赤坂ACTシアター 笑福亭鶴瓶落語会     (2017)

 ぱっとあらわれて、さっと演じ、すっと帰る。鶴瓶って、じつはそこんとこをとても大切にしているような気がする。「粋な」(関西発音でお願いします)感じ、って言語化する私は野暮の極みですけどね。

 劇場では、景気のよいお囃子が演奏されている。途中で、アイリッシュミュージックの友達みたいに聴こえる、と思ったら、草競馬やTAKE5を、フィドルのように二胡が奏でているらしかった。必死の気合で太鼓が響く。拍子木がひとつ鳴って拍子が変わり、止む。鶴瓶が登場した。「えー、もうラストでね、」白いワイシャツの裾を出し、その上に黒いジレを重ね、草色の襟なしジャケットで、緩いパンツが足首で細くなっている。かっこいい黒のスニーカー。

 一回も「えーと」とかいうことなく、それからそれへ、おもしろい話を続けていく。前の話とあとの話が少しずつ関連していて、いつ話題が移ったかわからないくらいだ。独演会は東京で打ち止めで、NHKの『家族に乾杯』がもう20年続いていることなどを話す。なんにでも即答するスタッフの話が可笑しかった。「落語はしますよ!」といいながら、すっと舞台から引っ込む。大西二士男撮影の楽屋と着物の写真が次々にスライドで映り、その間に着物になった鶴瓶が見台の前に座って、ぱちりと「小拍子」で音を立てる。『悲しみよありがとう』。男子校の同級生のおじさんたちが、先生の葬式に集まり、「パシュ」と缶ビールを開けて飲んでいる。リコンした、ハサンした、という連中の話を、「なごむなー」と半笑いで聞き出す喫茶店主のタナカがおもしろい。しかし、この咄で一番よかったのは、イノウエである。イノウエにはセリフが一つしかない。このトーンが、とても正確。何心もない、考えなしのイノウエの、のうてんきな感じがとてもよかった。咄に天窓開いた感じ。でも、欲を言うと七人もっと演じ分けた方がいいかも。

 二つ目の落語は『青木先生』だった。聴きながらわたしは、一年中、毎日毎日同じ画題(例えば富士、例えばリンゴ)で違う絵を描き続ける画家のことを考えた。まるきりおんなじ富士山て、描けんし描かんよねー。毎回違う『青木先生』が生まれてくるはず。今日のお客さんにあわせた今日の『青木先生』は、とても入れ歯の調子が悪くて、写実よりかは戯画に近いかな。セリフのやり取りでのトーンが自在で、そこがいい。「きみたちに言葉を贈らしてもらう」と青木先生が云う時、贈「ら」して、とそこが少し関西の巻き舌で、そのリアリティで言葉が浮かない。

 仲入りが20分あって始まったのは『妾馬』だ。全体にさらりとしている。長屋住まいの八五郎の妹が殿様のお目に留まり、御殿に上がって跡継ぎを産む。そのお祝いを言いになにかととんちんかんな八五郎がお殿様の元を訪ねる。鶴瓶の理想とする古典って、「粋な」(関西発音)感じなのだろうか。八五郎がとっても淡々としていて欲がなく、物の道理のよく分かった人だったなあ。もうちょっと色濃く演じてもいいように思う。

新宿ピカデリー 『パーティーで女の子に話しかけるには』

 クロイドン。映画に登場するこの街は、ものすごく思春期っぽい。なにもかも古くて灰色か茶色、とげとげしくて寒々としていて居場所がない感じ。ライブハウス(半地下!)の外の舗道を流れる水まで冷たく拒否的に見える。

 エン(アレックス・シャープ)はこんな世界に住み、こんな世界で、その母(ジョアンナ・スキャンラン)は二重顎の男とデートしている。

 さいてー。

 でも、エンにはパンクがある。1977年、まだ好きな曲を聴いても調べるすべもなく、レコード屋さんで説明したり、果ては「じゃあ歌います」歌って見せたりしていた時代、私たちが「Sex Pistols」のTシャツの「Sex」にきゃーきゃー言っていた時代の、ひりひりするようなとんがった最先端の音楽だ。洒落てるね、ロンドンて、と、エンの友だちヴィック(A・J・ルイス)の首環が似合っているのを見て、心から思うのだった。

