代官山 晴れたら空に豆まいて 『LIVE MAGIC! 2021 Online』

「ライブ・マジック エクストラ」よりさらに5人少なく35人、なんかゲームのサバイバーみたいだけど、あたりました、今日も来た。くじ運がなくて、競争に弱く、子どものとき、棟上げ(家を建てる祝儀に、家の骨組みに大工さんが上がり、餅、小銭を撒く)で餅拾えたためしがなかったのになあ。上手の壁の作り付けの腰掛に、濱口祐自が座って話してる。真っ赤なジャケットに黒いつばつき帽。わくわくする。ふふふ。5人少ないだけで、前回よりも何か整然としている。お客さんが落ち着いてて、黙ってるのだ。うわーいって感じじゃない。ふふふってかんじ。

 「晴れ豆」の入り口はいって正面奥がステージだけど、客席を挟んで後方右手にもう一つ小さい舞台があって、そこにバラカンさんがいる。なぜか欄干と擬宝珠がある。小舞台に正方形のテーブルが運び込まれ、そこにPCが載ってて、それをみてる形。PCの隣に置かれた白ワインのグラスが光を集めてる。

 5分前にコロナ関連の諸注意などがあって、19時、始まりました。ユザーンとマバヌアです、と言ってさっと始まったのだが、え?え?となっちゃって全然追いつけない。U-zhaan(日本のタブラ奏者。)とmabanua(日本のプロデューサー、トラックメイカー、ドラマー、シンガー だとウィキペディアにある。本日はドラマー。)、二人はリモートで共演しているらしい。ユザーンのスタジオ(稽古場?)には織の絨毯が黒いソファの前に置かれ、その上に大小8つの太鼓がある。太鼓には銘々マイクが付いている。マバヌアのスタジオ(稽古場か?)には白いソファ、髭の濃い若い人で、グレーのTシャツと黒の短パンだ。アンビエントな感じの音楽に、それぞれが拍を(?)入れて行っているのだ、というところまでやっと理解する。1曲めのFluffyでは、ユザーンの小さい太鼓が聴こえない。あらあらあら。だめだね。ユザーンは小さい太鼓の頭を撫でてやっているように見え、これじゃあ裂帛の気合のドラムスと勝負にならないよな。

 しかし、2曲めはちがった。細かく早く正確なユザーンの音を捉えて、ドラムスがタブラの拍の頭(拍と拍が、せまい!)にシンバルを入れ、硬い音を鳴らす。かっこいい。現代的。ユザーンの太鼓も手前の大きいものになり、音は鋲を打って進むようで、左手は手首を太鼓につけ、右手は指先で、すごい速さで刻む。ドラムスは時間をカット、スライスしながらあっさり事もなげだ。音の断面が見える。ぴかぴかしてる。ユザーンのこみいったセーターが気になっちゃって気になっちゃって、メリヤス編みのセーターが肘のところで思いついたようにガーターになってて、胸に半分溶けたスヌーピーのような、鳥のようなマークが入ってる。深緑とからし色がきれい。

 全体に、聞き取るのが難しかった。説明もほしかった。リモートでこれだけの演奏凄いとは思うけど。

 次はラーキン・ポーのヴィデオ。青っぽいピンクのソファにメガン(バラカンさん発音、右側、姉)とレベカ(おなじく、左側、妹)がすわり、右手のスタンドライトから青っぽいピンクの光を浴びている。左上方に銀色と黒のテレキャスターストラトキャスター?が掛けてある。レベカは髪をセンターで分けてギターを弾く右の前腕に髑髏のカードを引く手が描かれている。メガンは前髪を作って下ろし、すこし顔を隠し気味。机の上にスティールギターが平置きされている。She’s Selfmade Man、晴れ豆で実際に聞いたときには見えなかったのだが、字幕でみると訳が「一代男」になってる。驚いた。西鶴か。「一代で財をなす」の連想だろうか。日本語になっとらん。カーンと突き抜けたヴォーカルでレベカは歌い切り、そこへスティールギターが入ると、全てがしっかり包まれたような、なんていうか、もっと大編成の音楽を聴いている気分になる。スティールギターに安定と大きさがあるのだ。2曲めのHoly Ghost Fireを聴いていたら、サビのBurn!っていうところで、レベカの額と鼻が、水面から出た背泳ぎの人の顔のように、映写幕から「出て」、こちら側に来た感じした。でも全身じゃない。まあ、全身出た感じしたら、来日公演要らなくなっちゃうけどさ。最後の曲の歌詞、やることということが一致しない人は嘘ついてるんだよ!というのを遠い親戚のお姉さん(て若いけど)の忠告のように聞きました。こういうのが、「シスターフッド」なのかもね。

