博多座 『二月花形歌舞伎』    (2018)

 為政者は逃げたり自殺したり、若い信奉者は狂奔し、こどもはころされる。そういうもんかも、負け戦とか、滅亡って。と、戦争映画を見て思った次の日の『義経千本桜』。これ、滅ぶってことが、凝縮されてるなあ。

 兄頼朝と仲の悪くなった義経中村七之助)が西国へ落ちるため、大物浦の船問屋渡海屋で船待ちをしている。実は平家の知盛である船問屋の渡海屋銀平(尾上松也)は、義経一行を油断させるため、配下の相模の五郎(中村勘九郎)と入江丹蔵(中村橋之助)に北条の侍を名乗らせ、わざと義経追討の舟を出すよう、銀平の女房お柳(中村扇雀)に強談判に向かわせる。

 浦島太郎と同じポニーテールみたいな髷をした人足たちが引っ込むと、「かかるところに鎌倉武士」、と太夫が語り、花道がちゃりりと開いて、相模五郎が舞台上手の渡海屋の奥までずんずんと歩いてくる。黄色の格子がパッと目に立つ茶に見える着物、中に濃い空色がちらりとし、足元はうす水色の股引(?)。眉をぴくぴくさせるのに気を取られているうち、サァサァサァと押し問答になる。このサァサァっていうの、実はすごく難しいんだよね。気をそろえてやらないと、気抜けしたみたいになる。五郎の着物のわきが割れているのはなぜかしらと考えているうち、銀平が登場。通る声、大きなアイヌの厚司を着て、厳しい、かっこいいかんじ。丹蔵を煙管で取っておさえ、五郎の刀を鍔元近くぐっとにぎって動きを封じる。ここ、ちょっと惜しいのは、この威のある感じが、着物に乗り移ってないとこだな。五郎の刀は舌を磨く道具のようにU字形に曲がり、店の外に放り出された五郎と丹蔵のコミカルなシーンになる。五郎のセリフが魚尽くしになっているけど、難しそう。魚の名前がいっぱい入っていて、魚を聞かせるだけじゃなく、セリフになっていなければならないから。それよりも、店と外とで、ぜんぜん別世界であることに気を取られた。コンパスの針の先のように、力のかかっているところ、次元の違う穴のようになっているところがある。目で探るとそれは銀平女房お柳で、チャリ場でコンパスの鉛筆が円を描いている間も、体の中の音を聞くようにすごく集中しているのだった。お柳こと実は安徳帝の乳人典侍の局の、この集中は終幕まで途切れない。黒襟のかかった紫の着物、暗い色がシックで深い。思いが深いのか。義経一行が現れて酒を飲み、その間お柳は夫銀平の天候を見る目が確かなことを語るのだが、朗らかな調子と裏腹に、何かあるよねと思うのだった。義経は御曹司だけれど、花道を歩くときに、そこが花道だから歩いているのじゃない、自分と一党のゆくさきを自分の目で決めて歩いている感じがした。

 銀平娘お安は実は安徳帝であり、知盛と典侍の局が正体を語ると、見えない幕がはらりと外れたようになり、3人のいる構図が動かし難く、とても安定したものに見えてくる。

 知盛は美々しい戦支度の白装束で、義経を追って海に出ていく。女官の姿に戻った典侍の局以下の女たちと安徳帝が沖の戦を見守る。そこへ、戦の捷報を携えて五郎がやって来る。負けているということを身振り手振りあわせて語るけどこれがほんと捷報、テレビニュースみたいでアクションが「ひとりジョン・ウー」ってかんじ、この後追って負けを伝える丹蔵は、自分の体ごと敵を刺し、後ろ向きに海へ飛び込む。凄惨。戦争だねー。

 典侍の局が安徳帝に悲しい覚悟をさせるけど、彼らは自殺を阻まれる。滅びは必ず無垢なものを打つ。でもその滅びの「理(ことわり)」は無残すぎるから、ひとまずここでは安徳帝は救われる。義経が庇護するというので、江戸時代から今日に至るまでの観客全員が少しほっとし、典侍の局と知盛の成り行きに集中することができる。

