渋谷クラブクアトロ 『FUJI ROCK AFTER PARTY ホットハウスフラワーズ special guest ウェスタン・キャラヴァン』

 17年ぶりの来日。家族がよく聴いていて、それで私の分もチケットを取ってくれたわけだが、予習が足りなくてちょっとあおざめているのである。来たことあるって言われても全く覚えのない会場クラブクアトロ、真ん中にマイクが3本立ててあり、その両脇のスタンドにデジカメみたいなものがセットされる。デジカメで何をする。舞台の後ろには何列もお弁当箱みたいな照明がぎっしり並ぶ。4つ足の丸スツールが7,8列、そのうしろに折りたたみのハイスツールが3列、あとから来た人たちは立っている。その周りを囲むように座れる席が設けてある。たくさん人がいる。

 客席の明かりが落ちて舞台がひときわ明るくなる。何人もの黒いウェスタンシャツの人が舞台に登場した。頭が白髪。

 赤いキャップのスチールギターフィドルが二挺で白髪の人と帽子の人、ベースの人は白シャツでトランプ柄のギターストラップ。上手につばのある白い帽子の黒の上着と茶のシャツのギター、ボーカルは黒いジャケットに赤いシャツ。

 ザ・ウェスタン・キャラヴァン、2017、2018フジロックに参加、カントリーとスウィング・ジャズを混ぜたものを演奏する。フジロックか。暑かっただろうね。「日本は遠い」「日本は暑い」「今日も暑い」メンバーのそれぞれの物思いが雲のように演奏の上にかかっている。が、それも2曲目まで。3曲目からは晴ればれする。King Of The Blues、フィドルが連れ立って速弾き演奏し、スチールギターに主導権が移る。インストゥルメンタルも生き生きしてきた。雲がきえて、ひるがえる音をひらひらさせながら突っ走るフィドル

 私はカートラブルっていう曲がすきだったかな。物静かな感じのギターの人の巧いソロ、白髪のフィドルのソロ、帽子のフィドルもソロ。スチールギターは日本で借りたらしくお礼を言っていた。右手の先に銀色の爪がついていて、それで弦をはじき、左手に持ったやっぱり銀色のピンで弦を押さえて音を揺らす。しっかりした確実な演奏だ。最後はThe Honkey Tonk Song、めでたく歌い納めるって感じに尻上がりに終わる。

 ここで休憩。ドリンクチケットで引き換えてもらったジャスミンティーを飲みながら辺りを見まわす。仕事帰りのワイシャツ姿の人もちらほら、大体みんな40代くらいかな。今日のライブは来た人全員に布製バッグ(ホットハウスフラワーズとウェスタンキャラヴァンのダブルネーム)をくれるし、抽選でTシャツもばんばん当ててるし、太っ腹だ。主催の人が今日のホットハウスフラワーズの見どころはリアム(リアム・オ・メンリイ、ヴォーカル)ですという。ふーん。家族はずいぶん昔に聴いていて、どんなバンドか尋ねても「うまい」としか言わないよ。と、ふと舞台を見ると、はっいつの間にかグランドピアノが凄く前に出て、その上に明かりがあたるよう、ながい棒を持った照明係の女の人がライトの向きを微調整している。

 ホットハウスフラワーズ、見どころのリアムは、うす水色の、緩やかなどこかの民族衣装を着ていて、足ははだしだ。ピアノの前にさっさと座って、微妙に濁った美しい音をじゃーんと弾く。ピアノの音が素晴らしい。竪琴をかき鳴らしているような、感覚的に研ぎ澄まされた、厳しくきれいな音。ピアノの衷心から出る音。自分のライブのメモ帳に(一曲目で元とった)と下品なことが書いてある。リアム・オ・メンリイはゲール語で民謡を歌い始めた。薄くシンバルが鳴り、声を張る。ピアノがはずんでき、ドラムス(ディヴ・クラーク)が刻み、ベース(マーティン・ブランズデン)が激しく弾く。ピアノと声がぴったりあっていて、グルーブの中からまたピアノが立ち上がってくる。ギター(フィアクナ・オブラニアン)も聴こえ始める。

 2曲目、3曲目と進むうち、家族が「うまい」としか言わなかったわけがわかる。しっかりした建築のようなリズムの中で本当にデリケートな歌が、デリケートに歌われる。サウンドが歌の魂を守っている。その歌が聴き手の胸に入って暴れる、鳥のように。切れ目なく演奏は続き、観客が拍手するけど、この拍手が何というか…手厚い。すごく自発的で能動的。いいお客だね。

