アップリンク渋谷 『シェイプ・オブ・ウォーター』

 それなくしては生きがたいのに、その中では生きられない。あたりまえか。水のことだ。指先が円筒の立てられた棺のような水槽の表面にそっと触る。その硬い感触を感じ、彼女が映画が始まってから何に触ってきたか考えてしまう。アイマスクや蛇口、バスタブのお湯、「身体」、卵(お湯の銀色の泡が海流のように鍋の中で踊る)、掃除のモップ、きれいな水、汚れた水、水。

 掃除婦のイライザ(サリー・ホーキンス)は水を触る人だ。時が「過去から流れる河にすぎない」のなら、彼女の手はとどめられない時に触れ続けているのだ。水槽カプセルに触るとき、そこには、なんか悲しい予感がある。なんだろ、このかなしい、歯がゆい感じ。わかりあえない、ぎこちなさ。

 愛だねー。ふつーの愛だとおもう。これ。ここんとこ。

 映画の冒頭の美しい映像の、水中に浮かぶまくらに頭を横たえる「プリンセス」は、愛に埋もれ、窒息しながら生きていて、そして眠っている。超自然的な恩寵かしら。ここで語られるのは、ふつーの愛でなく、自分自身のように完結した全き愛、水のように一つになれるファンタジーな愛なのだ。

 イライザは声を出せず、愛を奪われていて、貶められている。声の出せない、貶められた半魚人(ダグ・ジョーンズ)を愛するのに時間はかからない。でも、愛し始めるエピソードが弱いかな。

 半魚人とイライザの愛は、影絵のようにとおーくにゲイのジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)とイライザのふつーに不可能な愛が投影されていなくてはならない。そこも少し弱い。

 ストリックランド(マイケル・シャノン)、ホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)、友人デリラ(オクタヴィア・スペンサー)、誰もがきちんと成り立っているのに、半魚人弱っ!と思いました。

IHIステージアラウンド東京 新感線☆RS『メタルマクベス』disc3

 ラサール石井の一際ぴりっとした喜劇力で、周りが霞む。乾杯しそうでしない1980年代のパーティシーンだ。ラサール石井は特に声を張ったりしないのだが、その「間」は薄い刃物で削いだように鋭い。でも、だあれもこの「間」に追いつけてない。新感線て、笑いを取るので有名な劇団じゃなかった?マイクつけて大劇場でやっているうちに、すこし「鈍く」なってしまったのかなー。

 これまでのdisc1、disc2と、賑やかしの冒頭シーンだった(どちらかと言えばショウだった)魔女の場面がきちんと積み重ねのある芝居になっている。その分、見やすい。それはdisc3全部に言えると思う。

 浦井健治は説得力のある演技で『メタルマクベス』を引っ張る。「変顔」が地味で惜しい。「仮面」の形のマイクが持ちにくそう。

 マクベス夫人にあたるランダムスターの妻長澤まさみはとてもよくやっている。美しく、しなやかで、気品がある。しかし、王(ラサール石井)に忍び寄り、頭を割ろうとする笑いの場面がまずい。「間」は鍛えれば鍛えられると思う。あそこに長澤まさみのウィークポイント(うっかり粗い)が集約されている。そして、ここは相手がラサール石井だからこそ、やりがいがある。もっとたたかえるシーンだ。

 汚いものを飛び越えるところも、全員もっとダンスのように厳しく間合いをはからないとつまらない。

 みんな今日は音程がいまいちで、会場に音声の反響が残って二重に聴こえ、最後は耳が痛くなった。

 観に来ていた数列前の外国の人、一幕で帰っちゃったよ。帰らしちゃいけません。ラサール石井、まじめな芝居の方、もうちょっとがんばって。

日経BP (本) 『すいません、ほぼ日の経営。』

 「付箋貼って読書」、アコガレル。「整理整頓」ぽい。「確実」ぽい。ちょっとやってみようと思って付箋買ってきた。そして『すいません、ほぼ日の経営。』読み始める。うーん。付箋役に立たないじゃん。

 それは私が「職」や「経営」と全く関係ない所にいるせいと、また、糸井重里の言葉がゴシック体で浮き上がってくるような、なんていうか、「お」言葉と違っているせいじゃないかな。フレキシブルで素直でよく考えた説明、きれいな武家町をすいすい流れる澄んだ泉の水のよう、金魚も泳げばお茶をたてる水にもなり、臓器に見立てた会社の各部を、繋ぎながらすーんと流れていく。

 糸井重里はこの水が濁るのをさりげなく阻止しようとしている。遅刻した人を非難しないとか社長(糸井重里)に褒められるのは大したことではないとか、それはきっと文句や自慢が働く人の心の「濁り」になっちゃうからだと思うな。自分が嫌いな早起きしてて、遅刻してくる人を見たら、どす黒い墨汁みたいなものが水に混ざっちゃう。「それだとお茶が飲めなくなっちゃうかもしれないな」と遠くから社長は言うのだ。

