歌舞伎座 『六月大歌舞伎』義経千本桜

 今日の仁左衛門は、「いがみの権太」。ゆすりたかりで日銭を稼ぐ小悪党だ。でも黙阿弥みたいなピカレスクロマンではない。「いがみの権太」を家庭生活から照射する、ちょっと変則な、江戸時代の作品じゃないみたいな役なのだ。つまり、仁左衛門が、この役を生かしているってことになるね。ああっ、もうほめちゃったよ。

 もとは遊女の権太の女房小せん(上村吉弥)は、今は茶店を出して生計を立てている。二十両を騙り取って、機嫌よく煙草を吸う(煙管の先が、赤く光る)権太に、心を入れ替えろと女房がかき口説くシーン、この時の権太は、知らんふりしているのだが、心に一点、針の先ほど穴が開いている。その穴を通して、細い煙みたいに、女房の苦言がまっすぐ聞こえてる。この針の先ほどキコエテルということが、最後の善心に立ち返るところに非常に効いてる。あの変心が、不自然でない。ここ凄い。うまく言えたかなあ私。権太は小さな息子を、それはそれはかわいがっている。権太の帯のあたりに手を伸ばし、慕い寄る子供のちっちゃい手を見ると、かわいがらずにいられないよねと思う。

 最初に権太に騙られるのは、維盛(中村錦之助)の妻子に付き従う、前髪立ちのご家来主馬小金吾武里片岡千之助)だ。あのー、歌舞伎って、どうやって声を鍛えるの。声出ていないね。若葉の内侍の片岡孝太郎  は、「よく使った声」なのに、小金吾ぜんぜんスモーキー。立ち回りは素晴らしかったし、品があったけど、「あとがない」気持ち、悲しさがない。あのさ、たぶん『雄呂血』っていう昔の映画は、こんな長い立ち回りから発想して、あんな野良犬みたいな追い詰められた殺陣が生まれたんだねえ。捕り方が細引きをかけ、掛けられた者が、切り払ったりうまく解いたりする。3人の捕り方が、とんぼを同時に切り、かっこいい。謎の掛け声をかけながら、捕り手は小金吾にどんどん迫る。あの掛け声は、「ぜったいコミュニケーション取れません」って意味かなあ。孤独だなあ。小金吾。なぜだんだん疲れないのかな。歌舞伎はリアリズムじゃないから?

 その小金吾の首の入った手桶と、金の入った手桶を間違えて出てゆく権太は、一幕の最初で、荷物をわざと取り違え、騙りに使う場があるために、ここもまた悪事を働くかと思わせる。ミスリーディングだね。褒美の陣羽織を得意げに着る、しかし維盛の妻子は実は権太の女房と子である。善心に帰ったのだ。妻子を犠牲にしようとして権太は苦しむ。羽織を被るところがかわいそう。この二重性のある芝居—肚?—はすごく面白いけど、最後の告白が少しのろい。仁左衛門、もうちょっと、畳みかけたらいいのに。でも、こうやって、歌舞伎ではじっくりと、勘違いやひょっとしたはずみの悲劇を皆生きて、そして死ぬ。権太が正道に戻ったのを知るのが遅かった父親(弥左衛門=中村歌六)も、悪い息子に甘かった母親(お米=中村梅花)も、おちゃっぴいの妹(お里=中村壱太郎)も、彼の周りを囲む。平家の滅亡と生きながらえた伝説の人たちがふと消え、ひとつの家族に物語が収れんする。

 『義経千本桜 川連法眼館』静御前に付き添っていたはずの佐藤忠信尾上松緑)は実は狐だった。狐は拝領の初音の鼓を親と慕う。静御前が鼓を打つと、嬉々として白い、さらさらでもこもこの着物に着替えて出てくる。狐は無心な感じがし、松緑は木目込み人形のようにまるくサマになっていて、通力で引き寄せた敵をユーモラスに退治する。

 あのさ、尾上松緑、もしかして、ひとりで黙々と稽古してない?台詞が相手にかかってない、誰にも「いってない」よ。これが若い娘さんだったら、「心を開け」とかいうけど、とにかく、台詞の内容を相手に伝える。もしくは「伝わってくれと念ずる」でもいい。言葉が粒だってない。きれいな、「お話」にうってつけの歌舞伎俳優なのに、もったいないです。