M&Oplays produce 『市ヶ尾の坂ーー伝説の虹の三兄弟ーー』』

 時計がない家。近代のモダン和建築と、戦後すぐの住宅公庫で建てたような安普請が、ないまぜになってる不思議な家。思いつきのような畳の上のスツールとカウンターもある。しかし、下手手前のポトスの鉢を置いている小テーブルが、しっとりと落ち着いて、ある重さ、湿気を伝える。

 都市計画のために歯抜けのように空き家が増え、すぐわきの坂をトラックや乗用車が凄い勢いで通過する市ヶ尾の町。ここに三人兄弟が暮らしている。

 明るくなると次男隼人(三浦貴大)が下手窓を背にして立ち、ソファの美しい人妻カオル(麻生久美子)の話を聞いている。カオルは子どものころの思い出話をしている。彼女はバスに乗るまでの時間を顔見知りの兄弟の家でつぶしていることがわかってくる。

 この芝居を観ていくうちに、兄弟がカオルを愛している、というか、讃仰している、お母さんになってもらいたい!とおもっていて、カオルの子供をまるで自分自身であるかのように感じているのだと知る。水を渡しあう三連水車のような兄弟に、カオルはお茶を淹れ、ホットミルクを作る。

 麻生久美子、以前観た時よりぐっとうまくなった、というのは、台詞の中にカオルの性根、役の骨のようなものが浮き出して、この女の人が、どんな行動にでても、観客が受け止められる、理解できるという下地を作っているからだ。それは冒頭の隼人との会話に現れる。これに対して、隼人は、「享受している」「独り占めしている」感が少し薄い。大森南朋、コミカルな役が浮かずよかった。着替えを差し出すときもっと必死で、そしてそれを一生懸命隠してないと、現代では通じにくいかも。

武蔵野スイングホール 『アンッティ・パーラネン』

 真珠色の丸い釦が6つ3列、演奏者の左手側についていて、その向って右隣りに、小さな釦がいくつか見える。黒いアコーディオン。小さな釦の右は蛇腹、すこし開いている。開演前、何気なく舞台床面に置かれているのだ。だいじょうぶ?心配じゃない?なんとなく古い、ライカのかっこいいカメラを連想する。右手の、普通鍵盤のある所にも真珠色の釦が縦に10個、11個、12個と並ぶ。蛇腹と釦の間に、金色の文字で読めないけれど楽器の会社名(たぶん)が崩し字で書いてある。左上に赤くスイッチが光っている。「エレクトロニカ」なのね。

 暗くなり、下手(舞台向かって左)から現れたアンッティ・パーラネンがアコーディオンに歩み寄る。ノータイのスリーピース、長い髪をかっこよくひっつめに束ね、眼鏡をかけている。

 アコーディオンに息を吸わせる。

 「ハロートーキョー」渋い塩辛声だ。蛇腹を左上方に、いっぱいに伸ばす。カメラなんかじゃなかった。思い違いしていた。蛇腹の上側が縮んで本体に激突する。これ、なんか、こわい生き物だ。変わった和音が規則的に鳴り、激突も音楽として聴こえてくる。パーラネンが声を出す。うなり声、うなり声じゃないGrowlingって感じ。蛇腹が左右に、心臓のように鼓動する。蛇腹には金で、U字形の飾りが描きこまれているのだが、もはやツキノワグマの首の模様にしか見えない。右足で電子音の重いリズムを取っている。パーラネンは、今日のアコーディオンの機嫌をはかっているみたい。拍手。アンッティ・パーラネンがにっこりする、アコーディオンはパーラネンの言うことを聞くことにしたみたいだ。

 アコーディオンのベルトは右ひじにぴんとかかっていて、左手を通すベルトは手首に固定されている。合いの手をアリガトウと日本語で、民謡っぽく上手に入れる。蛇腹の左側が膝から零れ落ちる、生き物のようなアコーディオンアコーディオン弾きはジムに通う必要がないんだよ、といってパーラネンは汗を拭き、上衣を脱いだ。

 歌い始めるとモンゴルのホーメーを思い出す。あのキレイナトトノッタフィンランドの山河を切ると、こんな音が出てくる。旋律では表しきれないノイズ。旋律でとらえられない世界。武蔵野文化事業団の宣伝チラシに「吹雪のごときアコーディオン!」とあって「へへー」とおもっていたのだが、あのチラシを書いた人、吹雪みたことあったのかも。

