チェルフィッチュ 『地面と床』

 鏡。上手に、舞台にいる人だけが映ったものを見ることのできる大きな鏡が据えられている。客席からは、どう映っているのか想像するだけだ。

 きっと、鏡を覗こうとする遥(青柳いずみ)を、死んだ義母美智子(安藤真理)がいつもさえぎっているのが見えるのだ。いつも母が映りこんでいる。そんな風に、遥は幽霊と一緒にいる。

 死んでいるのに生きている母、生きているのに、死んでしまったような友人、どちらも見えているのに、遥は見えないことにするときっぱり言い切る。静かな遥の視線は思いのほか厳しく、激しい。遥の足はまるで地を踏んでいないように見え、逆に幽霊の母はすり足で動いたりする。ゆっくり差し出された母の両手はまるで空間全部をそっと引っ張って移動させているようだ。「この地面のしたでいつまでも静かにしていたい、」「わたしのうえにかぶさる土、周りの土を手入れしてほしい」という母の「小さな願い」が、実はとても大きなものとつながっていることがわかってくる。なぜなら地面とは産土、故郷、国なのだ。そうであるなら地面と母国語も、切り離すことができない。いま、この地面を顧みないということは、何百年かのち、日本語が滅びても構わない側につくということなのだろうか。

 死者の埋まった地面を考えに入れないという遥の決意は、遠く、いつか国を出ていく予感とつながっている。母といつも話をしに墓(塚、と台本にある)を訪れる弟の由紀夫(山縣太一)は、道路工事の仕事を得て、国を建てなおすことに「参加」することの喜びを語る。一方「参加」しない「生きているのに死んでいる」さとみ(佐々木幸子)が饒舌に、しかも快活に、日本語への疑いをいちども言いよどむことなく話し続ける。芝居は由紀夫の意外なエピソードで締めくくられる。反響しているのは、「あの時」、街を出ていくと決めた者たちの心の陰影だ。「あの時」、世界を敵に回したような気がしたのは、こういうわけだったのだな、と腑に落ちた芝居だった。