 このミゼラブルな(思春期ってそうだよね?)世界に、宇宙人のザン(エル・ファニング)が、やってくる。仲間との絆にいら立つザンと、エンはパンクを語って、恋に落ちてしまうのだった。

 エル・ファニングが輝いている。宇宙人服の黄色いミニスカートもかわいいけど、借り物の粗いチェックの黒っぽい大きなコートで、宇宙人らしくつややかに結い上げた金髪のお団子ヘアの姿がもう、神々しいほどきらきらして見える。悲しさに唇がふるえるところもすてきだし、リアルでキュート。

 思春期が愛やセックスや「親」と遭遇する物語なのかなと思うが(ヴィックの戦く表情がいい)、大元の母親との描写がうまくいってない。台所の会話とか、踏み台昇降のように停滞しています。

Bunkamuraオーチャードホール 『55th Anniversary The Chieftains チーフタンズ来日公演2017』

 日本人を踊らせた!ミヤザキハヤオくらいの年配の、ミヤザキハヤオくらい一言ありそうなおじさんやおばさんを!と、つないだ両手を上げたり下げたりしながら、ブルターニュケルト音楽の悲しいような切ないような、美しい節に乗って通路や舞台を進んでいく聴衆を見守る。1997年のコンサートに行ったけど、その時はわたしぴょんぴょん飛び跳ねていただけだったような気がするなー。

 とても情報量の多い、充実したコンサートだった。林英哲の太鼓、ピラツキ兄弟のステップダンス、古謝美佐子上間綾乃の沖縄民謡、スコットランドバグパイプ(東京パイプバンド)、日本の合唱団(ANONA)、日本人のダンサー(タカ・ハヤシ、アイリッシュダンスカンパニー)、それらが皆チーフタンズの模様のようにちりばめられる。

 チーフタンズの全員で、ヴォーカルのケヴィン・コネフと同じ感じに、自然な自分の声で一つの歌を歌う場面があったのだが、そこがなんだか素晴らしかった。なんていうか、合わせているけど、揃えていないのだ。一人一人がきちんと自分で、自分のペースで声を出している。煙草を吸っていれば(吸ってないけど)吸ってるまま、料理をしてれば(してないけど)してるまま、なにもしてなければしてないままのその「わたし」の場所から声が出ているのだ。なんか、行ったこともないアイルランドが感じられる。

 「ただ実は、僕の方から『絶対こういう風にして』と強制したことはないんだ。」(パンフレット、パディ・モローニ)

 そういうことなのねと思うのである。チーフタンズが55年続いてきて、時を経るごとに成長し、いろんなミュージシャンとセッションし、磨かれてきたのはパディ・モローニのこの姿勢が大きいのだ、きっと。

 皇后陛下ご臨席でちょっと改まった感じの客席だったからか、パディ・モローニはティン・ホイッスルが4本立ててある自分の席に着くと、「ふー。」と一つため息をつくのだった。観客は皆くすっと笑ってリラックスしたように見えた。膝に置いているのは「イリアンパイプス」、形状を説明するのが凄く難しい。皮袋とふいごと数本の笛(?)から成る不思議な楽器だ。ひじの下にふいごを挟んで、それを押して皮袋に空気を送り込む。でも見たところパディ・モローニは笛(?)に両手の指を当てて、ひらひらと動かしているだけ。難しいんだろうけど、簡単そうに見える。

 ふわっとつむじ風が起こるように演奏が始まる。アイリッシュハープ(トリーナ・マーシャル)、フルート(マット・モロイ)、バウロン(ケヴィン・コネフ)、フィドル(タラ・ブレーン、ジョン・ピラツキ)、後方にギター(ティム・エディ)。葉っぱが風に起こされて環を描いたり、静まったりするみたい。つむじ風が激しくなったところでステップダンスの人々(ネイサン・ピラツキ、キャラ・バトラー)があらわれ、フィドルのジョン・ピラツキも加わり、踵からつま先から、火花が出るようなダンスをする。風がくるくる回りながら高い空に昇り、「フォギー・デュー」(歌:アリス・マコーマック)を聴いているときは、夏目ソーセキのいう颶風(ぐふう)の吹いてる空の静かな雲を眺めている気持ちになり、涙出ました。