 疲れて疵だらけの知盛は、しころも袴も血にまみれ、右目の上にも鮮烈な血痕を見せて、4人の敵と薙刀で鋭く戦う。口の中が赤い。それでも平家の無念を晴らすための戦いを止めない。弁慶(片岡亀蔵)が来て数珠を掛けるけど、知盛は歯噛みするように怒り狂い、数珠を引きちぎってしまう。あら無念というと薙刀はふるえ、生きかわり死にかわり恨み晴らさでおくべきかというと、観客の心が怖さにふるえる。その執念を松也が大きく演じるので、こんなに大きく演じてクライマックス大丈夫?とちょっと思うが心配いらない。もっと大きくやるんだもん。安徳帝の言葉(その言葉が典侍の局のこころにすうっとはいり、彼女に刃をもたせる。うつくしい、無残な死。)を聴き、典侍の局の死を見て、知盛の主を見る目は急にかすみ、吐く息は苦しそうで、世界が突然色を失ったように見える。知盛の無念が諦念に変わるのを静かに義経が見守る。

 碇の置かれた岩に知盛が上がるとき、ききなれたチャンバラのテーマが鳴る。ここからきてるのかー。知盛がおさらばというと義経がさらばと返し、ここからは実録物というか、身を投げるまでの時間は観客の時間と同じだ。重そうに碇を倒し、体に碇の綱を回し、ぎゅっと結ぶ。痛そう。合間につく息はまだ若い青年の息だ。碇はとてもおもく、知盛は渾身の力でそれを持ち上げて後ろへやる。その碇が、まず海に落ちる。綱が次第に海に持っていかれる間。手をぎゅっと握り合わせて祈るような身振りをして、後ろの海に向かってあおのけざまに飛ぶ。凄絶。

 (滅んだ...)と思う心を、安徳帝が生きてることと、弁慶の法螺貝が、なぐさめてくれるのだった。

 

 

『鰯賣戀曳網』

 三島作品です。めっちゃ難しいんじゃないのと腰が引けてる。『サド侯爵夫人』の重量感、『黒蜥蜴』の複雑な愛、『鹿鳴館』の立派な感じ、と、おもしろいけどわからない。それは三島自身が多くの矛盾を持つ人だったからと、演出家のD・ルヴォーさんが云ってたなあ。

二つ目の演目『鰯賣戀曳網』、題名の画数もやたら多くしんぱい。幕が上がると、京の五条大橋が太鼓橋のせりあがる正面を見せている。上手から駕籠で来たなあみだぶつ(片岡亀蔵)、下手から博労の六郎左衛門(尾上松也)。松也さんさっきまで凄かったのに、茶の着物に黒の格子、ストライプの粋な脚絆を巻いて、とんぼりしている。この落差。馬も登場。馬の胴を二人で担ぎ、茶のゆるめな半パンツの下から、茶色の足が出ている。(馬に見えるなあ。)と感心する。馬と六郎左衛門は上手に去り、花道を鰯売りの猿源氏(中村勘九郎)がやってくる。

 「伊勢の国の阿漕が浦の猿源氏が鰯かうえい」。鰯売りの売り声が尻すぼみに弱弱しく、元気がないのがかわいい。うすももいろの鉢巻をして、「中村格子」の着物を着ている。若い、やさしい男の子って感じ。父の海老名なあみだぶつは元気のなさのそのわけを尋ねる。

 猿源氏は、ふと街で見かけた美女に心を奪われ、恋煩いなのだった。美女は遊君の蛍火(中村七之助)で、高家大名の席にしか出ない。息子の恋を知ったなあみだぶつは、一計を案じ、猿源氏を関東から来た大名宇都宮弾正となのらせ、六郎左衛門や鰯売りの朋輩を家老家来に仕立てて、蛍火のもとに乗り込んでいく。

 んー、大名家のお雛様みたいに古雅でおおらかな話だった。最近のお雛様ってさ、華奢なちいさい顔にぎゅっと目鼻が詰まって、やたら賢そうでしょ。でもお大名のそれは大ぶりで、顔も丸くて広く、そこにゆったりと目鼻が描かれている。全員お雛様の芝居のようにおっとり。その悠長な空気の中を、一人猿源氏が、鰯売りの自分と大名に化けた自分の間を一生懸命小魚のように泳ぐ。蛍火にいろいろ聞かれて「え?」と頭の上に響く、頓狂な声を出したり、「不在と申すか」としゅーと空気が抜けちゃうようにしぼむところとか、とてもチャーミング。これ、巧く、そして巧すぎないように、お客に凭れないようにやるの、凄く難しいと思う。巧くて巧すぎない道は、一筋の糸のように細いもの。

 七之助の蛍火は立ち姿で現れたり、後姿で去るところで、お客がいちいち(はっ)と息をのむほどうつくしい。お庭番(中村橋之助)出るシーン、すこーし唐突かなあ。三島由紀夫のせいかもしれません。