 休憩後、飼っている犬がハアハア言っているのを見て(うちの犬は12才、白くて小さいです)作った曲を演奏する。アコーディオンが両手の間で生き物(いや犬みたいに)らしく細かく息をする。犬は、何かがかなしくてなにかを待ち望んでいる感じ、何を思っているかわからないよね――食べ物のこと以外は。とパーラネンは言う。

 息は犬の思いの形、すこし音が上がり、うれしさに似た音がし、低い音も交じり、かなしいような気もする。犬の中の宇宙だ。犬の内側から世界を眺める、相変わらずアコーディオンの蛇腹はちいさく、細かく揺れている。

 そのあと、ヘルシンキから遠く離れた故郷の冬から春をスケッチした繊細な、綺麗で旋律のある曲をやり(女声の合唱があっても不思議じゃない)、さいごに、10年前、新聞の写真を見て作った曲をやります、という。ガザ。2007,8年ごろって空爆のころだ。暗い歌。写真のフレームが突然大きく拡がり、一瞬、ガザの瓦礫を足で踏んだ気がした。女の人たちのつんざくような嘆きの声が聞こえてくる。曲は聴衆を呑み込んで重い終わりを迎える。戦争がありませんように。テロが起こりませんように。すごいイメージ喚起力だった。アンッティ・パーラネンはにっこりとコンサートを終える。あの激しいアコーディオンは舞台面に静かに置き去られ、何事もなかったかのような涼しい顔をしていた。

イキウメ 『図書館的人生Vol.4襲ってくるもの』

 「き、斬れぬ」とかいうのである。頭の上に巨岩を想像して暮らす剣豪に対して。坂本竜馬だったかなあ。

 あらゆる人の頭の上に、大きな黒い岩が浮かんでいる。それが落ちてくる。

三話のオムニバス。一話目、認知症になってしまった脳科学者山田不二夫(安井順平)は、まだ衰えないうちに脳の機能、自分自身を「マインドアップロード」して、見た目寄せ木細工の小さな矩体に姿を変える。息子(盛隆二)、協力する研究者(森下創)、妻(千葉雅子)は彼を受け入れるが、もっと「人間らしく」するために、「嗅覚」=記憶のセンサーを取り付ける。寄せ木細工の函と化した不二夫を記憶が襲う。センサーを外してくれという不二夫の頼みを、周囲がなかなか聞き入れないのがこわい。この、本人の意見の通らない感じが、三話目に持ち込まれている。「よかれと思って」意思を無視され続ける女子大生(清水葉月)。一話目ではコーヒーの香りが重要な役割を果たすのだが、千葉雅子の淹れるコーヒーは本当に香りを放つ。きっと熱いお湯を使っているのだ。気を付けてね。

 二話目、意志とは違う衝動に負け続ける男(大窪人衛)。衝動に負けることが宇宙の均衡を守りより良い世界を作っていると考え、身動きが取れなくなってしまう。

 頭の上の黒い岩、「記憶」だったり「衝動」だったり「強制」だったりするそれは、究極には「死」なのだろうか。「死」は動かし難い運命だけど、一人一人の個人につきものの別々のもので、別々に享受されるべきものだと思えてくる。 

 安定の仕上がりで誰もがかっちりと自分の役を演じる。清水葉月と小野ゆり子のやり取りなどよかった。

新国立劇場中劇場 『ヘンリー五世』

 ザ・戦争。戦争のいろんな貌を、2時間50分(休憩20分)でぎゅっと圧縮して見せてくれる。「聖クリスピンの祭日の演説」っていう、戦い前のヘンリー五世の台詞が有名で、ほんとの戦争の前に上演されたりして、愛国心を鼓舞する芝居とも言われているが、鵜山仁の演出は、ここを盛り上げたりしない。フランス軍(青)、イングランド軍(白地に赤い十字)の旗が交互に現れ、戦争の相対的な姿が強調される。でも、演説を聞いて、一般人の目が寄る、興奮状態になる怖いシーンは、ちょっと見たかったかなと思った、戦争には、異様な光景がつきものだから。

