全労済ホール/スペース・ゼロ提携公演 『四谷怪談』

 三時間半の大作。四谷怪談のお岩を巡る男たちの嫉妬や、四谷怪談が一種の家庭内殺人であることから、現代の事件、俗に北九州連続殺人事件と呼ばれる家族の崩壊というか、壊滅事件を詳細に語り、二つを交叉させようとする。

 舞台の頭上にはニワトリなどの飼育檻に入れられたボディ。ボディの男、女、片足、腰など。思うにこの空間も飼育檻のように金網で覆われているのだろう。

 観終わって思うのは、作劇がどこか高い所を目指そうとしているということだ。谷口賢示の最後の告白などいい演技だし、殺される現代パートの若夫婦(青木空夢、安藤遥)の哀切なシーンもある。しかし、特に前半、芝居が全部長いPVみたいにかっこいいシーンばかり、いいところだけをつまんだ大予告編のようなのである。湯呑を持つ場面もなければ死体を運ぶシーンもなく、これじゃあ出ている誰もが、上手くなるスキがない。お岩の田中良子は芝居をしっかり背負おうとするあまり、どの仕草、どのセリフもやりすぎている。

 もし二枚目のPVのような芝居がやりたいのであれば、明らかにこの現代の殺人事件は題材として「まちがい」である。

 大石内蔵助(谷口賢示)と容疑者(西田大輔)が舞台上ですれ違うところ、「いい話」と「悪い話」がすれ違う時、ここには通底するものがあるのかもっ!と一瞬身を乗り出したが、気配で終わってしまった。

 登場人物が多すぎ、内面になかなかフォーカスされない。

 生き残りのひとにむかって田中良子がわかりきったことを叫ぶように言うのを、ひどいなあと思って眺めたのだった。

彩の国シェイクスピア・シリーズ 第33弾 『アテネのタイモン』

 「俺をほめたじゃないか!」

 財産を失い失意の底にいるタイモン(吉田鋼太郎)が、軍を率いるアルシバイアディーズ(柿澤勇人)の胸ぐらをとって叫ぶ。金があり、友人たちに恐ろしく気前よく振る舞っていたころの自分に対する言葉を、タイモンは責めるのだ。

 うーん、ほめたのを責められるのかー。と、再々芝居を観に行ってほめたりほめなかったりしている自分のことを考える。

 思えばタイモンとタイモンに鏡を突きつけるように文句を言うアペマンタス(藤原竜也)は、シェイクスピアと批評家のようだ。シェイクスピアだって、飲み屋に行けば、「あれはちょっと」とか、「あそこよかった」って、絶対言われていたに違いない。だがアペマンタスが批評するのは芝居じゃない、タイモンの人生そのものだ。破産したタイモンにアペマンタスは食べ物を与えようとするが、タイモンは受け取らない。タイモンは人間に絶望する。金を見つけてもそれでまた屋敷を持とうとはしない。彼はあらゆるものを憎み、嫌厭する。彼は人生に戻らない。そうすることで彼はアペマンタスのような「批評家」を越え、「批評」そのものとなる。アテネに対する批評、人間に対する批評、この世に対する批評。

 芝居は蜷川幸雄へのオマージュから始まる。ガラガラと運ばれてくる衣装ラック、体をあたためる俳優たち、合間に置かれた二枚の姿見。蜷川の演出には蒼ざめたスタイリッシュさがあったけれど、吉田鋼太郎はもっと陽気で、カラフルだ。わかりやすく、その上で蜷川の遺産をよく使いこなしている。藤原竜也のアペマンタスは迫力があって私は好き。足の裏広くね。取り巻きがタイモンを囲んで階段を下りる時の「お追従歩き」が面白かった。河内大和のセリフは目立ってよく届く。柿澤勇人、とてもいいのに、叫びすぎだよ。

Bunkamuraシアターコクーン DISCOVER WORLD THEATRE vol.3 『欲望という名の電車』

 大竹しのぶがもうすでにこの芝居で紀伊國屋演劇賞を受賞している。えええ?見物しようと靴ひも結んで顔をあげたら、ゴールしている人が見えたような気持ちー。でもそれも仕方ないのだった。圧倒的な集中力、圧倒的な演技で、大竹しのぶは芝居を引っ張っていく。

