中野ザ・ポケット 義庵4th ACT 『ちいさき神の、作りし子ら』

 耳が聴こえる者と耳が聴こえない者の恋愛、結婚、こう書くことにもう不平等が忍び込んでいる。正しくは、「音を聴く者と無音を聴く者」とするべきなのか。いやいや、「無」っていう否定的な感じが、よくないかもだな。

 真の平等・公平とは何かがこの芝居では問われる。少しラジカル寄りの、でも根は全然ラジカルでないジェームズ・リーズ青年(加藤義宗)は、人の役に立ちたいという純粋な動機で、ろう学校の口話を教える教師になる。彼はそこで、音を聴いたことのない26歳の女性サラ・ノーマン(吉富さくら)に発語させられず失敗する。得意でないことをやりたくないとはっきり意思表示するサラを愛するようになったジェームズは、「結婚」という形をとって「ちいさき」彼女を『包摂』しようとする。1979年。「男女」「恋愛」「結婚」に潜む上位と下位、つまり不平等不公平も、「聴こえない」人に「口話させよう」とする暴力も、ごちゃごちゃになってジェームズとサラを混乱に陥れる。サラは彼女を取り囲む欺瞞や不平等を敏感に感じ取り、受け入れない。愛し合っているけど、ある種の強制を受けたことで、サラはひとつの選択をする。

 手話の中に出てくる「世界」という、丸い球を作って見せるしぐさのような、ぼんやりした、そしてもやっとした雰囲気を持つ芝居だった。演出がもやっとさせてる。それは恋愛のジャンピングボードを「いつしか」にしようとしてるせいだろう。

 あと、吉富の手話はプラスとマイナスの二極しか表していず、最初に母(日下由美)について語る時、くらっと身体が拒否的に変わらないといけないのに、変わんない。発語シーンがすんごい弱い。加藤は背が高くハンサムだけど、体の中が空洞。中身を感情の水で満たせ。多分、いまの10倍くらいの感情表現しないと足りない。品が大事、抑制が大事って思ってる。それ以前の問題だよ。サラのデートの顛末を聴くときの衝撃が躰にない。「すべての時間を稽古につぎ込んだ」せいで、ジェームズとオリン(八頭司悠友)は散髪に行かなかった。んだと思う。小劇場の全身全霊を尽くしてる感じにちょっとうるっと来たが、散髪には行った方がいいね。