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新宿「SPACE雑遊」 『やんごとなき二人』

 「絵を描く時の心持は、わかっています」。22歳、油絵を二枚描いた中川一政は、こういったそうだ。その二作目の『霜のとける道』(1915)をみると、(わかってんなー。)と思う。青い空、明るく強い日に照らされて影の濃い景色、鮮やかに赤く見える段差のある道。霜が太陽の熱に溶かされ、空気の中に漂っている。全体に(ぽわん)とした詩情がある。

 綾田俊樹ベンガルの『やんごとなき二人』も、何かが「わかっている」。場面は多摩川の河原のホームレスの小屋の前で展開する。ホームレスの男小鳥遊(たかなし=ベンガル)が、上手から自転車で登場する。小屋には両側に腕を伸ばしたように物干し綱が張られ、上手のそれには、ティーバッグが、一定の間をとって几帳面につるされている。その諧調が、すごくおかしい。その下をパイロット用防寒帽をかぶってくぐるホームレス小鳥遊は、無表情だが、やはり諧調である。首から下げたラジオを取って小屋の壁にかけ、下手の手作り郵便受けを開けてみる。焼きそばパンを出して食べる。トタンで背中をかく。飽きない一人芝居のあと、遠くを見て、ひとこと発する。

 「なんだあのバカ、橋の上で」

 「あのバカ」は綾田俊樹、朴ノ木という名前である。いろいろとわけありの様子で、小鳥遊の「シマ」でひとときを過ごす。鍋をつつく二人。いったい何を食べているのか。

 綾田俊樹ベンガルの老練な味のおかげで、芝居は「ぽわんとした詩情」を醸し出しつつ、無上に面白く進む。

 中川一政の『霜のとける道』は、実は、お金のなかった中川が岡本一平の絵を塗り潰してその上に描いたものだ。精進してきた俳優さんは、年を取ると、どうしても味が出てしまう。味だけではつまらない。もうひとはけ、凄みが欲しいと思ってしまった。

世田谷パブリックシアター りゅーとぴあプロデュース『エレクトラ』

 ほんとうに怒ると、人の怒りは破壊的で、自分をも他人をも滅ぼさずにはおかない。自分の怒りでありながら、制御できず、自意識は怒りに仕える巫女さんのようになってしまう。「いま、怒ってらっしゃいます」みたいな。おてあげだ。自分でも、どうにもならないのだ。

 してみると、高畑充希エレクトラは、怒りにリミッターをかけていたように見えた。上限と下限、見やすいように、きちんとサイズが決められている。サイズが小さい。怒りのあまり、自分でもびっくりするような声が出る、って感じじゃない。現代風。

 そのかわり、オレステス村上虹郎)とのやりとりは、新しい野菜の青い茎をぱきっと折ったとき、水気がさっと飛ぶようにみずみずしく鮮やかだ。エレクトラオレステスクリュソテミス仁村紗和)も、この病んだ家庭で苦労している子供たちに見える。

 実の母クリュタイメストラ白石加代子)が愛人アイギストス横田栄司)と謀って父アガメムノン麿赤児)を殺した。文句のつけようがないほど非道な話だが、クリュタイメストラの話を聞くうちに、この人にも掬すべき理由があると思っちゃうのである。娘イピゲネイア(中嶋朋子)をアガメムノンギリシア軍の風待ちのいけにえにしてしまったこと、トロイア戦役でプリアモスの娘カッサンドラを連れ帰ってきたこと、白石加代子が「傲慢なあの男」と力を込めて言うと、幾千、幾万、幾億の、「あの男」たちが目に浮かび、一瞬で彼女の味方になってしまうのだった。アイギストスだって、アガメムノンに復讐しただけともいえる。ちいさな家族の大きな悲劇、この『エレクトラ』は、ギリシア悲劇であることを越えて、現代まで連綿と続く家族の復讐の悲惨を訴えるものになっている。

蜷川幸雄一周忌追悼公演 さいたまゴールド・シアター×さいたまネクスト・シアター 『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』

 乱れている赤い幕。上手の幕と、下手の幕、合わせ目が疵みたい。日常の亀裂としての非日常が、いま幕を開ける。

 それは透きとおる四角いお墓。いくつもいくつも、透明の水槽が整然と並べられ、一つずつに一人、老人たちが横たわり、胎児のように体を丸めている。手指が静かに、揺らめきながら動き、海の中の光る藻を思う。死につつありながら、生まれ出ようとしているのだ。

