上野の森美術館 『フェルメール展』

 「俺は空気を描くけん。」

 と、デルフトのフェルメールが言ったかどうだか、たぶん言わないけど、ほかの画家たちが挙って「絵」を描く中、フェルメールは見えない「空気」、確かに空間を充たしているのに、とらえられない自由な広がりを画面に定着しようと苦労した、ような気がする。

 見えるものを絵にするその構図、その細密、その迫真、どれにもフェルメールは辟易していた、んじゃないの。中でもヘラルト・ダウのような「匠気」(腕前を見せつける)には「どうなんだろうなあ」、エマニュエル・デ・ウィッテのプロテスタント教会内部の絵には「空気ないじゃん」、その他いろいろには「絵でしかないし」と思っていたに違いない、と私は見ながら考えた。

 『リュート調弦する女』、リュートをつま弾くぽろん、ぽろんという単調な音、糸巻を締めるかすかなきゅぃぃという糸の溜息が聴こえ、聴こえるにもかかわらず女の心はそこになく、窓の外の気配に集中している。誰も聴いていないやわらかな音は部屋を充たし、黒い椅子の、光を受けた鋲の列のように規則性がある。

 空気を絵の中に取り入れるには、全てのものが正確に、あるべき姿で、あるべき位置になければならない。『手紙を書く婦人と召使い』、ここでは白がとても重要で、厳しく使われている。窓からの光を受けて明るく輝く召使いの白い詰まった首元と袖、女主人のパフスリーブと優雅な被り物、この輝きで一層明らかな黒い額縁、引き締まったものの輪郭。頃はきっと春から夏、召使いの前の空白にある空気、主人のテーブルの前にある空気が、強いコントラストの中にはっきりと存在する。召使いは自分の物思い、自分の見る景色に向かって放心している。ここには主人に見せない自分一人の世界がある。もしかしたらこれは誰にも見られなかった、なかったような一瞬なのか。

日本橋三越本店新館7階 写真展「木村伊兵衛 パリ残像」

 1954-1955、『木村伊兵衛外遊写真集』として後にまとめられた写真、パリの写真の展覧会である。「外遊」という言葉のすんごいものものしさ、彼我の距離は果てしなく遠かった。写真の展示の最初に朔太郎の、ふらんすに行きたいけれども無理だから背広買う、っていうあの有名な詩がなぜか掲げられているくらいだ。

 会場を入ってすぐに、《パリの女 シャンゼリゼ通り 1955》という大きくのばされた写真がある。

 カフェの室内に座っている女の上半身、彼女は整った横顔を見せ、手を口元にあてている。深いオレンジ色に染められた爪が美しく、長方形の銀色の指輪、白っぽいベージュのニットのトップスを着て、細かいプリーツのスカートが丸テーブルのわきからちらっと見える。外からの光と、室内の明かりがぶつかりあってぼんやりニットの質感を浮き立たせている。テーブルには赤いトマトジュース、窓の向こうに空色のコートドレスの女の後姿がある。

 中心のこの綺麗な女の人は、どうやらマヌカンらしいのだが、全体のシルエットが円錐(?)ぽいせいか、空から降ってきた啓示のように見える。(ここ巴里だよ!)という木村の驚き、実は降ってきたのは木村とライカなんだなと思わされる。ガラスケースにこの時撮ったらしき別の写真の載った雑誌があり、窓の外を通る(トマトジュースを引き立てる)通行人は、赤い襟のオープンシャツを着た男である。マヌカン―ジュースと2点を決め、3点目を次々変えていくのかー、とそのカメラマンの眼が面白かった。

 カルティエブレッソンの撮った《撮影中の木村伊兵衛》、ベレーをかぶった木村がぼろ屋の梯子の4段目に上がり、写そうとするものに心を奪われているが、その下にはぜーんぜん別の事情があるのが面白くもかわいい。

恵比寿ガーデンホール 『Live Magic』  2018

 「バラカンさんのジャズのコンピレーションアルバム貰わなくちゃ!」一生懸命ホール入口でボルボのアンケートに答えるのであった。

 二台ディスプレーされたうちの赤い方(フュージョンレッドメタリック、XC40TA)、背の高い頑丈そうな車の周りをまわって、運転席を見る。

 フロントフェンダー(っていう?)とボンネットの間のみぞに、ちいさいちいさい、樹脂製のスウェーデン国旗がついていて、「とりはずしできます」。かわいー。運転席と助手席の間の正面に、すこし大きめの画面が一つあり、音楽やら空調やらナビやら電話やら、そんなの全てこのタッチパネルでやるらしかった。近未来だなんだってSF映画でよく見たけど、もう近未来きてたんだね。

