東京芸術劇場 『William Shakespeare's Richard Ⅲ リチャード三世』

 あら。プレビューだったんだね。

 舞台闇。目の奥の方へ、奥の方へ、後退してくるような、抉ってくるような闇。滴るような濃い闇だ。ゆっくり客席が暗くなり、激しいドラムのリズムに揺れる人々が現れる。全員が糊のきいた白いシャツと、黒いパンツを身に着けている。サックスが見える。パーティだ。エリザベス朝風の襟とカラーをつけた髭の代書人(渡辺美佐子)が、舞台前面に歩いてくる。手術室の無影灯に似た蜂の巣状の照明。セメントブロックを高く積み上げた絵の描かれた三方の幕。中央正面にリチャードらしき長身の男(佐々木蔵之介)がいて、リチャードの有名な冒頭のセリフを語り始める。それが気の利いたスピーチであるかのように、パーティの男たちは皆、リチャードの言葉の合間にどっと笑う。リチャードが己の姿を呪う言葉を吐いても、笑う。男は化粧をし、輝くように美しいのだ。だから呪詛は、おどけた言葉にしか聞こえない。

 なんとなく、自分がいやな気持になっているのに気づく。男だけのパーティ、男だけの冗談、男だけの秘密結社、決して女には明かされない秘密を演じているのを目撃している気になる。それは秘密の井戸で演じられる。シェークスピアのセリフは「ずらされて」いるが皆ぴったりに響く。今井朋彦のマーガレットの呪いが全編に深く効いている。

 リチャードが追いつめられてゆくシーン、不意にエチオピア風、演歌風の節にあわせて歌が始まるところ、ここ、難しかった。今まで心に重層低音が響いていたのに、突然チューンになる。このシーンで、客席に激しく笑う「女の人たち」がいたのだが、それがまるでリチャードへの復讐の、芝居の演出の一部に感じられ、そこでシーンが完成したような気がしたのだった。

シアターコクーン・オンレパートリー2017 『危険な関係』

 中央に引っ張られ、皺を見せ、緊張を見せる左右の黒い幕。誰にも明かさない胸の奥。原作のいろいろのせいで、信賞必罰のはなさか爺さんみたいな話かと思っていたよ。ところがこれは、高度で張りつめた駆け引きと、洗練と退廃の極みの登場人物による、怖くて面白い舞台だったのだ。

 かつての愛人ジェルクールに復讐するため、男には決して屈服しない女メルトゥイユ侯爵夫人(鈴木京香)は、恋の好敵手で共謀者のヴァルモン子爵(玉木宏)を動かして、ジェルクールの婚約者セシル(青山美郷)を堕落させようとする。一度は断ったヴァルモンだったが、自分の言い寄っているトゥルヴェル法院長夫人(野々すみ花)にヴァルモンと付き合わないよう忠告したのがセシルの母のヴォランジュ夫人(高橋惠子)だと知り、メルトゥイユ侯爵夫人の思惑に乗る。

 話が進めば進むほど、芝居は息詰まる展開となり、餌食となる人々の成り行きや、メルトゥイユ夫人とヴァルモンの「主導権」を巡る戦いに見入った。特にプレイボーイで、モラルも全然ないヴァルモンが、トゥルヴェル夫人にふと心の素肌で対応してしまうところなどすごくすてき。

 ただなー。序盤が惜しい。メルトゥイユ夫人とヴァルモンの会話シーンに、余裕と退廃と悪意と哄笑が足りない。交わされるセリフが瘠せている。退廃はヴァルモンの馴染みの女エミリー(土井ケイト)が一手に引き受けていて、スライドドアに押し付けられる生々しさに肉体を感じた。ダンスニー(千葉雄大)が、凄く垢抜けない人柄で、凄く垢抜けない服装だ。謀略と洗練こそが正義、それに観客もダンスニーを笑うことで加担する。終幕、胸の奥の暗さを思う。しかしそこには歳月の皺と醜い引き攣れがあるのだ。

浅草見番 三遊亭萬橘定期独演会 『第13回四季の萬会』

 その土地の芸妓さんの束ねや調整事務をする見番、その浅草見番の二階の広座敷で、今日は萬橘さんの定期独演会。

 畳には一面に白い座布団が敷かれ、畳に座るのがつらい人たちには、10席ほどの椅子席がある。プロセニアムアーチ(?)の向こうが板張りで、高座があって、その後ろに六曲二双の白い屏風。私の座布団の隣に大きな木製のガラスケースがあり、中に8挺の三味線がじーっとならんでいる。「大切に使いましょう」という小さい注意書きがなんかかわいい。

 開口一番のまん坊さんの出の前に、とってもじょうずな三味線が聞こえた。グレーの着物からえんじ色がのぞくおしゃれな取り合わせで登場したまん坊さんに、あれっと思う。たたずまいがとても落語家らしい。こうして薄紙を剥がすように、書生っぽいまん坊さんも、成長していくんだなあ。今日の落語「しわい屋」の出来は今一つで、あとで本人も少し浮かない様子に見えたけど、全体の雰囲気はよくなっていた。

