ヒンドゥー五千回 最終公演 『空観』

 「むげんにびぜっしんに」(無眼耳鼻舌身意)、とひとりこそこそお経を唱えると、すごーく遠くへ来たような気分が来る。昔の人も、苦が多かったんだなーと思うのである。全てのものが空(くう)で、確かな実体など何もないんだよ。というところにたどり着いた人の苦を思うと、自分の苦が軽くなるような気がするよね。

 夥しい数の細い綱が、微かに円錐形を成して、空に向かって、群がり上がっているような、ぶらさがっているような。この両義的なところが大切だなと思う。綱の樹(もしもそれがつりあがっているものなら)が上手と下手に一つずつ立ち(もしもそれが立っているのなら)、真ん中に紙(手稿か?)で囲われた真円がある。そこはまた穴かもしれず柱かもしれず、或いはないのかもしれず、ふと舞台脇に目をやれば何もかも取り払われてむき出しになっている。

 上手奥から、カニのような生き物、四人でつかまり歩く生きもの、下手から二人で抱き合い進む生き物が現れる。生き物は瞬く間に結界の紙を乱してゆき、たくさんの人が一方向を向いてたおれ、それはきっと「死」なのだがもちろん「生」でもあり、みな何事もなかったように起き上がる。クレズマーが鳴って、どこか辺境の家族がわからない言葉を発しながら、すばらしいマイムを演じる。「わからない言葉」で演じられる「ぶれた」場面は「ぶれた」父らしい男をもう一人運んでくる。「わからない言葉」の場面の、キャストは皆、異国の人の身振りが堂に入っている。綱の塊は二重の十字架にも見える。「ぶれない」日本語で演じられるシーンは迫力が落ちる。芝居が瘠せて縮む。般若心経のシーンは、いわでものことに感じられた。最後のシーンとてもよかった。アニメーションをみるように、変態していく体がそこにはある。色即是空