 兵隊のバードルフ(松角洋平)が教会泥棒をしてつかまり、舞台奥から、手前に立つヘンリー五世(浦井健治)に野良犬のような切ない視線を投げ、それを王が受け止めるところ、よかった。浦井健治の立ち姿が急に削げて痩せ、野良犬だったころのハルの心が震えているのが見えるようだった。

 衣装がとても美しい。フランス皇太子の使節(川辺邦広)が、両手をふわっと広げつつ膝をつき、青いマントを広げる仕草がとても綺麗で優美だった。フランスな感じ。但し、ヘンリー王の登場時の白のガウン(ローブ?)、最終場の赤と黒のガウン(ローブ?)は、浦井健治の顔と首がほっそりしているために、真横から見るとバランスが今一つに感じられた。

 エクセター伯(浅野雅博)だのフルーエリン(横田栄司)だの素敵な人、おもしろい人が盛りだくさんに出ている。その中でランビュアズの玲央バルトナーが、吃驚する程ハンサムだった。初舞台だそうだが、ここは少し我慢、芝居しすぎちゃだめだよ。下から上へとゆっくり首を動かして見上げる古材を組み合わせたセット、吠えかかる二匹の巨大な犬のよう、又は縺れに縺れた人々の思惑のよう。

PARCOプロデュース2018 『ハングマン HANGMEN』

 キルケゴールって、教会の庭って意味。

 とか、ちょっと言ってみたくなるほど、キルケゴールは遠い。イングランド北部オールダムも遠くパブも遠い。訛りはゆるく皆巧みに演じるが遠い。「いま、ここ」にいない。唯一信じられるのは十五歳の娘シャーリーを演じる富田望生だけ。シャーリーは「ここ」にいる。貯水池のように「芝居の水」をその両親(ハリー=田中哲司、アリス=秋山菜津子)に分け与える。マーティン・マクドナーの世界と日本の「いま」をつなぐ要になっているのだ。アラン編みの白いカーディガンが、少し太めのかわいい人形に着せたみたいに、ぱつんぱつんにフィットしている姿をみると、この娘を好きにならずにいられない。その芝居は新鮮で正直だ。他のキャストも、もっとパブでリラックスしていたらなあと思う。特にムーニー(大東駿介)は、背骨がうねうねになっちゃってるイワシの骨みたいな役で、ものすんごい難しいと思うが(シャーリーとのやり取りの性的な感じがよく出ていた)、その場その場に「いる」のを目標にがんばってほしい。宮崎吐夢が好演している。「わけがわからない人」がちゃんと成立していた。

 1965年、イギリスで死刑が廃止された。新聞記者クレッグ(長塚圭史)が「イギリスで二番目」の死刑執行人ハリーにインタビューを取りに来る。同時にハリーが経営するパブには、冤罪で死刑になってしまったのかもしれないヘネシー(村上航)とのかかわりを匂わせながらムーニーがやって来る。

 死という暴力を人にもたらす尊大な男。その決定は私たちのそれと同様穴だらけである。理不尽だった。理不尽はハリーをも襲う。暴力というものは皆、理不尽だけど。

ブルーノート東京 シルビア・ペレス・クルス

 舞台に六つ、椅子が見える。満席のブルーノート。5月11日のNHKあさイチ」に出ましたと、給仕係が後ろの席のお客さんに話している。

 2分前。ひらっとバイオリンの音が一瞬聴こえる。会場が暗くなり、後方左側から、一列になって、ミュージシャンの入場。チェロ(ジョアン・アントニ・ピク)、ベース(ミゲル・アンヘル・コルデロ)、ヴィオラ(アナ・アルドマ)、バイオリン(カルロス・モントフォート)、バイオリン(エレナ・レイ)。最後に、豪華に波打つ黒髪の、シルビア・ペレス・クルスが登場する。胸元が深く切れ込んでいるドレスは、ウェストの所でしぼったように見える大人っぽいものだけど、色はクールで沈んだ青が選ばれている。笑顔が少女のようだ。