 白い服のブランチ(大竹しのぶ)が、辺りを見回しながら、客席から舞台へあがる冒頭シーンでは、その細く尖った頤が、プリーツを畳んだ透きとおる襟の中で品よく繊細そうに見え、ユーニス(西尾まり)の野卑なざっくばらんさと対称的である。妹ステラ(鈴木杏)とその夫スタンリー(北村一輝)のいない部屋に入ったブランチは、すばやく酒瓶を見つけ出し、すばやく一杯やる。この役柄の幅、大竹しのぶはこの幅を自由に泳ぎ、目の前でブランチを織り出してみせる。観客は一瞬も芝居から気が逸れない。倒れたまま、医師(真那胡敬二)に向かってブランチが片手を預けようとする場面では、劇場中がブランチの指先の一点に集中し、固唾をのんで成り行きを見つめているのがわかった。

 欲望という電車に乗り、墓場という電車に乗り換えて、六つ目の角で降りた天国にあるステラのアパートに、姉ブランチはやって来る。彼女には夫も子もない。そのことは彼女を欲望から最も遠く、最も近いものにする。芝居はその憧れを蛾とランタンに例え、私たちに提示する。

 スタンリーの癇癪は、その背後に戦争のPTSDを隠しているように思われ、ステラの芝居はブランチの感情にしっかり補助線を引く。

 終演後、ブランチになっていた。ついていてくれるのが真那胡敬二と明星真由美であることが嬉しい。最後の一瞬、名の通った俳優に付き添われることが、何だか敬意ある救いのように思えるのだ。

世田谷パブリックシアター 日韓文化交流企画 『ペール・ギュント』

 ストップモーションが美しい。天鵞絨の赤い緞帳が開くと、そこは荒涼とした河川敷のような景色、上手と下手を堤防や橋梁によくある巨大なコンクリートの壁が遮っている(グエムルを思い出した)。奥からスローモーションで群衆が出てくるが、そのスローは日本で見慣れたそれより早い。そしてストップモーション。絵画のように構図が決まっていて、絵画のように微動だにしない。陰翳あるストップモーションの度にはっと息を飲み、感心するのであった。

 『ペール・ギュント』はノルウェーの寒村の貧しい青年が、大きな望みを持って遍歴し、様々に人生を生きる話である。まあ、いっちゃうと、なんかリアリティを持ちづらい戯曲なのだが、今日のこの芝居では、このセットと物語が撚りあわされることによって、重層的でダイナミックなものになっていたと思う。

 トタンのあばら家が押し出されてきて、おっかあ(オーセ=マルシア)とペール・ギュント浦井健治)がとてつもないほら話を始めるその時――そして森に放逐されたペールがソールヴェイ(趣里)を抱え上げる、その時――周りの殺風景な景色が、まるで恐竜の背中に乗せられて水の中からせり上がってくるように見え、全てが漢江の岸辺の、貧しい浮浪青年の物語の中に入ってしまう。逆にこの浮浪の人はペールに身を変えて世界を彷徨するのである。出る道も入る道も同じように狭い、連綿と続く歴史の中でほんのひととき、「自分」として「私の番」を迎え、消え去っていく男の運命は、実は女に握られている。しかし、ペールは、救うように、あやすように、呪うように呼ぶソールヴェイの手をすり抜けてゆく。

 韓国人俳優のつかう日本語が完璧。マルシアのセリフのどのトーンも美しく、浦井健治は物語の結構を過不足なく支える。でも精神病院のシーンで、物語の主動因を見失い、心底迷子になった。

M&Oplaysプロデュース 『流山ブルーバード』

 流山で近藤勇が、とか得々と言い出す人間は、永遠にこのコミュニティには入れない。地元、地元の人間、地元のスナック、地元の魚屋、地元の友達、地元の不倫、地元の連続殺人。

 兄国男(皆川猿時)の鮮魚店で働く高橋満(賀来賢人)の体には、「地元の」と書かれたたくさんの付箋が、びっしり貼りこまれているみたいだ。だけど本人には自分のその重さがわからない。満の仕事や恋や服は、ちょっとずつずれている。セーターに目に沁みるような白のTシャツを合わせるところは都会的だけど、セーターはださい。真ん中に赤の縦線、それをグレーが取り囲み、その外側は黒だ。赤いパンツの黒いチェック。賀来賢人は輝くようにハンサムで、それが時々邪魔にもなり、芝居の助けにもなっている。観ている観客としては、場面が進むにつれ、満にはどす黒い、濁った顔色にもっとなってほしい。なにかが欠落しているといわれて彼はくらい顔をするが、その「表情」の氷山は外側に向けて崩落している。ぜひ内側深く、ガラガラ崩れ落ちていって。要はここ、「見せすぎ」「足りない」ってことだよ。