 もう大体会場の様子はわかっているので、ケータリングの一番奥までするするっと行って、「トライフルケーキ」をひとつ頼む。大きなタッパーに分厚くクリームを載せたケーキが入っていて、10センチ四方くらいに切り分けてくれた。ふふふ。三層になったスポンジにお酒が染ませてあり、一層ごとにバナナが入っている。同行者に分けてやると、なんと層に垂直でなく平行に食べる。なんだよ。三層が二層になってしまった。ちょっと悲しく、ちょっと腹が立ち、ホールからの音がとても大きく聴こえる。私さ、なんか疲れてるみたいだなー。

 

はーい復活。ホールのリハーサルを3列目で見学。バンジョー奏者のノーム・ピケルニーがマイクの位置を見ている。右手の親指と人差し指と中指に小さめの銀色のピックが指ぬきみたいに嵌ってる。音をちょっと出して、スタッフに何度も、「大きすぎる。下げて」と言っている。そうでしょ。なんか私も今日、音が大きすぎるような気がしているの。

 上手側にノーム・ピケルニー、下手寄りにフィドルのスチュアート・ダンカンがたち、曲の最初だけをちょっと弾く。リハーサルを写真にとっていいという特典のある聴衆らしき人たちが、嬉しそうに写真を撮る。ノーム・ピケルニーは濃色のシャツに黒いポケットつきジャケット、スチュアート・ダンカンは水色のチェックシャツにジャケット。リハーサルがすんで暫くすると、すぐバラカンさんが登場して、「僕は名人が好きです、名人を二人紹介します」と演奏者を呼び出す。

 すーっと演奏が始まる。間がない。息もつけない。ひらひらとすばやくバンジョーフィドルが鳴る。途中で二人同時にふっとブレスするが(めっちゃかっこいいの!)それも一回のみ。早い。頭の中で鳴らしている超速の音が手に直結している。脳が手だ。2曲目はスチュアート・ダンカンがうたう。「聴いて!」って感じのない、とても聴きやすい歌。ノーム・ピケルニーは睫をふせて、淡々と演奏する。そういえばリハーサルからこっち、ぜんぜん観客見ないなあ。アメリカ以外に初めて二人で演奏に来た、って言った気がする。ノーム・ピケルニーは演奏と同じくブレスせず話す。わからん。けど、そんなこと言ったと思う。ピケルニーのバンジョーは二段のケーキのような形をしていて(みんなそうなの?)普通のバンジョーみたいに音がたわまない。澄んだ音。バイオリンの調べに絡む気泡みたい。途切れずぷつぷつと模様を描く。それから音が大きくなり、フィドルが弦を弾(はじ)く。ごくたまにフィドルと目を合わせ、しゅっとかっこよく曲が終わる。ぎゃっというような歓声、ノーム・ピケルニーがにこっとする。「モンロークラシックス」の話をしていたようだけど、私は「ブルーグラス」というのが、ビル・モンロー(1911-1996)のバンドの名前から取ったジャンルだということさえ、知らなかったよ。5曲目の、汽笛のようにフィドルが叫び、動き出す音楽を聴いたとき、やっとこの「のり」がわかった気がした。一人の人の「手」から流れ出してどこまでもどこまでも遠くまで行く音。Flow。とどまらない。バンジョー弾きの手、フィドラーの手から深く小さい泉が滾々と溢れて、細く長く音が行く。決して涸れない音だ。古い曲をやった後、アルバムUniversal Favoriteの一曲目Waveland。一番下の、高い音の絃の、丸いボディにとても近い所を小指がすいすいとおさえ、アルペジオを従えて美しい旋律を奏でる。一番好きな曲だといってMy Tears Don’t Showを弾く。ギター。ピックガードに薬指を置くせいか表面がすっかり擦れている。旋律をフィドルに渡したり、又受け取って弾く曲もある。後一曲と言って弾き始めたスチュアート・ダンカンのフィドルの、勢いある速さ。飛ぶように動く弓。確信ある音。かけあい。早い。拍手がずれるくらい早い。フェスの時間通りに終わって去る。ノーム・ピケルニーは汗もかかない。すごい演奏を涼しい顔でやるのが好きなんだな。

 

エビミツで買い物して、ガーデンホールに戻る。ジョン・クリアリーは後ろで聴こうっと、と思うが、後ろの「ゆっくり聴く用」或いは「疲れた人用」の椅子が空いてない。こらこら、荷物置いたままふらふらしちゃいけません。年を取ったら、断念と覚悟がないと、かっこよくなれないよ。自分も気を付けよう。