 慎重に左から右へと動いていくチェロの弓。Tonada De Luna Llena。満月のトナーダ。アルバムの一曲目だ。シルビアが静かに、ゆっくりと声を出し始める。体の中に洞窟があって、そこに声が巡っていくみたいだ。曲調が変わって激しくなる寸前、シルビアはかざした片手をぱちんと鳴らしてタイミングを取る。演奏が一度に静まる。かっこいー。現代音楽のように不規則だったり、五重奏のようにびしっとしていたり、バンド(バンドっていう?)はシルビアの遠くへ離れ(声を張る)、また近づく(声を落とす)自在のボーカルと拮抗している。白檀とか、伽羅のお香の、両端から火をつけたみたいだ。煙が絡み合い、立ちのぼっていく。「ルーナ」と長くのばしてうたうとお祈りっぽく、月に何を祈っているのだろう。笑顔で少しハミング、体が小さくゆっくり揺れ、歌いおさめる。

 バンドの紹介、初めて日本に来ました。私たちはほんとの家族(バンドと)ではないけれど、家族みたいです。この人たちと演奏できてうれしいです。だろうな、この弦楽の人たちすてきだもん。2曲目はアルバムでも2曲目のMechita、ペルーの曲だそうだ。ピチカートの演奏だ。次はVestida De Nit、夜を纏うという曲。チェロの人がアレンジしたそうだが、それがとてもよくて、リードバイオリン(第一バイオリン?)の高音がきれい。頭上できゅっとシルビアが片手を握るとバイオリンがすっと止む。息が合っている。自由に伸びる声、なんだろう、CDよりぜーんぜんいいのだ。CDは家のステレオのせいか窮屈な感じ、きっとこんな風に歌の節が柔らかく四方八方に伸びていくのがわからないからだろう。ファド(ポルトガルの歌謡)を歌った時は明らかに声の出し方が違っていて、目が覚めるような、勁い声が投網のように会場全体を捕えるような気がした。空に広がる嘆き。これがファドなのね。いろんなことができるんだなあ。ドラマチックにも、かわいくも歌える。バンドもいろんなことができる。第二バイオリンの人はコーラスをつけて歌った。3拍子のメキシコの曲。

 Locaを歌う時、シルビアは音をテイスティングしているように、口の中で確かめているように見えた。マウスミュージックだなー。もちろん、レナード・コーエンのハレルヤも歌いました。素晴らしいライヴでした。アンコール二曲。

さいたまゴールド・シアター番外公演 『ワレワレのモロモロ ゴールド・シアター2018春』

 「稽古で一度も台詞を正確に言えたことのない俳優が、本番で台詞を正しく言えるはずがない.そんな実例をぼくは知らない.したがって本日の配役は変更します」2015年4月6日蜷川幸雄、稽古場の蜷川さんの写真を一枚一枚眺めていたら突然、赤ペンで書かれた厳しいメモと目があった。これはネクスト・シアターとの公演『リチャード二世』でのメモだけど、ゴールド・シアターに対しては、どうだったんだろう。

 というのも今日、俳優の台詞が出てこなくなるという瞬間が、いくつかあったからで、それはまるでガンジスのように向こう岸の見えない大河で、ボートを漕いでいるうち、するりっとオールが手から滑り、川へ落ちてしまったような感じ、きゃー、はやくはやく、オールを拾って、と思い、詰まった当人と、その相手役の手が細かく震えているのに、こちらも台詞が飛んで脳に霧がかかった人のような心持になり、それから「演劇」の「おぼえる」を基にした河の広大さにくらくらする。それはちっとも嫌な感じではなかった。しかし、完成度は落ちるよね。狎れてはだめ。

 岩井秀人の企む「私演劇」は、うまく働いているシーンもあれば、そうでないシーンもある。例えば「飢え」(舞台奥のリンゴとマスカットとオレンジが「飢え」へのお供物のように見える)はなかなか伝わらないし、激烈な戦争体験は「まとめられている」感じがする。しかし、大串美和子(大串美和子)が訥々と、「女としては愛せないかもしれないけれど」と語ると、ずどんとこちらの体に、ドーナツのような穴が開く。没落した家の娘、五十代まで家計を支え、身の振り方を考える女。誰の人生もひとくちでは語れない。日々つるつる生きているこの私の中にも「劇的」があり、「劇的」の渦中にいる人の中にも「つるつる」があるのだと思った。