世田谷パブリックシアター+KERA・MAP#007 『キネマと恋人』

カイロの紫のバラ』。現実逃避の果ての、ビタースウィートな映画。それをケラが舞台化、トラムでかける。ゼップでボブ・ディランを見るような、ブルーノートノラ・ジョーンズを見るような贅沢だ。

 スクリーン。真ん中に一つ、上手と下手にも小さなスクリーン状のものが下がっている。スクリーンにはかすかに皺が寄っている。煉瓦の壁。高い壁に、うっすら影が落ちている。と、スクリーンに映写機の音がかぶさり、古い映画が始まる。スクリーンの下では、椅子が踊るようにしなやかに動かされて(振付・小野寺修二)、昭和初期の映画館の客席となる。皆、映画を見て笑っている。幸福感を感じる。映画を見ているときの、気持ちだな。

 ここは小さな島の港町にある梟島キネマ。一週間交代で周回遅れの映画が封切られる。それを何度も見に来る映画好きの女、森口ハルコ(緒川たまき)。ハルコの夫(三上市朗)は失業中で、ハルコがかしずくのを当然のようにふるまい、横暴だ。ある日時代劇を見ていると、ハルコの好きな俳優高木高助(妻夫木聡)演ずる寅蔵(妻夫木聡二役)と、ハルコは目があう。

 緒川たまきが渾身の芝居、夢二の女みたいで、もっと生き生きしている。「こんセリフ読んでみて」と横目で高木を見る顔、泣き顔を隠す手までがとても叙情。高木が歌を口ずさむシーンは、複雑な心をよく表していて、それでいて邪心がない。ハルコの妹ミチル(ともさかりえ)が猪突猛進するシーンは台本にもう一工夫あってもいいと思うが、素晴らしいラストで全て帳消しになる。ふと煉瓦の壁に目を移すと、そこは周囲に弾かれた牢獄のようで、哀しみから自分を切り離す、砦のようなのだ。芝居を観終えて、しずかに、映画を見る時の、あの気持ちが再び襲ってくる。

Zepp ブルーシアター六本木 『あずみ  戦国編 』

 「そば焼き作ってきて。」と女中に頼んでのん気にしてたら、お城の台所の方が火事。思えばそれが落城の日だったのです。という大坂城落城ドキュメントを読んだばかり。今日の『あずみ』はそんな話じゃない、もっと鋭く厳しい。

 戦国時代、孤児となった子供たちが刺客として育てられ、一種の戦斗マシーンと化している。彼らが教え込まれているのは、「天下のため、徳川のため、泰平の世のため」に尽くすのが、正義であり、自分たちの使命だということだ。孤児の中でもぬきんでて腕の立つ少女、あずみ(川栄李奈)。あずみは菩薩か夜叉か。加藤清正(久保田創)をつけ狙ううちに、その心に迷いが生まれる。相対する勢力のどちらも、各々正義を持ち、使命感を持ち、平和を希っていると知るのだ。

 そのことをこの芝居で最初に口にするのは、意外にも快楽殺人者の最上美女丸(早乙女友貴)である。目の覚めるような殺陣(タテ)、太刀筋までが美女丸のように妖しく生き生きしている。

 あずみは、失って、失って、失い続ける。清正を殺そうと懐から覗く刀の柄を握る手に、重い迷いと混乱があってもいい。

 あずみを助けるうきは(鈴木拡樹)はアンドレ(『ベルサイユのばら』ね)みたいな損な役回りで、あずみ、もっと好きになってあげてー。と思ってしまう。豊臣秀頼小園凌央)、首から上だけでしか芝居してなく、体が死んでいる。しかし、セリフに愛嬌があり、観客に聴かせる力がある。がんばれば、伸び代のある人だと感じた。

