赤坂ACTシアター ダイワハウスpresents  ミュージカル 『生きる』

 今はもう『七人の侍』を作れる時代じゃないんだ、と、90年代の初めごろ、黒澤がやや憤然と言っていたような気がする。それはこのミュージカル『生きる』の冒頭で、市役所の人がさっと膝を上げたときの、そのひざ下の長さを見ただけでわかる。戦前生まれと現代では、日本人の身体は全く違う。旧日本人と新日本人くらい違う。私たちはみな、畳に置いた椅子に腰かける、渡辺寛治(市村正親)の息子光男(市原隼人)の子孫なのだ。宮本亜門にはそのことがよくわかっている。下町の母親たちを不格好に見えるように配置し、彼らは渡辺寛治を通じて、旧日本とは違うもの、「夢」を持ってもいいという希望のある新世界に気づく。でもやっぱり、このミュージカルの「無国籍」な感じは否めない。誰なんだろうこの人たちと思うもの。終幕光男がブランコに近づくとき(もっと繊細に近づいてほしい)、失ったものの大きさに気づくように、黒澤の『生きる』とミュージカル『生きる』の間に生まれたずれに、「かっこ悪いから」と捨ててきた膨大な「がらくた」のことを考えた。もすこしそこ意識してもよかったんじゃないの。連続性も。

 市村正親の丸めた肩がかわいく、胃が痛そうで、声を張って歌う曲は少ないが、女学生の「ハッピーバースデー」の歌と渡辺が人生に目覚める掛け合いがすばらしい。市村の声がきれいな銀色のテープのようにきらきらしている。

 組長(川口竜也)の「金の匂い」という声を潜めて始まるナンバー、小説家(小西遼生)の冒頭の曲の一音だけ抑えつつも上げるところがよかった。二幕のお母さんたちのコーラスもはっとするほどきれい。山田耕筰みたいでごめんだけど、助役(山西惇)の歌の「おろか」と「ねてみる」の高低が日本語ぽくなくききづらいよ。