新宿武蔵野館 『ある船頭の話』

 ふーん。オダギリジョー、一撃で日本映画の「なあなあの背骨」折ったね。そのことでオダギリジョーが何としてもこの映画を撮りたかったのが何故か、わかる。撮影クリストファー・ドイル、衣装ワダエミ、音楽ティグラン・ハマシアン。村上虹郎川島鈴遥の若い二人に対する演技の演出もきっちりなされており、二人がぽかんとするシーンが一つもない。世界へ出て、つらい思い(たぶん)をしてきたオダギリの経験が十二分に生かされている。

 でもさ、クリストファー・ドイルの映像――ここに映る水こそが美しい女である――を観るうち、複雑な気分に襲われる。なぜ日本にはクリストファー・ドイルがいないんだろ?スタッフを育てる資金は十分なのか?なんでも「なあなあ」で済ませていない?

この映画のドイルが素晴らしい仕事をすることで、日本の役者が過去、「繕いものをするように必死になって、」怠惰な映像が語らないことを代弁してきたことがあからさまになってしまった。このような凄い撮影の場合、皆クローズドな「居る」状態で映ってOKなのに、役者は何かを言おう、表わそうと皺の一つまでもがオープン、これ見よがしなのである。そしてなんといっても、ダイアローグが、めっちゃまずい。説明台詞が多く、歯の浮くような(ひかりのひとつがおやじさんのような気がしてなあ)言わずもがなの言葉の群だ。皆大変苦労して硬い台詞をいい、音声のSEはわざとらしすぎる。

 オダギリジョー、なかなかやるということは分かった。次は説明を排し、台詞を磨き、スタッフにお金をかけて、出来ることなら育ててほしい。さもないと私たち、観る側も撮る側も、どんなに一生懸命逃げ出したって、最後は説明の海でおぼれ死んでしまうだろう。細野晴臣、淡々としていてよかった。