 日本の人はみなよかったけど、やっぱどうしても「揃えよう」としちゃうのかな。そのような国民性だよねー。上間綾乃が一生懸命うたった「てぃんさぐぬ花」や、「アンドロ」の時のバグパイプの音の厚みが、とてもよかったです。 

ナイロン100°C 44th SESSION 『ちょっと、まってください』

 開演前、キャスト表の、

     廣川三憲:男7(警察署長)

     藤田秀世:男8(会社員)

というその多めの数をみて、それがもうすでに、別役世界を拡張しているようで、ちょっとわくわくする。下手に、窓を照らす大きな月、青い月光。

 魚の開きのように、同じ建物が、外から中から、または俯瞰で眺められるようなセット。それは一軒のお屋敷である。ここに金持の一家が、男女の使用人を一人ずつ使って暮らしている。だが実は、この家にはもうお金がない。一方、街を放浪している乞食の一家の娘(女2、エミリー=水野美紀)が、この家の息子(男4、ピンカートン=遠藤雄弥)と結婚するといいざま、外から中へ、窓を使ってぽんと飛び込む。しかもそれは、息子と「知り合う」前なのだ。外と中、たくらみの裏と表が苦もなくつながり、夢と現実も段差なく滑らかに接続していて、登場人物の誰ひとり現実に引き戻そうと「つっこむ」者もなく、不条理世界がどこまでもどこまでも広がる。そこには風が吹き、月がのぼり、電信柱が立つ。別役の世界にケラは深く入り込み、その水をくみ上げ、いま、このたったいまのひりひりするような「雰囲気」を細緻に組み立て観客に向かって蒸散する。いわくいいがたい、「空気」とされるもの、それがこんなにも精巧に舞台上につくりだされていることに驚く。別役的飛行船の、決着も鮮やかだ。

 どの登場人物もうすきみわるく、かわいく、真剣で、乞食の兄(男2=大倉孝二)と妹(水野美紀)のかすかに背徳的な感じが印象にのこった。役者はみな、薄皮を剥がしたようにくっきりとうまい。ずれ続ける世界をしっかり体現している。

新国立劇場小劇場 『プライムたちの夜』

 暗い色の布地がかけられた安楽椅子に、85歳のマージョリー浅丘ルリ子)が、いかにも具合悪そうに横になると、自然と私の頭には、エッグチェアにきれいに足をそろえる浅丘ルリ子が蘇り、いやでも「記憶のニュアンス」について考えるのだった。人工知能?そんなこと、一個もおもわなかったよー。これは、「記憶」についての物語、記憶をいくら重ねても、他者が「本人」に迫ることのむずかしさを、色合いを変えながら伝えてくる。たとえそれが、母と娘であっても、夫と妻であっても、「本人」の予測しがたさに到ることはできない。最後のアンドロイドのシーンは、まるで記憶の亡霊の団欒のようで、ブラッドベリのファンタジーの味もし、孤独で、さびしいけれど、すてきな幕切れだった。

 浅丘ルリ子の芝居を間近にすると、何十年も主役を張ってきた女優の力をまざまざと感じる。それは第一に、研ぎ澄まされた聴く力だ。一日も稽古を欠かさないバレエダンサーの躰のような、しなやかで繊細な「黙っている時間」、そしてしたたかで鋼のように響く声、繻子のように滑らかな声、きらきらする華やかな声。

 一幕では上手からマージョリーが登場し、二幕では下手からテッサ(香寿たつき)が現れる。この演出を見ても、母と娘の、死者を間に挟んだ愛憎を描くドラマであることは明らかだ。しかし二人の母子関係=力関係の描写がうまくいっていない。場を仕切りたがる者同士であるならば、主導権を取ろうとするところがもっとあったほうがいいし、娘マイカと直接話もできないほど支配的(たぶん)であるテッサの造型と、鬱になっているテッサ(鬱ってもっと重くて圧倒的)のスケッチが、今一つ。別人格のテッサがよかっただけに、惜しいと思う。