 この芝居は一月の『世界』と双子のように似ている。満と殺人犯らしい伊藤和彦(柄本時生、好演)が、双子のような存在であるのと同じように。

 どの人物も、「よくいる」(ありきたりの)人間かもしれないが、ありきたりを越える迫真性、内実を持っている。それはそれぞれの役者に固有のもので、顔にくっついて取れなくなった仮面のように、何かちょっと恐ろしくて、おもしろい。世界から浮いてる感じと絶望がない交ぜになった平田敦子の黒岩順子など、とても新しい造型だと思った。『世界』に比べて、「みんなさびしい」などといってしまうのがすこし残念だけど、いい芝居だった。

劇団民藝 『「仕事クラブ」の女優たち』

 「最後吐いてました、原稿書くのに」(パンフレット、長田育恵)

 そうだろうなー。ただでさえ演劇ってその場で消えてしまうもので、それに消し去りたいとか貧しいとか弾圧とかの条件が加わると、どれほど時代と資料に穴が開くか、想像に難くない。たいへんだったよね。だけど長田育恵、吐いてこんだけ?もっとできるはず。

 あの時代、女優たちが灯火のように抱きかかえ、囲って守り続けた「理想」ってやつ、「恋人」、「仕事」、時々は持ち重りがして邪魔くさく、いらいらと放り出して仕舞いたいと思ったその思いに、リアリティが感じられない。

 終始、言葉が体から、浮いているのだ。若い俳優に昔の思想を解れという方が無理である。脚本に解る仕掛けがほしい。

 昭和七年、築地小劇場は分裂して新築地小劇場となっており、左翼劇場と合同公演を試みる。しかし検閲が厳しく、公演は成功しない。顎の干上がりそうな女優たちは「仕事クラブ」を結成して、クラブ経由の仕事で糊口をしのぐ。

 女優たちの言葉が、喧しく金や理想や演劇を巡って発せられ、混沌としているが、謎のまかないさん延(奈良岡朋子)が出てくると、全てのセリフがプリズムを通る光線のように延にあつまって屈曲し、延が「聴いている」というだけで全ての行動が整理され、芝居の中の芝居を観ているようである。

 怠け者(もっとだらだら怠けていい)の夏目隆二(境賢一)の最後のセリフがとてもよく書けていて素晴らしい。もちろん、役者もよく応えた。

 五十嵐隼人(神敏将)、めっちゃいい役なのにもったいない。ソツなく見たことあるような芝居をなぞっちゃダメ、体が客席向きすぎてる。

すみだトリフォニーホール 『55th Anniversary The Chieftains チーフタンズ来日公演2017』

THE CHIFTAINS 55TH ANNIVERSARY。その題字に続いて、チーフタンズ結成の1962年から、今日までの歴史が、スライドの写真で紹介される。古い写真の中で、笑っているパディ・モローニ、アメリカ初公演、ロイヤルアルバートホール完売(1975)、映画『バリー・リンドン』(同年)、ローマ法王の御前で演奏(1979)、西洋音楽として初めて中国でコンサート(人民服を着て写真に納まっているメンバーたち)、要人との写真、ダイアナ妃、クリントン大統領、カストロ、ギネスの社長、ジョニ・ミッチェル、ボノ、21回グラミーにノミネートされ、6回受賞、アイルランドで切手になり、ヴァン・モリソンストーンズやスティングとCDを作り、日本人では矢野顕子林英哲忌野清志郎と共演している。

 今回のスケジュールも大変。11/23所沢、11/25滋賀、11/26兵庫、11/27愛知、11/30東京、12/2長野、12/3横須賀、12/8八王子、12/9すみだトリフォニーホール

 パディ・モローニ、少し疲れていました。やっぱりコンサートの最初に溜息ついていたけど、ほんとに草臥れていたみたい。

 途中、ちょっとティン・ホイッスルをお休みしてしまった曲があって、低音部のほかの楽器が鈍く響き、残念だった。もう少しスケジュール考えた方がいいと思う。

 オープニングアクトで登場した北欧デンマークのブズーキとフィドルアコーディオンの三人組「ドリーマーズサーカス」、素晴らしくて驚いた。黒ずくめの、眼鏡をかけたブズーキ、金髪のフィドル。和音がまるでバウムクーヘンのように穏やかに整っていて、そこからフィドルが躍り出てくるが、マイルドで、フォークの中にバッハがうまく組み込まれていて違和感がない。エレガントな感じすらした。

 アンコールの「アンドロ」で、前方の席に座っていた中年女性が、立ち上がって正調フォークダンスの振り付け(下で一回、逆向きに上で一回手を回す)を踊っており、習っているんだな、日本の趣味、奥深いなあ、平和でよかったなあと、思わずにいられませんでした。