THEATER MILANO-Za 『歌舞伎町大歌舞伎』 

 力を出すってどういうことか考えた。最高の力を出す。それが拮抗する。祭りの山車が、すごい勢いで走ってくると、方向を変えた時、さっと何か真空みたいなものが生まれ、それがもう、めっちゃ清い。無心。強いものがあらん限りの力でひっぱりあって空気を止めるとき、その場もやっぱり、ある種、清いんじゃないだろうか。

 時致(中村虎之介)と舞鶴中村鶴松)は、草摺を引きあって、それを現出しなくちゃならないのだ。「力を出している」っていう舞踊である。『正札附根元草摺』。

 中村虎之介の時致は、最初力が散っている。目線がうごく。でも、いぜんよりいいよね。上半身と下半身に、繊(ほそ)いけど、芯が通ってるもん。腰はぶれない。自分に考えられる限りの強さを舞踊が示す。足の指が浮いて、「力が入ってるよ」と観客に言う。「上意下達」ていうかさー、頭で思っていることが踊りの手足にみなぎってる。気迫が感じられる。気合入ってんなー。だけども、なんか、「荒ぶって」ないんだよね。それは虎之介が「個人」だから。空気から、照明から、舞台の板から、いやいや地面から、怒りや衝動を吸う。そのうえで力出すんじゃないとなー。観客が「観てる」、その力も吸わないとなー。と思ったのだった。自分ひとりって、たかが知れてるもん。舞台の不思議は、「ひとりだけどひとりじゃなかった」とこからうまれてくるんじゃ?

 『流星』の中村勘九郎は、素足で踊る。天界の牽牛織女(中村勘太郎中村長三郎)        に、雷一家の顛末を聴かせる流星は、雷の亭主、妻、子、母を踊り分ける。なんというか、パーソナルスペースが広い。フリー。油をさしたように空間がスムーズだ。楽々と踊る。足拍子はきっぱりとして迷いがなく、雷一家の雷鳴にちゃんと聴こえる。おばあさん雷とか多少オーバーアクトだよ。そっちいかないでほしい。お客にはウケるけど、ウケすぎるのも淋しいぜ。

 今日の勘九郎は力いっぱい膝をつくので、左ひざの大きめのバンソーコーがはがれて血が滲み、痛々しかった。芸の厳しさを感じるのと痛々しさのせめぎあい。観ている自分の力加減を顧みたり、痛いのだめだろとバンソーコーと勘九郎を責めたり、忙しかった。清元って、甲高い声が大事?それを引き立てる地(呂の声っていうかさ…)も大事?四人で並んで声を出しているが、今日は中の二人の高い声が効いていた。おばあさん雷の入れ歯のくだりがよく聴き取れなかった。

 三本目の『福叶神恋噺』は、中村虎之介が働かないのに愛嬌に助けられて生きてる大工の辰五郎を演じる。辰五郎には貧乏神(中村七之助)がとりつくが、そのあまりの怠け者ぶりに、かえって貧乏神はかいがいしく尽くし、働いてやってしまう。長屋の皆にも、辰五郎にも、「おびんちゃん」などと呼ばれるのである。なんかかわいい話なのだった。なのに七之助が、かわいくない。お話(ファンタジー)から頭一つ出ちゃってる感じなのだ。きれいでかたい。長屋の戸口が閉まらなくなるアクシデントがあったけど、もうちょっとかわいく収めてほしかった。虎之介はまだこれからだけど、まず、畳に横になる姿が、「横になり慣れている」とこから実感を育てよう。しょっちゅう横になってる人って、しぐさでわかるものさ。いまは台詞言うのでいっぱいいっぱいで、「その場にいない」よ。「息を吐く」。そこが大事。