 次のヴィデオはアーレン・ロス。ニューヨークからだ。1977年と1982年に来日しているのだそうだ。スティール・ギター(平置きじゃない方)がすっごくうまくてかっこいい。後ろに自分の部屋(スタジオ?)の壁いっぱいの作り付けの本棚があり、ずいぶん中身が外に出てるらしく、残った本がみんな傾いている。アーレン・ロスはずっと人前で演奏して生きてきた人なんだなということがヴィデオを通してわかる。カメラに向かってひとり演奏するのが、見ていてなんかさびしそうなのだ。漠然とした不安感(「届いているのかなこれ?」的な…)がある。「Landslide」「Tambling」、びしっとした出来なのに、アクースティックギター(バラカンさん発音)に変えた「Cruising Coupe」は、不安感が頂点なのか、「とめ」「はね」「はらい」はしっかりしてるのに、中間部分が何か練習ぽい。つづく「Burnt Child」はギターの音が、ギターの心臓から、ちゃんと出てるのに、声はマイク通してなくて、なんだよって感じ。漠然とした不安が、ここに出ちゃっているよね。ミュージシャンの人全体の不安を、ふと考える。(コロナ。いつまでつづくのだろう。)最後は田舎者の女の子の歌でした。

 青いボーダーTシャツで、ギターの中をそっと覗いているみたいに淡々としているのに、つよい絃のうねる連なりが、かっこよかったね。

 途切れずライブは続く(Majestic Circusと民謡クルセイダーズは省略しています)。大阪の20歳の女性ギタリストKOYUKIの演奏だ。6月10日にデビューしたそうだ。

トミー・エマニュエルの「Only Elliot」をまず演奏する。ああ~二十歳にしか出せない音だ~。と思うのだ。なんかグリーン・ノートの香水みたい。爽やかだ。そりゃあトミー・エマニュエルに比べると、「音を支配下に置けてない」かもとは思うけど、このいまの音が、トルコ石のついたすてきなテンガロンハットを、ぎこちなくかぶり直す若いKOYUKIに似合ってて、とてもきれい。「ワルプルギスの夜」(オリジナル)、カヴァー曲2曲、「Early Bird」(オリジナル)、ときて、最後の「Green Witch」で、腰を抜かした。ひとつ前の綺麗な曲が、朝ドラみたいな、万人受けする曲、とがっかりしていたので、驚きもひとしお。手あかのつかない、嶮しい曲だ。これ、ミュージカル『ウィキッド』のエルファバ(手あかのつかない、嶮しい女の子)をモデルに作ったのだそうだ。とても心の深い所から汲み上げた曲のような気がする。素晴らしかった。

 夕焼けみたいな色調の、キズの入った凝った映像で始まるエチオピアと日本の民謡交換プロジェクトは、エチオピアモーセブカルチュラルミュージックグループと、日本のこでらんにーという現代民謡グループ(?)のライブだ。一弦のみの絃を半月型のラフな弓で弾くのに、意外なほど表現力のある楽器(マセンコというらしい)と、津軽三味線が控えめに、でも段々熱っぽく掛け合いをする。ソンブレロをかぶった日本側女性と、エチオピア語で共演する(リモート)歌もある。それとは逆にエチオピアの人が3人並んで「えんやとっと」とずーっと掛け声をかけてくれるシーンもある。

 よかったんだけど、「意志の交換」はどこまでできていたかなあ?日本の人ははっきりと「おもしろ」プロジェクトと認識してるみたいだったけど、もうちょっと深い次元で面白かった方がよかったんじゃないの。そのためには、なまのライブが必要だよね。