 That Is It(Your Soul)を歌う時、リアムは日本の盆踊りのような手つきをする。なんか空手じゃないけど「残心」があって、感心した。なんだろ、この「たましい」感。盆踊りの魂を掴んでる。こうして何事も、核心を掴むタイプの人なのだ、きっと。

 ギターやブズーキ(ピーター・オトゥール)が自在で繊細。コーラスも、ヴォーカルの様子を見て声をうまくオフにする。Purple Rain はパープルというより虹のように鮮やかに感じられるし、You Can Love Me Nowでは前の人が立ったからじゃなく、ごく自然に皆席を立つ。(リアムが促したそうです。)白熱した素晴らしいライヴで、バンドのメンバーも、観客も、そのことをよく知っている。アンコールは2回、ギターのフィアクナ・オブラニアンがゲール語で歌い、ティンホイッスルを吹き、リアムがバウロンをたたいた。9時半終了のはずが終わったら10時半だった。ホットハウスフラワーズ、また来て。すぐ来て。

カクシンハンPOCKET08 『冬物語 ~現実と夢幻のデッド・ヒート~』

 芝居を予約してチケットが郵送されてきた。チケットだけじゃない。「サイリウム」が入ってる。サイリウム=化学反応で蛍光色を発する器具の通称。psyllium。送られてきたのは片手を広げた長さのスティックであった。突然襲う黒い不安。①わすれる②時ならぬときに光らす③壊す 

 乾坤一擲のきっかけに弱い自分が、ほんと残念だ。開演前に鞄の中で、ぽきっとサイリウムが光り始めちゃったし、腕にはなかなかつけられないし、「つけてください」とも言えなくてわたわたしたが、暗い舞台にぽわんと光る明かりの環が、ほんとにきれいだった。

 リングのような四角い屋台に、ビニールが張り巡らされている。ラップに似た透明のフィルム、彼我をはっきり隔て、もろく、見通せて、夢のように巻きつく。

 シチリアに9か月滞在したボヘミア王ポリクシニーズ(島田惇平)は、今にも帰途につこうとしている。それを引き留めるシチリア王レオンティーズ(河内大和)は、妻ハーマイオニ(真以美)にも説得させるが、その説得にとても力があったため、レオンティーズの心には、ふっと暗い疑念が兆し、彼を捉え、包み、翻弄する。この、疑念がレオンティーズに入り込むところがとても難しい。河内大和は、まるで重力が増えたように演じていたが、ここできっと嫉妬は、レオンティーズを食べてしまったのだろう。カミロー(岩崎MARK雄大)はレオンティーズの嫉妬の聞き役だけど、聞いた言葉がそれぞれ違ったように躰に染み込むところが見たい。リアクションじゃなく、ただ、染み込むところが。ハーマイオニが申し開きをするシーン、堂々として、品もあるが、もっと激しくていいかな。アンティゴナス(野村龍一)、ちょっとかるい芝居が異質だった。

オンワードpresents 新感線☆RS  『メタルマクベス disc 1』

 ディストピア。2218年、廃墟と化した世界、そこにランダムスター(橋本さとし)と呼ばれる男がいる。彼はレスポール王(西岡徳馬)の配下、敵を蹴散らして手柄をたてる。バイクで道を急ぐランダムスターとエクスプローラー(橋本じゅん)の前に三人の魔女(植本純米、猫背椿、山本カナコ)が現れ、予言をしたうえ、一枚のCDを手渡す。そのCDは200年以上前のメタルマクベスというバンドのもの、ボーカルはマクベス橋本(橋本さとし二役)と名乗るランダムスターとうり二つの男だった。

 二つの世界を往還しながらマクベスが語られる。対立する二つの概念の、「きれいは汚い」(「あまからい」「いたきもちいい」)を見据えて目を離さない作劇だ。

 レスポール王を殺して自室にこもるランダムスター、びっしりとスピーカーで埋め尽くされた部屋でヘッドホンの音を聴くその姿は、もうクライマックスの先触れのように細かく微振動を繰り返しているはず、震動の中でランダムスターは、同時にマクベス橋本となっているのだ。最後に敵が正体を明かしても、ランダムスターはマクベスのように気落ちしないんだなあと思ったが、「きれいは汚い」、生死の向こう、善悪の向こう、批評の向こうの混沌とした場所へ、ランダムスター=マクベス橋本は行ってしまうのだろう。