 萬橘さんの最初の話は「ふだんの袴」。墓参りの殿様が、骨董屋の店先をかりて一服している。それをみていた粗忽者が、お殿様のまねをして煙管の火種を袴に落とし、お殿様のようなセリフを言おうとする。萬橘さんがすごい勢いで黒羽二重と仙台平(といったと思うけど)のお殿様の衣装のくだりをすっ飛ばすので、聴いてほしいのはそこじゃないのだろうと思うけれど、それでも、もうすこし、お客に意味を張りつけてもいいような気がした。「いいかたちだね。」とお殿様の悠然とした姿を思い返しているところが、とてもよかった。粗忽者の目の裏に、さっきの光景がもう一回見えている。煙管の羅宇がつまっているのもずぼらでリアルで、おかしかった。

 次はゲストの三遊亭白鳥さんがチャイコフスキーの調べに乗って現れる。着物の肩の折山に袖先まで、アディダスみたいなストライプが入っていて、紋の所に大きな白鳥が、首をつつましく下げている。白鳥さんはついこないだ腸にポリープが4つみつかり、即入院で取ったばかりだそうだ。

 「じぃ」「じぃ!」「侍従長!」という語り出しで始まった噺は日本のプリンセスの冒険譚。上つ方と「東日本橋」「かっぽう着」「てんぷらや」などの対比で笑わせる。インパクトと毒気でぐいぐい推進してゆく。でも、いうほどtouchy(きわどい、扱いにくい、厄介な)じゃない。穿ちがない。上流家庭の子弟の喋り方など知りませんってとこから入ってる。ヒロインに対して愛が足りないし、定食屋のおばさんも、煮込み屋のおじさんも記号的。ポリープ取ったばかりだからか、少し元気がないように見えました。

 最後は「大工調べ」、題名は聞いたことがあるなあ。家賃のカタに道具箱を大家におさえられている与太郎のために、申し開きをしに行った棟梁(とうりゅう、むかしっぽい!)がとんとんとーんと啖呵を切る。萬橘さんの啖呵は三十代で気力も体力も集中力も最高じゃないと切れない啖呵。よどみなく超高速でしかも意味が通ってる。でもこれも最初の噺の着物の描写と同じで、もっと目を立てて、お客さんに貼りつけた方がいいように思う。啖呵切ってる意味がどこかにいっちゃうもの。

 でもこの啖呵が高速だから、与太郎がのん気にしている対比でとても笑える。与太郎がカメにえさをやっているところで、今日一番笑ったのだった。

PARCO & CUBE 20th present  『人間風車』

 気持ち悪いものが大嫌い、なのはなぜだろうと考えてみる。飛び散る血だのはじける脂肪だのがだめ。それは血も脂肪も全部「わたしの」であるせいだ。いつも被害を受け、いつも痛い。「痛い目にあわされる側」に必ずいる。アクション映画でスカッとしたこともあまりない。では『人間風車』で作家の平川が、痛くてスプラッタな童話を聴かせるのはなぜか。それは虐げられた苦しみを他に与えるためで、そのせいで平川は作家として業を背負うのだった。

 ところが平川を演じる成河はこの芝居の中で、群を抜いて機敏で頭が回るように見える。せりふまわしがきりっとしているのだ。そんな男が「結局金持ちの大学中退おとこが得をしました」というような、抑圧と不満に満ちた童話を書くかなー。

 芝居全体を通してみんな声のトーンが高すぎる。ミムラは彼女の音域ではカバーしきれないほど声が高くなるが、細かく一生懸命演じている。だがそれはわき役の芝居だ。サム(加藤諒)に近づかないでというところからトーンを落としたらどうかと思う。仕掛けず、受けた方がいい。美しいヒロインなのだから、堂々と芝居して。

 テレビ局のディレクター小杉の矢崎広が好演しているが、この人、小悪党なのになぜあんなことになるのだろうと脚本が疑問。母親たち、子供たちがステレオタイプ。こういう血まみれの芝居、凄く流行ったことあったなあと思い、あのころはきっと持ち帰る「いやなきもち」が新しかったのだが、「被害的」な私には今ではそれが「加害的」でしかない。

 松田凌、こころがこどもであれば、声は甲高くなくていいとおもうよ。声を大切に。ADの川村紗也がリアル。終盤まで緊張が途切れず、隣の席の人は最後の加藤諒のくだりで涙していた。

さいたまゴールド・シアター第7回公演 『薄い桃色のかたまり』

 1ミリのあいだに3本から4本の髪の毛を彫ったという江戸の浮世絵彫師、俳優のセリフ術にはそれに近いものがあると思う。細い線を出すだけでなく、強い線や柔らかい線、下絵通りにそれぞれを削り出していかなければならない。たいへんだよね。