 自分のことを考えても、「朝来ない人」「仕事を人に割り振ってばかりいる上司」にはイカスミ吐きそうだが、「きれいな水」の為には我慢しないといけないんだと腑に落ちた。採用には「4番バッターばかりとってもダメ」、社会は「支えられる人と支える人で出来ていて、支える時も、支えられるときもある」、そんなの社会科で習っていた筈なのに、自分の体の中の、忘れているクリアな水の水路が、目を覚ましたみたいなのだった。

 お天気屋なんで、わたし会社勤めには向かないと思う。伝奇小説の『大菩薩峠』(アウトロー、変わった人しか出てこない)なら採用される自信あるんだけどなー。 

赤坂レッドシアター 笑福亭べ瓶独演会『べべコレ東京2018』

 クリスマスイヴ。舞台を遮る黒い幕の上に、白く”幻燈“が出てる。雪だるまや雪の結晶、サンタと橇などがかわるがわるしんみり現れて消える。しんみりするのはこっちだよ。クリスマスイヴに一人で落語だよー。と、心で叫ぶ自分を可笑しく思いながら開演を待つ。ゆるい感じのギター、隙間が多い。初期のビートルズのよう、外してきたなー。クリスマスソングかけないしー。今日の落語会の笑福亭べ瓶さんは、あんなに鳴り物できるから、きっとすごく耳いいと思うんだよね。これから始まるの落語だから、あんまりお客緊張させてもいけないしね。

 客電おち笑福亭べ瓶登場。声を張るところから、思っていたのと違った。しゅっとした人かと思ったら、投網のような声でがんがん飛ばす。身の回りに起きた可笑しいことを次々話してゆく。わたしはレンタカーの話と、飛行機の座席の周りを全部占有されていた話が好きだった。あれ、丁寧に話したら、もっと面白いのじゃないかな。話の内容を、引いて見渡したとこがない。師匠の話と手法が同じなので、師匠の手法の「ねたばれ」になってしまっている。師匠が見たら「もっとうまいことやれ」というと思う。60分話したのに短く感じられ、「寝てない」と言ってたのも全然わからないし、鳴り物もすごく練習しているかもしれないが、落語もちゃんとやっているのだと思える。

 中入り15分、落語が始まる。「相撲場風景」。これいわゆる「尾籠な話」ってやつだね。びろうなはなしだが、べ瓶さんは一番難しい所を巧く上品にやる。一升瓶が抜けない所と飲んじゃう所。おえーとお客が思ったときにすっと話を落とす。上品というより下品でないって感じかな。ある意味とても難しい。

 人物によって全然顔が変わる人だなと思った。この話の右の横顔は明治の相撲ファンに見えたし、次の話の(『妾馬』)左の横顔のお殿様はとても二枚目、正面から見る八五郎は市井のあんちゃんだった。八五郎のおっかさんもとてもよかった。

 殿様のお手がついて「お鶴の方様」になった妹のお鶴に男の子が生まれ、兄の八五郎はお屋敷を訪ねていく。

 こまかいこというと、殿様が「お鶴の兄上」っていうのいいの?ここ敬称なしじゃない?あと城なのお屋敷なの?

 お鶴の方のほうを向いて話し始めるところ、みていて(あー、人情話にはいりますね)と思ってしまった。ここ、笑いからなだらかに入らないと「泣きのパッケージ」に見えてついていけなくなる。「泣くなよ」とお鶴に言うのも長い。「おおきに、おおきに」というとこで、声涙下るっていうかほんとに泣いてる。気持ちが入ったんだと思うけど、泣いちゃだめ。追いつけないし一人の話芸だし、芝居でもほんとに泣く人(えー)と思ってしまう私なのだった。

 「鶴の一声」できちんと語り終わり、舞台が暗くなり、赤ちゃんのスライドと一緒に、52万5600分の一年を歌う、すてきな歌がかかる。あ、この人趣味全開にしてきたなと思ったのだが、その趣味は「甘い」。スウィートなの。その甘さがよく見えるよう成長してください。赤ちゃんかわいかった。

 今日の落語で一番好きだったのは、電車でカップルがキスしてて、「女の子と目合うたんですよ」といってふっと笑った顔でした。

 つぎはバレンタインデーに会いましょう。

マッチポンプ調査室 第八回公演『神家1/2』

 愛嬌は世界を救うか。いや、あの、救わない?よくわかんないけど、「マッチポンプ調査室」の作・演出白倉裕二は、愛嬌のある、いい人なのであった。そこに胸を打たれて帰ってきたよ。

 孤児で、十年間監禁されていた神家幸子(山口磨美、矢島美音)は、大学に進学し、そこでクスリを作る妖しいサークル主宰に祀りあげられる。宗教化、先鋭化してゆく団体の中で、幸子の立場は危うい、ドラスティックなものになってゆく。

 まずね、全部が、懐かしい。小劇場の感覚を久しぶりで味わった。私の知っている小劇場と違うのは、皆踊りがうまくて(心の中で「踊ってー」と何度も言った)、殺陣も目が覚めるように鮮やかだという点だ。「ララランド」にあわせて踊る所や、幸子の乗った車を追いかける幼馴染たち(中谷智昭、福山健介、赤間直哉)が追い付けずに転ぶときの体のキレがすばらしい。32人も出てるのに、誰もがきちんと自分の役を掴んでけん命に演じる。