 橋本さとしが研ぎ澄ましたようにかっこいい。ギターを高く掲げている冒頭から目が離せない。登場の歌がかっこよくて笑えて、芝居の世界にすぐ入れる。しゅっとしているのにそのことを忘れているような山口馬木也、王を大きく演じる西岡徳馬が印象に残る。

 ランダムスターにあれこれいうローズ(濱田めぐみ)、『アイデン&ティティ』を思い出したが、どちらもあんまりピリッとしない。厳しい女の人に、厳しく言い当てられたことなんか、ないのかなー。

帝国劇場 『ナイツ・テイル 騎士物語』

 パンフレット2800円、見本を見てから、買うかどうするか決められるようになっている。ストレートプレイだと、宣伝チラシをもらう時キャスト表もくれるけど、そんなのはないんだね。

 この『ナイツ・テール』というミュージカルは、シェイクスピアとジョン・フレッチャーが共作した芝居がもとにあり、そのシェイクスピアの『二人の貴公子』はまた、チョーサー作の『騎士物語』を下敷きにしている。原作の、「牢番の娘」(名前がない)は飛びぬけていい役に見え、オフィーリアのようだ。最後に結ばれる騎士とお姫様以外は、かなり悲しい結末だ。でも『ナイツ・テール』では、名前ももらえなかった牢番の娘(上白石萌音)にも名がちゃんとあり、暴れ馬から落ちる騎士なんて登場しない。芝居をたのしみにやってきた観客がみんな、楽しかったねと言い合える、現代風のミュージカルに仕立てられている。

 アーサイト(堂本光一)とパラモン(井上芳雄)はとても仲のよい従弟同士、テーベのクレオン王(大澄賢也)をおじに持つ高貴な生まれだ。アテネのシーシアス(岸祐二)王と戦った折に捕えられ、牢に入れられる。そこで庭を散策する美しいエミーリア(音月桂)姫に二人ともが一目ぼれしてしまったことから、二人は仇敵のような間柄になる。

 音月桂が歌うまいので驚いた(うたってる!)。そして踊りも踊れるのである(おどってる!)。彼女は宝塚のトップスターだったのね。失礼しました。上白石萌音は、台詞のつづきで自然に歌を歌っており、それにも驚いた。一番ミュージカルらしく見えた。

 ただ、歌詞(弱強五歩格で苦労したのかもしれないが)や台詞が、カレーに大きな野菜がごろごろ入っている感じで、中に生煮えのものがある。日本語って、ごつごつしてんだなと思ったのだった。

シアタークリエ 『大人のけんかが終わるまで』

 ヴィヴァルディがストーンズに割って入る。このヴィヴァルディが、岩からしみだしてるように悲しい。哀切。

 愛人ボリス(北村有起哉)の車で素敵な高級レストランに出かけることになったアンドレア(鈴木京香)は、怒っている。「外で吸えよ」とボリスに言われても、ふーっとツーシーターのかっこいい車の中でたばこの煙を吐く。これから出かけるレストランが、ボリスの妻パトリシアのおすすめだと知ったのだ。そのうえ、ボリスは妻が遠方に出かけて留守だからアンドレアと出かけたらしい。アンドレアの機嫌はどんどん悪くなる。この二人の会話がなんか可笑しく、老女イヴォンヌ(麻実れい)がよちよち出てくるところなど、まだイヴォンヌが一言も発してないのに、笑ってしまった。イヴォンヌは息子エリック(藤井隆)とその事実婚の妻フランソワーズ(板谷由夏)と、誕生日を祝いにレストランに来たのである。フランソワーズとパトリシアは古い友人、とても気まずい一夜が始まる。

 アンドレアのことがしっかり描かれた戯曲で、芝居が進めば進むほど、彼女の中のヴィヴァルディが際立ってくる。この脚本に、鈴木京香はたいへんによく応えていると思う。ボリスと付き合った4年間、(その4年で年を取ったという気持ち)、服も靴も新しくそろえた気持ち、それがぺしゃんこになり、コデインの錠剤を口に放り込むのが次第に頻繁になっていく。残念なのは全員の台詞のテンションがばらばらで、「打てば響く、ずれた会話」になっていない所だ。そこが大切なのに。フランソワーズ、中身はきちんとできているが、外から見たらどんな人なのかが今ひとつわからない。どんな人か観客に教えて。イヴォンヌがトイレのメモ帳を見つめる視線がいい。戯画化しすぎとおもうとこもあるけれど。