 星田英利、最初の独白の「ひでより」の「より」が聴こえない。声を大事にしてね。最後のあずみのセリフが、どんどん深まっていくことを期待します。

てがみ座第13回公演 『燦々』

 葛飾応為。画師。北斎の娘。本名お栄だが、父親から「アゴ」って呼ばれてた。小さな人形を作るのが上手で、これがよく売れた。画師に嫁いだが、夫の画のまずさを笑っちゃって、離縁。代表作は『吉原格子先之図』、『夜桜美人図』など、光と影を巧みに描き分けた美しい絵が残っている。

 「夫の画を笑って離縁」、他人事とは思われない、私もやりそう、「お前様、この線は何ですかい、ふっ」。「ふっ」って笑ったのか「ははは」って笑ったのか。蔵で、手文庫で、納戸で、歳月に曝され腐(くた)れていく豆人形や、掌に蛍をとらえて指の隙間から洩れる光をじいっと眺めるお栄が見える。「お栄、よしな、手が汚れる。」晩年、猫のように飄然と姿を消したのだそうだ。

 断片的な印象をじゃらじゃらさせて席に着くと、そこではお栄(三浦透子)が走る。火事を求めて走り、行く当てがないのに走り、善次郎(速水映人)の急を聞いて走る。お栄の伝説が、その瞬間、みな三浦透子の躰に貼りつくようだ。手入れされない、じゃまっけな「女」の長い髪を揺らして三浦は走る。他の人々が、竹の棒で作り出す江戸の町を、北斎漫画の世界(すてきだった)を、いっさんに。

 暗闇、暗がり、薄明り、夜明け、白昼、走るお栄を光が照らす。髪に紅い簪、「からだ」と物語が、うまくくっついていたと思う、もっと走っていい。前作では主人公の心理が、作家のつよい圧で枉げられていると感じたが、今作ではそんなことはない、登場人物がきちんと自分を生きている。

 「ちくわ、食う?」ってとても無骨で、必死で、いいセリフだと思う。大切にね。速水映人の二役におどろき、版元西村屋(中田春介)が見て見ぬふりをしてくれるのがいいと思った。全体にセリフがぶつ切りに聴こえ、ちょっと惜しい。

世田谷パブリックシアター 『遠野物語・奇ッ怪其ノ参』

 地勢。たとえば、「明日から刀はなしだってさ」と海辺の町から平野を順繰りに、人々が腹立ちながら後ろの人を振り返り、奥へ奥へと申し送りする。と、不意に険しい山が現れて、もう次に伝える人が誰もいない。憤懣は山に当たって跳ね返り、高まり、とうとうこの地で士族の反乱がおきました。というふうに山懐の小さな城下町で考えたことを思い出した。遠野は盆地だ。どこから来るにも、どこへ出るにも、峠を越えなければならない。人間関係は濃密になり、噂はあっと言う間に広がる。すこし息苦しい。首をすくめて暮らす。でも大丈夫。遠野の人々は、「語り」を発見する。現実であって、現実でないもの、折り合いをつけて生きていくために不可欠なもの。正邪、真偽、生死の二元論で分けられない、果てしなく続くグレーゾーンの世界。

 凍った地面に雪がまだらに吹き付けたような、大きな大きなパネル。「狼(おいぬ)」とすぐ思う。鉄さび色のゆがんでちぎれた正方形の上に、黒い机と古い折りたたみ椅子が二脚、すこし離れたところにスツールがひとつ。この正方形を結界のように広い舞台から隔離する、不確かな銀色の柱と線。鉦の音。

 近未来の別の次元の日本、標準化政策なるものが推進され、「迷信」は激しく排斥される。作家ヤナギタ(仲村トオル)の聞き書きした「ノンフィクション」は事実か迷信か。

 聳える山のようなパネルが近く見えたり、遠ざかったり、時代がいつか分からなくなったり、理の通る世界なんてきっとほんのちょっとだけ、あとは「ただわからない」がずっと続いているのかも。伝承は遠野の「発明」であり「ただわからない」「ただおそろしい」地霊である。瀬戸康史、「発明」の向こうの地霊に言葉が届いていた。霧がふと晴れるようなシーンで、もっとびっくりしたかったなあ。