 問題は人物と筋が複雑すぎ、ばらばらで、把握できないとこだ。もっと絞ったほうがよかったんじゃない?レイプシーンが不愉快、人体がバラバラするのも世相かなと思ったがいやである。それは白倉が呈示する世界が善悪で分けられないことを示している。例えば「あなたは天国行ですよ」と言われた人が天国に行ったら、地獄に行ったはずの人もやっぱりいて、「えー!?」って思う感じ。

 殺陣になったら白倉はじめ男子が皆生き生きして可笑しくかわいく、笑わずにいられなかった。「幸せになってもいい」と言ってあげるところ、温かい心を感じる。でも劇作相当頑張らないとね。

 岩崎MARK雄大、英語に寄り掛かっちゃだめ、「も一つピリッとしないアメリカの役者」に見える。

国立西洋美術館 『ルーベンス展――バロックの誕生』

 「工房を作って安い絵に加筆、大儲けして邸宅を買った碌でもない絵かき」。

 …と、まあ、私の中のルーベンスの評価はこのように最低だったわけだけど、田舎なら近場の温泉にも着くほどの時間をかけて、行ってきました。

 会場に入るとかなり大きなスクリーンで数分のルーベンスの紹介をみられる。ここが超重要。1577年生まれのルーベンスは、1600~1608年をイタリアで過ごし、1606年サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会の壁画を手掛ける。美しく彩色された天井画、ドーム型にせりあがってはまた引っ込む屋根の構造(ゴシック?)、見ているうちに自分が卵の殻の中にいる小人の様にも、宇宙を見渡す一人きりの人のようにも思えてくる。ルーベンスの絵は、このごっつい建築に負けない。豪胆で流麗だった。立派な絵描きやん。アントウェルペンに帰ってすぐ描いた教会の壁画も立派。じゃないとネロ、死んでも死にきれないよねー。

 ルーベンスの自画像の写しが会場の最初に掲げられている。思ってたのと違う。内省的でしぶい細身の男。まあそう思われようと考えてたのかもしれないが、ただ単に、語学、外交、人付き合い、商売、何でもできちゃう男の人だったのかもね。

 ティツィアーノの絵を模写した『毛皮を着た若い女性像』が、おもしろい。(どうしてティツィアーノの絵――コピーでいいから――並べなかったの?)私は賢そうなティツィアーノの絵の方が好き。ルーベンスのは顔のはば、腕、胸、何もかもがたっぷりしている。なんかね、「太っている」「弛んでいる」ということの中に、ルーベンスの趣味(たぶん)、「柔らかい」ことへの偏愛が滲んでいて怖いよね。という気がした。

 かと思えば『聖アンデレの殉教』のように「ご立派」感の出た絵もある。ダイナミックで、緊張していて、登場人物の視線がビームのように劇的に交差し、いつの間にか聖アンデレの天に向けた視線に登りつめ、集約されていく。

 ルーベンスの筆はなんだかみな波打っていて、会場を出た後も、視界から脈打つ「うねうね」がなかなか取れなかったのでした。

日生劇場 音楽劇『道 La Strada』

 ゾーイトロープ。切れ目を入れた黒い筒の内側に、すこしづつ動いている物を描いた絵を丸めて入れ、くるくる黒い筒を回すと、中の絵が動き始める、映画の先祖だ。ホリゾントの黒い雲と白い雲が、透き間に見える青空を、すこし、ほんの少し、気のせいぐらいゆっくりと動いてゆくような。これ、ゾーイトロープだねぇ。でも、『黒蜥蜴』の演出と、似てるねー。空の下にちゃちな円形の座席が四段続き、これが舞台を囲むのだろう。上手と下手にさびしく電飾をともした登場口が二つある。舞台の座席に本物の観客が入り、客席のざわめきが大きくなる。裏側の収納が見えているサーカスの古ぼけた二重。湾曲している。客席の向こうは、海なのかなー。空は悠久、その下をしょぼいちゃちな時間が流れる。悠久とちゃち、現実と虚構は一つのもの、ただ、ゾーイトロープの速さが違っているのだ。

 「ザンパノが、アンソニー・クインじゃないけど、ザンパノだわ。」と思うくらい、草薙剛はザンパノ、粗暴で考えることを止めている力自慢の大道芸人に没入している。ジェルソミーナ(蒔田彩珠)は、頭が足りない感じはしないけど、声に汚れがなく清純で(この時点でジェルソミーナをほぼクリア)、嬉しいおまけとして感情に嘘がなく、すべてに集中を切らさず芝居が連続していた。それからイル・マット(海宝直人)は軽やかに、口の立つ綱渡り芸人を演じる。三人ともなんも問題ない。問題は関係だよねー。やり取りに微妙なニュアンスが足りない。隠された愛や奪われた希望、考えるのを止めている失望、それらが欠けております。ザンパノは芝居の幅が狭く、ジェルソミーナは哀しさが足りず、イル・マットは流暢すぎる。デリケートにね。楽器を自分で演奏しないところ、すこし場内から笑いが漏れていました。