 駆け込んでくる若者が二人、手に持ったボールで戯れにキャッチボールをする。爆発音!それはボールではなく、爆弾だった。

 青年A(松田慎也)、青年B(竪山隼太)はつかまって裁判を受けている。彼らは革命を信じていた若者たちである。法廷はもっともらしく、判事たちはしかつめらしい。ここに証人として呼ばれた青年Aの祖母鴉婆(田村律子)は証人の宣誓はいったい誰に向かってするのかと疑義を述べる。そこへ、20人からの老婆たちが乱入し、第八法廷をゆっくりとその生活で占拠する。彼らは爆弾を持っていて、法廷関係者を皆人質にとり、老婆たちによる裁判が始まる。

 「考える」「言語化する」ということから自由になれない若者たち、そこにこだわり続ける限り、自分たちの思いや革命は先細りであるだろうという予感が、この芝居をつくりだしている。「考えない」「言語化されない」未踏のジャングルのような、青年たちを囲むすべて。それはギリシャ神話のハルピュイアのように、無慈悲で意地汚く、攻撃的で、また、闇のように黙り込んでいて、愛と狂気を含んでいる。顧みられなかった下の下のそのまた下の地層、闇の内の闇、その中に芽吹くことなしに自分たちはあり得ない、という切羽詰まった思い。汚れた足の裏をはたく手拭いの手慣れた動作、お菜を刻む皺ばんだ手、遺影を負う小さい背中、そこから若者たちは咲き出でる。まるで舞台が、一つの、透きとおる胎内であったかのように。

ピーター・バラカンのPing-Pong DJ Special ゲスト:小坂忠

 「えっ牧師」

 予習ゼロ、晴れ豆の暗い照明でウィキペディアを見てる。牧師って、むかし「キリスト教」って授業を受けて以来、会ったことない人たちだ。牧師さんは詰襟のような黒い服を着ていたな、と思い出す。小坂忠さんは牧師だけど、真っ赤なシャツに黒の少し光るジレ、ジーンズという格好。ミュージシャンだもんね。

 バラカンさんが先に自分の好きなBlack Musicをかける。キング・カーティス、Menphis Soul Stew。バンドのメンバーを紹介する曲、7分半。小坂忠さんのビルボード東京ライヴのオープニングにかけたのだそうだ。アレサ・フランクリンを白人の若者たちに浸透させるためにサンフランシスコのフィルモア・ウェストでコンサートをやり、その前座だったキング・カーティスのライヴ盤からの一曲。バンド紹介するだけでこのかっこよさ。と思う。

 小坂忠さんはミーターズ、People Say、バラカンさんはビル・ウィザーズのGrandma’s Handと、とんとん進む。ビル・ウィザーズのアルバムを見ていて、小坂さんは自分の2001年のアルバムに「People」とつけたんだって。繊細な、フォークっぽくも聞こえる歌でした。

 続いて「アフロビート」で知られるフェラ・クティ。どの曲聴いても、リズムが署名のように特徴的な気がする。アフリカ中で受け入れられた。今日かかったのはYellow Fever           。バラカンさんのラジオ番組で、彼の波乱と抵抗の人生を曲を絡めて紹介していたよね。ナイジェリアの軍事政権を批判して、住んでいる村を警察に急襲され、お母さんは二階から落ちてなくなったんだって。パッと見、ノリのいい音楽のように聞こえるけど、そこにあふれる反骨に改めて凄いなと思う。バラカンさんは「黄熱病」をうけて、肺炎とブギウギインフルエンザ  という曲をかけていた。

 今日かかった曲で一番好きだったのはセネガルのコーラジャズバンドかな。「コーラ」という楽器と「カラバシ」という楽器を使っていて、見たことないので混乱。「コーラ」は激しい音が出せる。瓢箪に皮を張って、ギターのネックみたいに真ん中に棒がさしこんであり、たくさん(21本)弦が張られている。弦の両側に「ツノがついてるんだよ」(小坂)、かえってネットで見ると確かに装飾的なツノがついていた。「カラバシ」は、両手の人差し指と親指を使う瓢箪の楽器、っていう所までしかわからず。しかし、このひとたちのOye Como Vaは圧倒的だった。

