紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA 井上ひさしメモリアル10こまつ座第129回公演 『日の浦姫物語』

 1978年、『日の浦姫物語』。杉村春子が「わが子よぉ」というのを見て、「泣いた」と友達にウソを言いました。その当時、「泣けない」「無感動」ってことが自分の中で大きなテーマだったのだ。世界は私と関係なかった。こどもだもん。「近親相姦」という仕掛けは関係ない人々を「芝居」「物語」に引き込む、ずいぶんと荒っぽい、あざとい、古式ゆかしい手立てだなと今回見て思った。「近親相姦」=「哀れな」、「汚らわしい」、なんらかのつよい反応を引き出さずにはいられないよね。だから中世の作者はたくさんこの手を使ったんだろう。否応なく、世界の中に「私」を放り出す。

 三段のグリッド状の格子が何度も降りてきて、「哀れな」人々は隔てられていること、世界の物事には規矩があり、それは破れないこと、しかし、血や雪(=水)は上から下へ、それを抜けて流れてゆくことを示す。

 この鵜山仁演出の『日の浦姫物語』は、物語が悲惨を極める頂点で、巧妙に、ドライに、面白くなる。日の浦姫(朝海ひかる)と魚名(平埜生成)が事情を知り、赤ん坊と自分たちの関係性を詳しく説明するところなどがそうだ。悲惨と笑いは紙一重、すれすれに演じられる曲芸飛行のようだけど、そのせいか、日の浦姫の感情のつながり、魚名の当惑、混乱などはきれぎれで、薄まる。平埜生成、声を張ると割れちゃってがっかりだ。「魚尽くし」いまいち。弓を引くシーンはよかった。(沢田冬樹も)。

 舞台の上ではいつでもツブテがお手玉になり、お手玉がオアシや食い扶持にかわる。その可変性、小石が魔術師の手の中で美しい羽に変わるように、目をぱちぱちさせながら、水が絵巻物の中を流れ流れて格子を抜け、里を抜け、次第に海へたどり着くのを見守るのだ。