ビルボード東京 ヤエル・ナイム

 billboardと、ステージ正面に大きく吊り看板が出ていて、見るともなく眺めていると、活字の丸く囲われたところにみな色がついている。最初のbは紫、次のbの丸は赤、oはオレンジ、aは青、dはピンク。

 舞台下手にピアノ、ピアノの前にギターが立てかけてあり、隣のアンプ横にもギター(ベース?)、上手にドラムス。

 少し遅れて、ヤエル・ナイムが登場する。なんだかすこし恥ずかしそう。長い髪を簡単に頭の上でまとめて、肩が透ける黒いブラウスと足首のあたりが細くなった黒のパンツ、金色の、板状の変わったネックレス。グリーンと青の照明、ギターを抱えて歌い始める。喪失の歌。アルペジオする指が慎重でかわいい。2曲目はI Walk Untill、鉄琴だ。鉄琴の左手の撥をすい、と捨てて、ピアノに移行する。次に右手もピアノになる。耳を澄ましてピアノの音をよく聴いている顔だ。たった今、音を混ぜて音楽を作っているんだなあ。色水遊びを連想する。花びらをもんだり、食紅を溶かしたり、薄紫や赤や黄の透きとおる水を作って、混ぜて遊ぶあれ。混ぜる時のあの、息詰まる緊張。色水のようなあざやかな音が生まれてくる。ピアノの音がきらきらしている。ヤエル・ナイムの声は乳白色のガラスのようだ。すこしかすれながら出て、小鳥のようにきれい。

 『Older』は誕生と死について扱ったアルバムだ。大切な人を失って、子どもを産み、自分も死ぬのだと(生と死のサイクルの中にあるのだと思って)ちょっとパニックになりました。ふうん。でもライヴを聴くうち、心配いらない感じがしたな。なぜなら音楽こそがお産婆さんで、また死の看取り手であるような気がしたから。

 「Walk Walk」をうたうとき、コーラスを観客に歌うように言ってくれたのだが、東京のお客さんはシャイだった。私もちょこっと声だしたけど、自分の声で現実に引き戻されちゃって、あまり歌えず、ごめんなさい。

 マルチニーク島のクレオール語(一緒に音楽を作っている夫のデヴィッド・ドナティアンの故郷)の歌を歌うと、ビルボードの背後の幕がすーっと開いて、背後の公園のイルミネーションが見える。田の字形をいくつも延長したような「カーテンウォールシアター」だ。田の字の四角い仕切りはすべて揺れる繊細な白いカーテンで出来ていて、風にふわっとなびいている。そこにとりどりの色の光線があたり、端から端へ、「色が渡っていく」。鉄琴の音色とやさしい歌声、夢を見ているような景色だった。

劇団チョコレートケーキ 第27回公演 『治天ノ君』

 万世橋にあった交通博物館で、「お召列車」というのを見たことがある。木のベンチが据えられた殺風景な三等車両が、「こんなもんでいいや」という投げたような質実さだったのも悲しかったが、お召列車の総絹張りや装飾の漆塗りや金細工は、「かならずこんなものが似合うひとであってくれよ」という、時代の強い要請が感じられ、それもやっぱり、悲しかったのであった。投げられるのも期待されるのも、つらいものだよね。