 ほかにゴスペル界に収まりきらず、ビッグバンドできわどい歌詞を唄って批判されたシスター・ロゼッタ・サープ、ベースを弾きながら歌うエスペランザ・スポルディングなど。

 ナット・キング・コールがニュー・ラテン・クォーターという赤坂のクラブ(キャバレー?)で歌った時の記録音源。サーという雑音の中から、手抜きしない、楷書のようなナット・キング・コールの声が聞こえてくる。えらいな、ナット・キング・コール、どこでもピシッと歌う。真面目な人だったのかも。チャック・ベリーナット・キング・コールに影響を受けていて、ローリング・ストーンズはチャックベリーに影響を受けている。ナット・キング・コールは、黒人の成功の典型、目標でもあったんだって。

 ちょっと休憩を挟んで、小坂忠さんのミニライヴが始まる。中央にギターを持った小坂忠、上手にギターの佐藤克彦、下手にベースの瀬川信二。

 “真夜中まで20キロほど”としっとり歌いだされる歌の題名は、「ボンボヤージ波止場」。ゆっくりとはしけが後ろへ、後ろへと消えてゆくのをながめているみたい。ちょっとハスキーで、半音がかっこいい。

 歌い終わると、「教会はあした忙しいんです。ほんとはこんなことしてる場合じゃないんだよね。」とくすっと笑いながら言うので、日曜日の礼拝があるからかなと思ったら、「明日はイースター」だった。ねえねえイースターって、ものすごく大きな行事じゃなかったっけ。それはたいへん。

 一曲目は、神さまは登場しない曲だった。2曲目は“トランペットの響きが永遠の別れを告げる”とはじまる、自分の死についての歌。死を悲しいものでなく、ポジティブにとらえる、それはゴスペルなのかなあ。私が家族に「死んでからも仲良くしてね」って言ってるのも、ちょっと宗教ぽいのかもしれん。と考える。

 左右に座るベースとギターが、最新鋭の機械に見える。楽器の音が、そう、ぴかぴかの新車の上等な感じ、フェラーリとかフェアレディzとか、それを乗りこなす、弾きこなす音楽だな。小坂忠は、パレットにとろりと流した鮮やかな絵の具色の車に乗って、スピードを出す余裕のおじさんだ。“目を覚まして現実を見て歩き出そうよ向きを変えて”これゴスペル?

 “木金土は映画館、”という歌詞が“日曜日はきみのため”と続く。この「きみ」は神さまでもあるのかも。日曜日一日を誰かに捧げるというのは難しいことで、すくなくともわたしにはできないんだよね。尊敬する。ベースの人が弾きながら落ち着いて会場を見渡す。ベースの中には別の時間が流れているんだろうか。低い音がギターと絡まって、気持ちいい。

 You tube で昔の小坂忠の歌うのを聴くと、今の唄が断然いいと思う。ゴスペルってそんなに特殊なものではない、普遍的な歌なんだと感じた。

 アンコールは「機関車」ほか一曲。この歌難解。「きみ」は「僕の影を踏みながら先へ先へと走る」。二番で僕は機関車になっている。考え考え、頭の中で何回も聴いちゃう曲でした。

IHIステージアラウンド東京 ONWARD presents 『劇団新感線 髑髏城の七人 season 花』 

 「いい席だねー。」「ほんと、いい席だー。」

 私の一列前の人が、ほかの席から様子を見に来た友達に、口々に羨ましがられている。確かに、いい席。天魔王の見る「整った」満月は半分見切れてしまうけど、俳優さんの姿もよく見え、何より、端で劇場が「廻っている」のを体感できる。見上げる天井が、なるほど丸い。私たちは円の内側にいる。グレーの湾曲したスクリーンが天井と同心円に舞台を閉め切っている。スクリーンはほぼ90°で一旦切れ、別のスクリーンがそれに連なる。このスクリーンが開き、客席の下から動力音がして、開いた正面まで私たちを運んでいく。(ま、まわってる?)広く開く場面もあれば、それほど開かない場面もある。開口部が小さい時には、両側のスクリーンに、城や家や、さびしく夢のように揺れる荒地の花が映っている。要するに暗転のない舞台なのだ。スクリーンと客席の間の、円形の通路(廻り花道って感じ?)を、髑髏党の鉄機兵や、血路を切り開く「髑髏城の七人」が駆け抜ける。ダイナミック、だけど残念なことには、セリフがぱりっと聞きとれないのである。9割がたの、亡霊みたいな芝居を3時間追いかけなければならない。尻上がりに面白くなるからいいけど、いいセリフがもったいない。例外的に古田新太のセリフは聞きとれるので、何か工夫しているのかなと思った。

 天魔王の成河が飛びぬけて迫力がある。本の中の本、飛び出す絵本を読んでいるみたいだ。大仰で極端、この劇場が破格なのに足並みをそろえていてぴったりだ。蘭兵衛(山本耕史)と捨之介(小栗旬)のトラウマに毒を注ぎ込む。山本耕史、心変わりにとても説得力があるが、捨之介、兵庫(青木崇高)ともどももっと極端でお願いします。いつもの「演劇」と、違う感じで。小栗旬がカーテンコールで去っていく後姿が、「きゃあああ」って感じで捨之介でした。

ヒューマントラストシネマ有楽町 『はじまりへの旅』

 「学校、行った方がいいよー。」

 あーんなに学校大嫌いだったくせに、画面に向かって呟いているのだ。変節?保守化?年のせい?