シアターコクーン・オンレパートリー2017 『24番地の桜の園』

 くしだかずよし、攻めてる。そこにすごく吃驚する。尊敬する。この攻めの姿勢を評価するかどうかで、作品の評判が、変わっちゃうんだろうなー。

 ヒロインのリューバ(ラネーフスカヤ夫人)を親しみやすい小林聡美が演じる。原作に、「気さくで、さばさばして」(神西清訳)いるとあるから、適っているけど、日本では、本当に貴族だった人などが演じているので、ここも「攻め」だとおもった。

 閉じている舞台には濃緑色の羅紗を思わせる幕がかかっている。ビリヤード台の感触。ツークッションでセンターポケットへ、とレオニード(ガーエフのこと=風間杜夫)のセリフが聞こえてきそうだ。

 リューバやアーニャ(松井玲奈)の衣装が、頭と手足が木で出来た布人形のそれのようでものすごくかわいく、フィギュアがあったらほしいくらいである。窓やドアのついた壁は使用人たちの人力で滑るように動き、主人たちは労せずに家の内外を行き来する。一幕の照明は枠に四角く吊るされて、セットの上に低く下がり、登場人物のやり取りは、記憶がしばしばそうであるように、そこのみが明るく照らされる。フィールス(大森博史)のいいセリフが早々と出て、驚いて笑ってしまったが、行きつ戻りつする全ての対話やシーンが、それぞれシャボン玉に入ってふっと飛んでいくように儚かった。だが、ビリヤードみたいにちょっとせわしない。どっちかだとよかった。

 二幕に入ると桜の園を出る人々が、ディアスポラや引き揚げや亡命や震災の避難に重ねあわされている。「わらうところ」とそうでないところが、夢のように入り混じっていて、チューニングがむずかしい。ロパーヒン(高橋克典)が歌を交えて高揚する場面とてもよかったが、コンパクトにね。

イキウメ 『散歩する侵略者』

 高速道路の車の音と、波の音とが混ざって聴こえるような。けれどやっぱり波の音だろうか。はるか遠くから打ち寄せる長く続く波音。悪い夢のように椅子がいくつも、思い思いの格好で倒れている。アスファルトの上にアスファルトが乗り上げたように見える三分割された舞台、真ん中の地面は坂になっている。その坂の上に立って、こちらに背を向けた一人の男が海を見ている。男の名前は加瀬真治(浜田信也)。三日間行方不明になった後、保護された。しかし彼はもう以前の真治ではない。脳の病気らしいと診断された真治は、毎日散歩に出かける。同時に、町には奇妙な病気が流行り出し、隣国との軍事的な緊張が高まる中、残酷な心中事件が起きる。

 観終わって、あの長い波の音は、恐怖を運んでいたんだなーと思う。薄い皮一枚隔てて私たちを浸す恐怖、頬を掠めながら振り下ろされる刃。今にもはじまりそうな戦争、普段は意識しない、世代の違うものたちへの畏怖(大窪人衛と天野はなが楽しげに悪魔的な若い“異物”を演じる)、夫や妻の人格が変化してしまう姿。皮一枚で危うく成立している毎日を、芝居は衝く。でも奪われるばかりでもない。仕事をやめた青年丸尾清一(森下創)は、自由になり、新しい考え方を得る。

 浜田信也がまばたきさえ抑え、「人格が変わって帰ってきた男」を演じる。全編通して、とても素敵な男の人に見えた。全員がストイックに話の結構を支え、そこから生まれるリアリティが恐怖やカタルシスを成立させている。内田慈、先走った気持ちが溢れちゃわないように気を付けてね。

 妻加瀬鳴海(内田慈)の、真治の肩をおさえる手が優しく、あの概念は、もしかしたら、奪いきれないのかもしれないとロマンチックなことをちらりと考えたのだった。