三島由紀夫没後50周年企画MISHIMA2020 『真夏の死』

 ぱっと見、背もたれが梯子のように長い椅子が二つ。砂浜らしいところに並んでおかれている。『真夏の死』。この椅子は海を向いているのだろうか、何か待っている感じがする。原作通りだ。しかし、この椅子と向かい合う観客席というのも、何かを待ち設けている感じがするなー。

 子ども三人と夫の妹と共に、海へやってきた朝子(ともこ=中村ゆり)は、事故で上の二人の子と義妹を喪う。三島の喪失と悲嘆、回復と予感の物語を、椅子に腰かけた朝子と夫(勝=平原テツ)が小さな声の(出た!マイク!)話し言葉で「語りなおして」ゆく。中村ゆりの「語り直し」は、まるで精神科医に「告解」しているように聞こえる。夫の語りも同じく、自分の心を詳述する。しかしこの二人の話を聴けば聴くほど、どちらの心も全くかみ合わない。たとえば夫には朝子の女性器が崇高なものに見えるが、朝子には事故後に産んだ娘が器官の一部にしか思えないようだ。朝子は泣くことしかできない自分にいら立ち、夏の暑さの中でしかまざまざと罪悪感を感じられないことで身を苛み、ライヴハウスに出掛けては愉しさとの落差によって痛みを確認しようとする。

 「暑くないだけで忘れちゃうようなら夏は終わらない方がいい」

 痛みという物はいたくないときがあるから感じられるので、始終痛ければその痛みは鈍麻してしまう。朝子はその鈍さをとても恐れる。

 幕切れは「それしかないよね」という終わり方であった。朝子が最後の行動へと変わる所の演出が、心象をよく表していていたと思う。でも、あの女性器云々の箇所はどうなのか、そんなとこまで比較するのかといううんざりした気持ちになった。