 劇団チョコレートケーキの『治天ノ君』は病弱であったと伝えられる大正天皇に光を当てる。舞台には下手奥に天蓋つきの玉座が設えられていて、背と座面は輝くように赤い。背もたれの真ん中に金の菊の紋章が刻され、目のように見える。暗い舞台には押し殺した叫びのような重い低音のノイズが聞こえ、ふと消える。明るくなると、玉座から上手手前に向かって斜めに赤い絨毯が敷かれている。ドレスを着た女(貞明皇后節子=松本紀保)のしっかりした介添えを受けて、よろけながら玉座に向かう男(大正天皇嘉仁=西尾友樹)。嘉仁の言葉は不鮮明で、体は思い通りに動かない。不自由な身体に囚われている若い魂そのものに見える。彼の身体を不自由にしているのは、実はきっと父からと息子からとに二重にかけられた枷のせいなのだ。皇室に明治の栄光を再びと願う人たち。しかし嘉仁は国中が飲まず食わずで頑張った明治のようにではなく、「ゆっくりやってもよいのでは」と考える。彼の考えは前代と後代に否定され、圧倒され、消去されるが、それでもなお嘉仁はミカドたらんとする彼の努力を止めない。玉座とその天蓋は、いつの間にか人々を飲む巨大な生き物のように見えた。すこし飛躍があってもいいと感じたが、緩みなく、一言ずつを刻みながら進んでいく芝居だった。

恵比寿ガーデンホール 『Live Magic 2016』

 あたり!マスターカードの福引で当たりが出て、ガーデンホールの二階からライヴが観られることになった。マッサージも10分サービスだし、ジュースも無料だ。やったー。くじ運の強さに大喜びしていると、次にあたった女の人が説明を一通り聞いた後、「ほかには?」と言っている。きびしい。笑った。じゅうぶんじゃないのー。

 12時に開場してフロアが食事する人々でいっぱいになる。ウサギさんのクッキーとブルーベリーマフィンを買ってしまう。ダイエットしているのに、という心をねじ伏せて気にせず食べる。いいんだ、フェスだから。丁寧に淹れたコーヒーを飲んでしみじみクッキーをみる。袋のセロファンにまかれたオレンジ赤のリボンが、ウサギの首の周りに結んであるみたいだ。見回すと、デートで来てる人もいるし、子供連れの人もいる。旧知の人にあいさつしてる人、皆のんびり。

 ホールの二階に入ってみる。リハーサル中だ。「あれ高田漣かな?」わからない。若い人だ。曲の初めをさらっているのを聴いて、やっとそうだとわかった。徐々に人が入ってきて、高田渡のファーストアルバムを通してうたうライヴが始まった。高田渡は有名なフォーク歌手だけど、知っているのは「値上げ」くらい。Youtube高田渡の曲を探して聴くと、どれも、詩人が若い時から持っている大切な詩集(ページは軽く開いていて、端は黄ばんでいる)を、自作他作を取り混ぜて朗読し、かつ歌っているような気がしてくる。その詩集を手渡されて、読んでいるような。古い活字がせまってくるような。

 高田漣の歌は、とても音楽的。そしてカラフル。大判の絵本を繰っているようである。時々ぴかぴかのその頁に光が反射して手が止まる。『鮪に鰯』の深海のグラデーション。鮪と鰯の間のグラデーション。そして、人と鮪の間のグラデーション。その可笑しみの先に、生と死の不確かなグラデーション、灰色のグラデーションがある。高田漣のやさしい歌は、高田渡を絵に描く。当事者性、衝迫度は薄れるけれど、その絵はとても独特で、面白い。高田渡が胸に抱いていた、明るい空色や、海淵のような遠くのグレーを連想する。