 サム・アミドンは、自分の家のスタジオで、ヴィデオを撮っている。赤い、ごく薄いカーテン、赤いきのこのようなランプ、白い引出しの箪笥の縁には、きれいな模様が描きこまれている。その奥には窓があり、緑の木々、白いガーデンチェアがうっすら見える。サム・アミドンはとてもヴィデオカメラに近く寄る。子供のころから撮りなれ、撮られ慣れ、している人の位置だね。もしかしたら、ふざけて「自分のステージ」をこっそり録画した子供時代があったのかも。水色のマグカップに紅茶のティーバッグを浸したまま、時折口にする。おーうーちー。後ろで明るい緑がぼんやり揺れる。サムの麻の細かいチェックのシャツの身頃に、初夏の光線が透けている。

 バンジョーを右胸の上の方に構え、横顔を見せて自分の出す音を聴く。「Light Rain Blues」、ふりつづける小雨の伴奏だ。かすれ声も歌の一部らしい。もし間違ってかすれ声を出していたとしてもあまり堂々としているし、成立している。違和感ない。字幕、「降り」だよ、「振り」じゃない。わざと?フォークって綴り間違いが多いって何かで見た。それから「As I Roved Out」、冬の寒い夜、突然失恋したことに気づく男。彼女が恋人といたんだろうね、サムの声は正調フォーク歌手のとてもいい声で、いろいろ実験したくなるのわかる。ギターもフィドルもうまい。フォークソングには殺人バラッドという分野があって、その中の一曲を歌う。連れ出されて殺されるポリー、誘い出したウィリーは前の晩ポリーの墓穴を掘っていた。これどう受け取ったらいいのかなー、若い女への警告と、「あ殺されちゃうよ」というドキドキを味わう、かちかち山スタイルかな。こちらを見るサム・アミドンが表情を押さえているのでちょっと怖い。な、コワイだろって感じだ。最後の歌は妻子ある男が若い女と駆け落ちするものだったけど、こっちは何も起きない、天罰がない、不公平だ。そういえば「女を外に出すな」っていう歌のフレットレスバンジョーの音が大人っぽくてよかった。でも「おんなをそとにだすな」ってさあ。ありえん。その曲の終りにサム・アミドンは「家でギター弾きすぎた人」みたいにめちゃくちゃに音を出してて、それでも一番おわりのコードはピシッとしていて、あきれたり感心したりした。このようにしか、歌いようがないよね。

 濱口祐自、六日も酒を抜いて、かっこいいブルースのフレーズがどーんとくる。きたーきたきたと思う。ライヴマジックだね。時折フレットを押さえるほうの左肩をきゅっと上げつつ、濱口祐自は危なげなく弾く。でも、すっごい練習したってぽろっというから、ギタリストも大変だね。とてもとても緊張して、「てがすべらんことをいのるわ」といったりしていたが、今日弾いた「枯葉」がとても繊細。ベルギー極細ボビンレースで作った美しい華奢な枯葉だった。最後に響かせる「ぴーん」という音もいい。今日の濱口祐自の話はどれも可笑しくて、私はお腹の底からこっそりわらった。「ショパンショパンコンクールに出たら予選でおちる」というのがほんとそうだなと思っちゃったよ。情景が見える。講評を聞くショパン

 さて、「隣に住む四つ年上のにいさん」が弾いてくれたウクレレの「禁じられた遊び」で感動してギターを始めた濱口少年が現在弾く「禁じられた遊び」だ。ナルシソ・イエペスの弾く曲が有名だから、私も耳の底にきちんと残っている。濱口祐自は最初の主旋律を響かせない。音の一つ一つがぽつんとしている。しかも最初だけ。んー?となったが何だろ、あれかな、あそこは子どもの声(パリ脱出で親とはぐれた少女と、農家の少年が十字架のお墓を作って遊ぶ)なんじゃないかなあ。だったらもうちょっと丸い音でいいなとおもった。転調のとこ微かに失敗してたけど、あれは過去を思い出す大人の声だったりして。