シネ・リーブル池袋 『エンジェルス・イン・アメリカ ~国家的テーマに関するゲイ・ファンタジア~ 《第一部》至福千年紀が近づく《第二部》ペレストロイカ

 8時間(休憩こみ)。全く退屈しなかった。緊密なストーリー、笑える台詞、そして、考え抜かれた装置。「部屋」の枠取りにカラーの蛍光色の細い明かりが使われ、それは舞台の高さに比してとても低く見える。部屋は互い違いにまわるように組み合い、全体が奥へすーっと引っ込んだかと思うと、下から別の室内のセットがせり上がってくるのだった。ただ、「NTLive」の映像では、閉塞感を伝える天井の伽藍様のものがよく見えなかったよ。

 1985年のニューヨーク、ゲイのプライアー(アンドリュー・ガーフィールド)は、エイズの発症を同棲相手のルイス(ジェイムス・マカードル)に告げた。ルイスと同じ職場で働くジョーラッセル・トーヴィ)は、ワシントン(栄転!)への異動を、悪名高い大立者ロイ・コーン(ネイサン・レイン)に打診される。実は同性愛者であるジョーは、妻ハーパー(デニス・ゴフ)とうまくいってない。その心の縺れはハーパーのヴァリウム中毒という形で現れる。

 1990年代初頭、テレビでちらりと見たトニー賞の授賞式は、体を押しつぶされるような痛みと、悲しみと、何かはっきりとは分からない恐れに満ちていた。エイズでたくさんの人がなくなっていたのだ。この芝居にはあの頃のゲイを巡るとても切迫した生と死、そこへ関与するはずの神や赦しのことが語られる。「今死んでいく」ことを扱っているために、啓示の天使の羽音は激しく聴こえ、その羽ばたきは顔を搏つ。観客もまた同じように死や愛のもつれにさらされる。プライア―はベッドの上で、胸をえぐるような声で恋人を呼び、時にはこみあげてくる感情を口をふさいで抑え、時には大きな手を優美に動かして面白いことを言う。「ゲイの話」だからなんてことは関係なかった、ゲイだろうが、ゲイでなかろうが、落ちかかる運命は等しく、愛や憎しみに変わりはないのだ。

東京芸術劇場 プレイハウス 『BOAT』

 すだく虫の音。赤い緞帳が閉じられ、暗く襞を見せている。風向計が大きな投光器(上手の流木の間にある)に照らされて黒い影を襞の上に落とし、真ん中に青いボートが、横向きに丸太のコロに乗り上げているのが見える。虫の音だと思っているうち、途中でふとそれがラジオの周波のようなノイズに変わる。鳥を呼ぶ笛のような音(仲間を呼ぶ声?)、それに応えて、鳥がさえずる。また虫の音。ノイズと虫の音、その連続性と、潜めている暴力性について考えた。

 気づくと隣の席に、キャップを脱がない(芝居を観たことがない)おじさんがいる。深いため息をついている。すごい勢いで衝立と家具が運び込まれ、あっと言う間に持ち去られ、短い台詞を女の人たち、青年たちが緊張した感じで喋る。しかも台詞がお芝居お芝居してなくて、おじさんはびっくりしたかも。じぃっと聴いていると、あの台詞が、何だか儚く感じられるのに。でもこれから、マームとジプシーが、この台詞をどうやって完成させていくのか、私にもまだわからない。あらゆるところに「シャッター」のようなものがついていて、皆が別れ別れになっているような町、そこには原発を思わせる「煙突」があり、「ボート」がある。人々は「ボート」でやってきて、「ボート」で去る。最初のボートは、四角い厳密な明かりで囲まれていて、「柩」だなと思う。最後は街に浮かぶ「目」かもしれない。何よりも、除け者(青柳いづみ)の目が、いつの間にか劇場のマナザシになって、緞帳が「まぶた」になっているところで涙湧いた。おじさん寝てたけれどさ。鳥の鳴き声は、誰かを求める泣き声なのか。例えば、赤ん坊がお母さんを呼ぶような。劇場の奥の、閉じない目と見つめあう。碁盤に置かれる最初の台詞、これら前半の台詞が、三次元の碁のように積み上がっていくところまで頑張れれば、おじさんだって楽しむことができたと思うけど。