 ラウンジでは、ピーター・バラカン&シン・バラカンの「親子の溝」が始まる。シン・バラカン、初めて見たけどジョゼフ・ゴードン=レヴィットやらエドワード・ノートンやらに似た(いや、ピーター・バラカンに似てるんだけど)目元の涼しい、感じいい人だ。P・バラカンが最初にかけた曲は(マスタング・サリー?)、曲がうねっていて、コーラスが花が咲いたように華やかだ。機材や音源がいいのかもしれないが、ラウンジ全体にうねりがつたわるようだった。これに対してシン・バラカンが選んだのは、ハサミでグルーヴの先を切り落としたような曲。ふうん。おもしろい。片手に持った豪華な短冊を、ぱらぱらっと何枚も広げて見せてくれるようなのだ。ソウルの全盛時代と違った音がする。題名を言っていたけど流暢で聞きとれなかったよ。彼はヒップホップが好きなのだって。ヒップホップかー。何のイメージもないよ。ごめん。たしかmelting potといったと思うけど、それをかけたとき、あれっと思う。裏切ってくる音なのだ。次の展開がわからない。突然ドラムロールになったりする。いろんな曲がありますね。数曲ずつでこのイヴェントは終わり、草臥れちゃったのでちょっとエビミツへ。マーガレット・ハウエルで小さい買い物をする。ガーデンプレイスは親子連れが多い。三々五々連れ立ってくつろいでいる。空は広々、天気がいい。ついでに食事に行くことにした。

 

 ラウンジへの階段をあがっていると、空中をしなって飛ぶ鞭のような音が聞こえる。ひゅー、ぱちっ。弾いている人のすがたは十重二十重の人垣で囲まれてなかなか見えてこない。圧倒的なギターの音。人の首筋と首筋の隙間からやっと見る。ギターじゃなく、ドブロかな、膝の所に水平に置いて、右手で絃を弾き、左手に、何か光る四角なもの(ウィスキーの携帯用フラスコ、スキットルだとネットで見た)を握ってそれでフレットの上を素早く滑らせる。たぶんケルアックとかが好きな若い人にはごめんな例えだけど、子どものころ見た毛糸編みの機械のように見える。スキットルを走らせるたびに、音が編み出されてくる。高さが自在に変わる波打つ音。行者のような長い髪、考え込んでいるような顔つきだけど、時々見せる若い笑顔がとても無防備だ。28歳。お父さんがマイヒーローだといっていた。行ったこともないざらざらしアメリカの路上の景色を思い浮かべる、パルプフィクションでハニーバニーが強盗に入ったようなカフェテリアだとか、と思いながらウィキをみてびっくりする。イギリス人やん。いや、ケルアックが好きなイギリス人がいてもいいけど、スキットルを大きく動かすと音がうねり、観客の胸深くを撃つ、そして、爆ぜる。ギターに持ち替えて歌う時、じゃーんとひきさげるのではなく、下から上へ弾いて大きないい音を出していたのが印象的だった。手が痛かったのかもしれない。後で聴いたら、右手にほとんど骨折に近いけがをしていたということだった。

 

 バラカンさんのものすごく短い紹介で、サニー・ランドレスが登場。黒の開襟シャツ、グレーのジャケット、グレーのパンツを着て、グレーの髪に細い縁の眼鏡で、かっこいい哲学科の先生みたいである。

 ベースとドラムスとサニー・ランドレスという3ピースなのだが、いきなり音の波にさらわれる。凄い音だ。サニー・ランドレスのギターは胸の少し高い位置にある。一曲目は機材の関係かボーカルが少し埋没して聴こえたが、二曲目のCherry Ball Bluesからはそんなことはなかった。

 サニー・ランドレスと言えば、ビハインド・ザ・ストリングス奏法で有名だからと目を凝らしてみる。よくわからん。左手の弦を押さえる手の外側を右手で弾いていたけど、あれかなあ。だってとても優しくギターを扱っていて、軽く持っているように見え、まるで、ギターを撫でているみたいに、ギターの鳴りたいように鳴らしているみたいに感じられるのである。歌わせるというより、自然に歌っている、魔法のギターだ。左手の小指に透明のチューブ(ガラス?)みたいなものをはめていて、それがスライドギターの音色をつくりだしている。なめらかなギターの旋律、いつまでも聴いていたい、この体の中を揺らす音。唸るギターに翳りのようなものがあって、それがとっても素敵です。

 最後のアンコールに高田漣、Reiなどが参加してセッション。ロングスカートをはいたReiがいかにも若く、幼く見える。でもね、ギターソロ、遠慮しない。さがらない。勝負していた。そこに感動しました。