シス・カンパニー公演 『火のようにさみしい姉がいて』

 20年ぶりに故郷に帰る男(段田安則)。男は妻(宮沢りえ)を伴っている。バス停を尋ねるために入った床屋で、なぜか女主人(大竹しのぶ)が男の姉だと名乗り、ひずんだ世界が空間を覆う。

 観ながら、何事もなく田舎に帰る二人を想像した。これは、いわば鏡を通して幻視されたもう一つの帰郷なのだ。この幻の帰郷の中に、真実めいたものがたちあらわれる。虚実皮膜の間、その虚実のあわいが、これほど周到に準備され、押し広げられ、スリリングに立ち上がってくるとは、清水邦夫ってすごいなとすなおに思ったのである。

 男は俳優、虚実の中に生きる設定だ。登場したとき彼は楽屋の鏡に向かって髭を剃っている。鋭い剃刀があたる顔、皮一枚でかろうじて成立している、ひやひやするような現実。危うい現実を、鏡の向こうのもう一つの現実に棲む姉がつき崩してゆく。要所で現れるオセローのセリフ。嫉妬が大きなモチーフだ。夫婦関係の緊張、挫折、田舎というもの、たくさんのものが詰め込まれているが、どの要素も邪魔にはならず、芝居を大きくしている。

 サーカスが登場する直前、正面を向いた男の顔が、若返って少年のように見えた。「姉」は堂々ともう一つの時空を生き、少年を引き寄せる。

 妻の立ち位置はものすごく難しい。夫との同調、反発を繰り返しながら「姉」の世界に引き入れられたり、その「姉」と対立したり、難役だ。その上終幕で、短距離走並みの集中とダッシュを迫られる。最後の数分、動転して心乱れているのに、その動転が身体に表れていない。役の難しさに体が緊張しているのかもしれない。細かいことだが、一幕の楽屋のクッションは、青年(満島真之介)がもっと遠くへよけた方がいいと思う。剣呑だ。見習いの西尾まり、立ち姿がひずんでいてとてもよかった。