武蔵野スイングホール 『アンッティ・パーラネン』

 真珠色の丸い釦が6つ3列、演奏者の左手側についていて、その向って左隣りに、小さな釦がいくつか見える。黒いアコーディオン。小さな釦の左は蛇腹、すこし開いている。開演前、何気なく舞台床面に置かれているのだ。だいじょうぶ?心配じゃない?なんとなく古い、ライカのかっこいいカメラを連想する。右手の、普通鍵盤のある所にも真珠色の釦が縦に10個、11個、12個と並ぶ。蛇腹と釦の間に、金色の文字で読めないけれど楽器の会社名(たぶん)が崩し字で書いてある。左上に赤くスイッチが光っている。「エレクトロニカ」なのね。

 暗くなり、下手(舞台向かって左)から現れたアンッティ・パーラネンがアコーディオンに歩み寄る。ノータイのスリーピース、長い髪をかっこよくひっつめに束ね、眼鏡をかけている。

 アコーディオンに息を吸わせる。

 「ハロートーキョー」渋い塩辛声だ。蛇腹を向かって右上方に、いっぱいに伸ばす。カメラなんかじゃなかった。思い違いしていた。蛇腹の上側が縮んで本体に激突する。これ、なんか、こわい生き物だ。変わった和音が規則的に鳴り、激突も音楽として聴こえてくる。パーラネンが声を出す。うなり声、うなり声じゃないGrowlingって感じ。蛇腹が左右に、心臓のように鼓動する。蛇腹には金で、U字形の飾りが描きこまれているのだが、もはやツキノワグマの首の模様にしか見えない。右足で電子音の重いリズムを取っている。パーラネンは、今日のアコーディオンの機嫌をはかっているみたい。拍手。アンッティ・パーラネンがにっこりする、アコーディオンはパーラネンの言うことを聞くことにしたみたいだ。

 アコーディオンのベルトは右ひじにぴんとかかっていて、左手を通すバンドは手首に固定されている。合いの手をアリガトウと日本語で、民謡っぽく上手に入れる。蛇腹の左側が膝から零れ落ちる、生き物のようなアコーディオンアコーディオン弾きはジムに通う必要がないんだよ、といってパーラネンは汗を拭き、上衣を脱いだ。

 歌い始めるとモンゴルのホーメーを思い出す。あのキレイナトトノッタフィンランドの山河を切ると、こんな音が出てくる。旋律では表しきれないノイズ。旋律でとらえられない世界。武蔵野文化事業団の宣伝チラシに「吹雪のごときアコーディオン!」とあって「へへー」とおもっていたのだが、あのチラシを書いた人、吹雪みたことあったのかも。

 休憩後、飼っている犬がハアハア言っているのを見て(うちの犬は12才、白くて小さいです)作った曲を演奏する。アコーディオンが両手の間で生き物(いや犬みたいに)らしく細かく息をする。犬は、何かがかなしくてなにかを待ち望んでいる感じ、何を思っているかわからないよね――食べ物のこと以外は。とパーラネンは言う。

 息は犬の思いの形、すこし音が上がり、うれしさに似た音がし、低い音も交じり、かなしいような気もする。犬の中の宇宙だ。犬の内側から世界を眺める、相変わらずアコーディオンの蛇腹はちいさく、細かく揺れている。

 そのあと、ヘルシンキから遠く離れた故郷の冬から春をスケッチした繊細な、綺麗で旋律のある曲をやり(女声の合唱があっても不思議じゃない)、さいごに、10年前、新聞の写真を見て作った曲をやります、という。ガザ。2007,8年ごろって空爆のころだ。暗い歌。写真のフレームが突然大きく拡がり、一瞬、ガザの瓦礫を足で踏んだ気がした。女の人たちのつんざくような嘆きの声が聞こえてくる。曲は聴衆を呑み込んで重い終わりを迎える。戦争がありませんように。テロが起こりませんように。すごいイメージ喚起力だった。アンッティ・パーラネンはにっこりとコンサートを終える。あの激しいアコーディオンは舞台面に静かに置き去られ、何事もなかったかのような涼しい顔をしていた。