軽くなる。キーを下げてね。

 

 

『紺屋と高尾』

 昔、土曜日の昼下がりにテレビをつけるとたいてい松竹新喜劇をやっていた。アホだったはずの藤山寛美が最後にすごくいいことをいい、ぱーっとお客から拍手がわく。それを見ている小学生の自分。

 今日の『紺屋と高尾』は、なんだか、(子供のころ見たことあるんじゃないか)と思うくらい、懐かしい感じ。パンフレットを読んだら、紺屋の久造(喜多村緑郎)が、毎日藤山寛美のDVDを見たといっていた。そうかー。ハンサムなのに藤山寛美風味。あまりに寛美とちょっと思ったが、型をちゃんとやらないと型から出られないからね。

 大坂の紺屋職人久造が、見物に行った吉原で花魁道中に出遭い、遊女高尾ににっこりされる。一目で高尾のとりことなった久造は、年季奉公の金と一年分の給金を持って、お大尽のふりをして再び吉原を訪れる。

 案内の医者(やぶ)の玄庵(曾我廼家文童)に、つき袖して「おう」とだけいっておれと言われ、久造はずーっと「おう」という。ここ、ニュアンスを変えて客席にもっと細かく伝えないと、単調になる。

 久造と相対する花魁としての高尾(浅野ゆう子)が、すてきだった。戸を閉めて、座る久造を見ながら歩いてくる冷たい色気。三浦屋主人惣兵衛(瀬川菊之丞)と話すときは少し伝法すぎるが、格の高い遊女でありながら、苦界に沈むつらい身の上であることがやり取りや、鳶が空をゆっくりと、自由に飛ぶのをながめている姿から滲み、話を分厚くしている。あと、小紋の着物に黒羽織をつけた高尾が土間に膝をつくと、吉原からついてきた人々が「あ」と悲鳴のような驚きの声を小さくもらすリアルさがよかった。