スパイラルホール 生誕60周年記念art show 個展 『松尾スズキの芸術ぽぽぽい』

北九州ってね、土から工場が生えてるような街でね、なんか、植物(PLANT)と設備(PLANT)が分かちがたく一つになってて、人体は硬く・柔らかく、すべてが生き物で、また、すべてが死んでるような気もし、かしわめしが有名で、栄えてさびれてる、そんなとこ。だからヒョットコの絵を見た途端、「あ、折尾やなあ」と思ったのです。ひょっとこの頭は工業製品的に冷たく硬いけど(それは理性かもしれず)、丸見えの下半身は生暖かく恥ずかしい。松尾スズキの絵は、有機物と無機物がくっついて、それぞれが、生きてるなりに、死んでるなりに、うおーんと何か言っている。その臨界のとこに、どきどき脈打つ松尾のシンゾーがあるのかもしれない。

 松尾スズキは、私が思ってたよりずーっと絵が巧い。卒業制作が「架空の教団の架空の教典」だとしってたから、独創が主で絵が従なのかと思っとった。でもQ産大のデザイン学科って言ったら花形だし。や、そんなことはいい。トゲくちびるウーマンて、薔薇やろ。裏返した薔薇。花束で殴る男と、それと互角に戦う女は面白かったし、「プルプルルーシー」は見ているうちに左目の下が動いたような気がした。

 作品中、エッチングが一番良い。作為がない。照れも入り込めない。逆に言うと、松尾はいつも、絵に対して身を「やつしている」。ここだ。劇作家として大成し、画家として成功しなかったわけがここにあるな。「やつす」からこそ松尾は演劇に行った。  

髑髏とネコの板絵が、何か一番、ニンゲンの深層に迫っている。すごく不穏で、微妙だ。正対してこの猫と髑髏が描けたら、明治の初めのトーフや鮭みたいになりますやん。それか、モデルの花魁が「ひどい」と泣いた「花魁図」みたいに歴史に残る。ヘソを絵に向けろと言いたいね。こぉんなに上手なのに、繊細過ぎてダイナミックになれないのさ。もったいない。でも演劇ちゃんとやってほしいし、絵に専念しろともいえません。いや、絵がよくなったら、演劇も視界がひらけるのでは?詞書なしの、掛け値なしの猫と髑髏の絵(『猫と骸骨』)を所望いたします。