 さいたまゴールド・シアターの俳優たちは、素人で玄人だから、「毛彫り」の玄妙さなどは思案のほかだ。まずセリフを聴く(大体聴けている)、それからセリフを言う(大体言えている)。例えて言うなら、丸刀(彫刻刀ね)一本で全てを彫る。微妙な影はつかないが、丸刃をこつこつと、また一息に扱ううち、不思議なことが起きる。太いぎこちないその線が、芝居の結構を大きく見せてくるのだ。細い線を瘠せたものに思わせる。むしろこちらのセリフの方が、肉厚で、役の内面をよく語り、丸刃を操る老いた身体の重みを感じさせ、世界を重層化する。全員で踊るダンスシーンには、一人として音楽に「入ってこられてない」俳優などいず、皆、楽しげに踊れている。

 添田家の主婦真佐子(上村正子)が家で作りだす「パエリア」の何となく唐突な可笑しさ、「夫婦なんてみんな変態だ」という言い切りの滑稽さ、大きな喪失のかなしみの中の、小さな笑いを笑っているうちに、いつの間にか芝居は桜の花びらを船にして、前後にすべるように動き出し、今の「い」と今の「ま」の間合い分の空をおちて、「確かに今だったね」と私たち観客に言うのだ。(ほんとに今?)という問いを、中に隠し持っているけれど。

 死や理不尽を背負ったイノシシ(中西晶)たち、隣駅までしか来てない線路、復興本部、パエリア、パエリアを食べた男(内田健司)と食べなかった男(ハタヤマ=竪山隼太)、訪ねてきた娘(ミドリ=周本絵梨香)、こうした生々しい物語がしっかり留めつけられたのは、あの丸刀の、武骨な彫り口が誠実だったからだと思う。

新宿武蔵野館 『望郷』

 子どもの鉛筆の持ち方が変でも、一家の実権をもつおばあさんと同じであるため、直してやることができない。というようなことは結構よくある。この映画に出てくるとある島の田山家も、そのような家の一つ。母親が無意識に、娘を自分より幸せにすまいと図り、祖母は嫁に自分と同じ不幸を経験させようと強く牽制する。

 祖母の田山セツ(白川和子)はいつも遠くから映され、アップになることはない。白川和子を使っているのに、映画はこのおばあさんを、紋切型の姑にしか撮らない。方言も使わないし、その愚痴もスルー出来そうな程ありきたりのものだ。怖くない。リアリティがないのだ。そのリアリティのなさが、あとへあとへと、ボタンを一つ掛け違ったように効いてしまう。

 田山高雄(相島一之)と田山佐代子(木村多江)の夫婦は、セツの死後、どちらが主導権を取るのかよく解らない。晩酌をする高雄は画面を観ただけで人柄が彷彿とするくらいぴりっと造型されている。ぺたっとした髪、冴えないメガネ、うまそうに飲む酒。佐代子の心事が、よく伝わらない。

 にもかかわらず、田山夢都子(貫地谷しほり)は、幅いっぱいきっちり役作りして歪んだ家の一人娘を演じる。帳尻があっていて不思議だ。一方、中学教師の大崎正一郎を演じる緒形直人は、目立った芝居をしない。しないといっても盃に酒があふれそうになる表面張力を感じる。つつけば芝居がこぼれそう。いじめ首謀者の母深田素乃子(石橋けい)も何もしないが、体に場の空気を通していて、余力のある人だと感じた。

 いろんな人の様々な心事、人事、雑事を抱え込んで島と海に日が照る。入江が美しい。船が行きかう。そういう場所を思う心が撮れている。

good morning N°5 『豪雪』

 白い段状の舞台で「GOOD MORNING」と書かれたTシャツを着た俳優たちが物販をしている。彼らは芝居の準備のためにほどなく去る。一人残された作・演出の澤田育子が、上演中の諸注意を説明する。この芝居(ダシモノ)ではまず、飲食自由、飴の包み紙の音自由である。静かに見ていただきたいシーンはないと、澤田は言い切った。トイレに行ってもいいしケータイ切る必要はない。滅多に連絡のない好きな人からの電話だったらどうするのか。喋ってもいい。そのお喋りの方が面白いならむしろ芝居止めて聴く。

 雪が揺れる黒い幕から降ってくる。芝居が始まった。雪にまつわるいろんなシーンが演じられ、どうやら細雪が下敷きになっているシーンもあるが(ここは後半にいい話としてつながる。しかしいい話は「たてて」ない。)、なんか、そんなことはどうでもいいみたい。世界からエロスを剥ぎとり、可笑しさを抽出するところに主眼がある。観ているうちに、自分が大学生になった春、綺麗な女の子たちが行きかうキャンパスで、「私の顔って記号だな」と考えたことを思い出した。他人と自分を区別するために「顔」はついてて、ただ、それだけだ。ここに登場する裸体も、何らいやらしくなく、その他の人と区別するため、「私」であるために数独のパズルを書き込まれているのである。美醜を越えている。そのあまりのエロスのなさに感嘆した。

 ただ、野口かおるの上に上衣をかける藤田記子の仕草が、女らしく優しく、「裸」になることを「恥」、「傷」に思わせる。そう思わせるくらいならやってはいけない。セリフが叫びすぎで、聴きにくい。

 喋ったり途中でトイレに行ったりケータイに出る人もなく、行儀のよい普通の上演だった。ちょっとざんねん。