 やっぱり今でも学校嫌いだし、叱られた先生のことはなつかしいよりふーんだと思う気持ちの方が強い。だが、いま、年を経て、一つだけ云えるとしたら、学校行かないと「損をする」ってことなのだった。

 父のベン(ヴィゴ・モーテンセン)を「キャプテン」とあおぐ六人兄妹たちは、現代文明とは違う軸で生きている。映画が始まると映し出されるのは、針葉樹の深いつらなり、その緑の木々の天辺から、カメラはゆっくり降りてくる。そこには一頭のシカがいる。それから木の間隠れに覗く黒く塗った顔の青い目。

 このシカをね、ナイフで狩るんです。すごいね。ここには子供たちに有無を言わさぬ、自然とともに生きる生活があると、とても早い段階で観客は理解する。彼らは獲物の皮をはぎ、夜にはたき火してドストエフスキーなんか読んでいる。ギターを持ち出して、家族みんなで合奏し、歌い、踊る。楽しそう。

 この家族にはウィークポイントがある。お母さんだ。お母さんは双極性障害で、躁と鬱の繰り返しの果てに、死んでしまった。このお母さんはきっと、この生活を肯定し、否定し、それが良いものであると同時に悪いものでもあると知っていた存在だった。頭と体をフルに使う、物質文明から離れたハードな暮らし、だがそれは現代社会を受け入れて「いま」生きることを難しくする。お母さんの葬儀に向かう一家。ベンの義父(フランク・ランジェラ)が、頼もしげな文明社会の父性を体現し、義母(アン・ダウド)の娘を失った悲しみがリアリティを持って迫ってくる。現代社会からベンに打ち返される球は、きびしく、痛い所をつく。ベンがうっすらと涙ぐむところ、それがあるからこの映画が成立している。

 映画を観終わって、自分の「損をするよ」という考えは、とても皮相的であったなと考えた。そんなの貨幣経済上の考え方じゃん。

Bunkamuraシアターコクーン 『フェードル』

 「魔法が解けるまではどうすることもできない」とプルーストも言ってた。って、プルーストに聞くまでもなく、恋心という物は、手の施しようがないものだ。ラシーヌの『フェードル』や『アンドロマック』、大好きだ、恋の悩みの真ん中にどっぷり嵌って、「どうすんのあんたこれから!」と言いたくなるシチュエーションで、2,3時間しっかり恋心の変遷につきあうのだ。

 今日の「フェードル」は石造りの宮殿にいる。石は冷たく、石は熱い。なめらかであり、粗くざらざらしている。その二面性がフェードルと、その恋を表わしているようだ。石の大壁が大きく三角形に切り取られ、そこから外光が射しこむ。しかし中はくらく、椅子が一脚置かれている。椅子には赤い布が一筋かかり、それが椅子から流れ出して石段をくだり、禍々しい川のように見える。石の大きさ、重さを感じ、人が小さく、潰されやすいことを思う。この重さは神でもあるのだろう。

 フェードル(大竹しのぶ)はアテネ王テゼ(今井清隆)の二度目の妻、最初の妻の子凛々しいイッポリット(平岳大)に恋心を抱く。許されない恋だ。登場したフェードルは、マントで顔を隠し、罪深い恋に息も絶え絶えになっている。誰にも言うことはできないと思い詰めたフェードルだったが、乳母エノーヌ(キムラ緑子)に話してしまい、そこから事態が重く、深く、下へ下へと進展してゆく。

 恋の貌。大竹しのぶは恋の重さを十全に描き出す。イッポリットに心を打ち明け、一転、憎んだり、自分のことを疎ましく思ったり、相談に乗ってくれた乳母を遠ざけたり、恋のドキュメンタリーだ。繰り出されるセリフに重い感情が乗り、恋の絶望を目の当たりにする生々しさがある。皆好演、重厚な交響詩のようだった。