世田谷美術館 『民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある 』

第二次大戦がはじまるちょっと前に死んでしまった若い詩人は、生前こんなことを言っていた。僕の理想の家には長火鉢があって、それを前に着物を着たまだ見ぬ僕の奥さんが座っている。しかし、スイッチを押すと部屋は一変し、椅子に洋装で、さっきの奥さんが腰かけているのです、みたいなこと。前近代と近代、伝統とモダンの間で揺れる大正・昭和期の日本人は、どっちもいいなあと思っていた。和風と洋風の緊張の中から、新しい価値が生まれてくる。古いものをモダンの目で見直す、『民藝』だ。古いものは埋もれていた。ほめられもせず、くさされもしない。ただ黙って物の役に立って、古びて捨てられようとしていた。柳宗悦はそこに美しさを見る。ここが革新的。新しい美の発明じゃなかろうか。

 今回の民藝展に入ると、まず柳が1941年に提案したという居室の展示がある。見たとこ、駒場の民芸館の向かいの柳邸にそっくりだ。厚さ4、5センチの松製の大テーブルは軽い茶色で、ちっとも権威的でない。濱田庄司の藍鉄絵紅茶器が、赤と黒の漆の大胆な盆にのせてある。土瓶が蓋を平たく設えられ、すこしデザインだけど、それで紅茶を淹れるっていうのが意外で、そのせいで大きくふっくらした姿も紅茶につきすぎず、明るい感じがする。大テーブルにはこのほか、大ぶりで重そうなレンゲや蝋燭立てや湯飲みが、沢山載っているが、いやな感じはしない。せまくない。(1941年の展示には、花が飾ってありますぜ。)ラダーバックチェアも、編んだ座面が畳と仲間な感じがする。美しい。この展示では、きもの、食器、台所用品、各地の民藝、手つかずの地方としての沖縄の物などが陳列されている。

 中で私が一番美しいと思ったのは、「蝶小花紅型着物」だ。明るい、深い空色に、赤、黄色、臙脂の線描きが見える。パッと目を捉える鮮やかさで、うっとりする。ところが、近寄ってみると、黄色に見えたのは実は臙脂の線をにじませた白に近い色、色とも言えない色で、非常に地味な、地道で手堅いステンシルであることがわかってくる。5歩離れた時と、1歩まで近寄ったときの、この差。

 それは鹿沼箒という箒にも感じられて、5歩離れてみると箒の穂先の並びは、まるで広重の雨のように美しく、束ねて盛り上がった胴の始末も丹念で、箒の穂をそろえるための赤と黒の縛りの編み方も隙がない。しかし、1歩に近寄るとそうはいかない。鹿沼箒の各部すみずみまで力があふれ、眺めている私にこう言う。

「ソウジヲセヨ」

ふーん。こういうことか。台所について語る(台所の美しさについて語る)柳の言葉が、家事の苦手な私の目に入り込む。

 「行き届く主婦でもゐれば台所はそれらのものゝ見事な陳列棚である」

 柳の妻は自立して働き、柳の仕事、柳の収集をたすけた。とすればメインテナンスはだれが?女中さんだね。お手伝いさんがやっていたに違いない。民藝運動は、台所から5歩離れた人たちがやっていたのだ。台所をはいずって、必死で鍋底を洗うものには見えない美。

 一時期手あかがついたものになって消えていた民藝が息を吹き返したのは、食洗機の普及と関係ないかなあー。民藝の食器は丈夫だが、重い。それに、沖縄の仏壇は清らかで美しいが、それを飾る柳は、沖縄から10歩以上離れている感じがする。

 二階には現代の民藝と現代の蒐集家の居室がある。でも、展示が攻めてない。5歩と1歩がわからない。結局、民藝って、モダンの眼ってことで終わりだろうか。柳宗理が、工業製品(ジープだったか)を『民藝』誌上に載せ、すんごい怒られていたのを思い出すのである。