小倉城勝山公園内 特設劇場(福岡県北九州市) 北九州市制60周年『平成中村座小倉城公演』

 『義経千本桜』、「渡海屋」「大物浦」。今回の公演で一番良かったのは、花道をやってきて、その存在感で舞台を支配する勘九郎の渡海屋銀平でござる。登場シーンね。あの空気感が、演目、演目の乗っかる日常を、芝居小屋の非日常へと押し上げ、非日常の中に熱い空気と冷たい空気をまぜこぜに放り込み、小屋を3センチばかりこの世から浮き上がらせる滑走路になったと思う。だってさー!鎌倉武士(相模五郎=中村橋之助、入江丹蔵=中村虎之介)が現れて、銀平女房お柳(中村七之助)を困らせている折も折、銀平はしずかに、すーらすらと花道を歩いてくる。この、すーらすらの内実が複雑を極める。大変威のある男、精悍な大柄の男が、何心もなく家へ向かう。それと同時にこの人は船問屋渡海屋の宰領をするあるじ「銀平」である。まあ、銀平だけどある部分は銀平でない。あとでわかるけど、平家の残党「平知盛」なのだ。逆に言うと、「知盛」なんだけど「知盛」だと言い切れない誰かなのだ。違う時間がひとつの身体を流れている。なんかこう、「異時同図法」てかんじかな。「同時異図」?滅びてゆく平家の時間と、家に向かう船問屋の主人の時間が、見えない裳のように勘九郎にまつわりつき、絵巻物の「霞」のように背後へたなびきながら消えてゆく。この「言いきれなさ」のここが!めっちゃかっこよかった。佇まいに出てるのだ。肩で風切る風にもそれが出てる。出の場面で、この小倉の公演が、すごくいいということがもう読める。

 相模五郎と入江丹蔵がいったんおもしろくひっこんだあと、再度登場する。実は二人は、知盛の家臣だったのだ。これ、ちょっと笑い薄かったかな。しかし、二度目の登場は、どういうか、テレビのワイプみたいだった。絵巻物の画面に浮かぶワイプ、しかもそこだけ、粘度の高い写実のクレパス画だ。橋之助も、虎之介も、戦場の興奮をそれぞれ幅いっぱい表し、殺陣は悲壮で、「見得」のなかに心持が見える。鮮烈な原色。にしき絵やねー。

 銀平女房お柳、実は典侍の局は憂いの表情がいい。また安徳帝の細いかわいい一本調子に、胸が絞られるようさ。海の明かりが消え、平家の侍女たちは、知盛が負けたことを知る。七之助も、勘九郎の知盛も、後半の、感情が高まり、絵の具を盛り上げるところ、盛り上がったところが乾いてひびになるくらいの切所がちょい、よわい。絵の具足りない。弁慶(片岡亀蔵)に数珠をかけられてひきちぎるとこ、安徳帝を慰めながらの悲しみのシーンが、すこしうすい。恨みと悲嘆を薄目に描くのは、この物語に救いをもたらすためだろうか。うーん。白い衣装に点々と赤い鮮血を飛ばした知盛は、太い綱をぐるぐると何度も体に結び付け、戦で疲れ果てた両腕と背中で碇をこじ起こし、海へとぶ。あの、碇が海に落ちてから、綱が次第に海へ持ってかれるところが、息詰まるように怖い。知盛が飛ぶとき、ふわっとこちらの身も持ち上がる、と感じられたよ。浄瑠璃も三味線も、力がありました。

 

 二つ目の演目は、『風流小倉俄廓彩』、おどりです。芸者の黒い着物の七之助と青い着物の坂東新悟の白地の帯を、「あー、献上博多の帯を締め」だねーとじっと見る。一幕めで義経だった新悟が、美女になっているのに見とれた。坂東新悟さんは、女形の時は「居方」がキマッているのに、男の時は「居どころ」がも一つ。なぜだろう。重心かな。ミザンス(??)もすこし不安定。背が高いせいかも。

 途中で勘九郎が、小倉の一本締めをしたりする。華やかに踊って、一つ一つを額縁に収めるようにみえた。「なりこまや」「やまとや」と唄の掛け声が追いかけてくる。あとさ、女の踊りって、手が、顔のそばに近く来れば来るほど重要だねえ。うしろで腰かけた勘九郎がみなの踊りを眺めて居、ちゃんと物語の中の人なんだけど、成駒屋三兄弟、お話からこぼれていたよー。

 舞台の後ろで芝居小屋を観る町の人々がこちら側の客席から見え、それが頭の中で小倉城までぎっしりになり、皆笑い、どっとどよめいて揺れ、手をたたく。そんなとこ、幻視しちゃいました。