TOHOシネマズ渋谷 『思い、思われ、ふり、ふられ』

 ひとつ、とてもはっきり云えるのは、「私はこの映画に求められる観客層じゃない」ってことだ。

 同時に森茉莉と妹の杏奴が(戦前かもしれない)、お涙頂戴の邦画を見に行っては互いの体を叩きながら笑ったという話も思い出す。

 まず、これ映画なの?長いプロモーションヴィデオじゃなく?だって誰も芝居してないじゃない。ドキュメンタリーでもない。ビクトリア朝の夢見るセンチメンタル写真のように、皆、「こういう風に撮られたい私」を押し出しているにすぎず、早い話が「すてきな自撮り」「すてきなアー写」だよ。

 「お伽噺」であることを意識してか、画面の展開はおそろしくゆっくりで、観ているこちらの頭の回転を、ことさら遅くするのに一役買っている。戦前かと思うくらいだ。

 浜辺美波は冒頭で恋を「こーい」と発音する。それどうなの。浴衣でお宮にいる時、袋を取りに画面奥へ2,3歩歩くが、その2歩がもう、「歩けていない」。なぜ練習させないのさ。射的でとるサルのぬいぐるみは射的屋のおじさんの趣味を尊敬するほどかわいいのに、由奈(福本莉子)の抱きしめているウサギは心の底からいただけない。あんなウサギをかわいがる女の子の運命への興味は、削がれるに決まってる。勝手にくっついたり切れたりする大人たちの陰で、苦労をしている子供たちは、布で巻いた、鋭利な鋏に胴を締め付けられるような重圧を感じながら生きているのだろう。その苦しみはうっすらわかるが、うっすらでしかない。「今の若い人は、ちょいちょい告るのだなあ」「浴衣着ることに人生の比重がかかっているなあ」という方向に気が逸れちまう。「やっとつかまえた」という赤楚衛二、つかまえ方かっこよくない。説得力ない。監督は演出しないの?見てるだけ?