 2度目のジョン・クリアリー、1曲目のDyna-mite、ほんとにダイナマイトみたいなでっかい音がする。吹っ飛ばされた。あのー、今日音大きすぎない?バラカンビートで聴く限り、土曜日のラインナップは瀟洒な音楽で、日曜日はどーんと激しい音なの?同行者はジョン・クリアリーの一番いい所で、「耳が痛くなりそうだから」と中座しちゃったよ。

 それはさておき、Dyna-miteってジョン・クリアリーらしいっていうか特性がよく分かるような気がする。ばんっとなるドラムスやベースがきれいな空白(拍?)をつくり、その調えられた空白(畝?)にクリアリーのキーボードが芽をだした双葉のように並ぶ。これがまた魔法の双葉で、身をくねらせて伸びてゆくのがわかる。

 上手(右側)の壁に映るキーボードを弾く人の影。指先までが見えそうだ。

 キーボードが高音で転がるように何度もすばやく聴こえ、まるではじける星のよう。ライヴが進むとキーボードは螺旋のような音階を駆け上がり、バンドはスピードを出して飛び出していく。会場は揺れ、ドラムスの両脇に置かれたマイクスタンドもふらふら揺れている。

 ドラムス、ベース、オルガン(ナイジェル・ホール)、どこまでも走り、音が分厚い。息があってて、音を一斉に止めるストップモーションも素晴らしかった。

 黒いシャツに茶の帽子のジョン・クリアリーは途中ギターに持ち替える。茶の帽子が冗談ぽく大きくて、『不思議の国のアリス』の「セイウチと大工」を思い出したよ。

 4人でコーラスをするとスモークのかかった舞台の空気を取り出して美しく並べて見せてくれているような気がする。

 キーボードの前に戻り、鍵盤の中から、会場いっぱいに、きらきらと降ってくる音を浴びる。とても盛りあがった。

 (星くれた)と思いました。

日本・スウェーデン外交関係樹立150周年 サーカス・シルクール 『LIMITS』

 スウェーデン語を習い始めのころ、ワークブックに、「スウェーデン人とはなんですか?」という、難しい問いがとつぜんでてきた。「国籍」って単語を急いで調べて答えたけど、「あれはなんですか」レベルの人にすごい質問をする。

 現代サーカス(アーティスティックな新しいサーカス)のグループの一つ、「サーカスシルクール」は、ストックホルムを拠点に活動している。今回の公演では「Limits―境界、限界」をモチーフに、難民について語られる。劇場に入ると台形に緩やかに広げられたスクリーンがあり、荒く波立つ厳しい海と、その上の空(雲がこちらへ早く流れる)が映っている。よく見るとそこには真横に橋が架かる。欧州同士はつながっているが、今見えている景色には橋がない。暗い緑の空、暗い青い海、心の中の空と海、ラフに描かれた鷗が上がったり下がったりする。下手でハーネスをつけた人が、舞台両端のタワーの一方へするすると上がり、スクリーンが風をはらみながら手前へ来て、いつの間にか頭を下にした玉虫色のイソギンチャクのように膨らみ、中空の真ん中の穴から海に投げ出された下半身が見える。しっかりした体幹。難民の物語とともに、サーカスの輪郭の鋭い際立った芸が披露される。銀色の金属の環を持って、あらゆる姿態を取りながら回転する女の人、音を出す筒をジャグリングして、音楽を奏でる男の人、シーソーの上で飛んで、複雑に身体を回転させながら着地する若い人、この人たち、オリンピックに興味なかったんだね。どれもとてもすごい。ただ、内容がショウとドラマで引き裂かれがち。もっとドラマ性を高めた方がいい。自分たちの歴史的寛容さに懐疑的になってるスウェーデン、ワークブックの答えは「スウェーデン人とはスウェーデンに住んでる人」というのだった、文法や語形は忘れても、そのことは決して忘れないと思う。

名取事務所公演 別役実連続上演シリーズ第8作目 別役実書下ろし作品 『――注文の多い料理昇降機――〈ああ、それなのに、それなのに〉』

 舞台上空に、瞳孔のような星雲のような月のようなドーナツ型の鏡が吊るされている。舞台の表面は砂で覆われ、中央のタイルを侵食しつつある。電信柱は傾ぎ、錆び色のバス停は折れて、ベンチの背板はない。

 世界はもう終わったんだね。そして破れたんだね。それはピンチで吊るした青空の壁紙からの連想だ。ツクリモノの世界。ツクリモノの宇宙。演劇。

 破れた世界はほかの世界を呼び込む。ピンターの『料理昇降機』、男1(内田龍磨)、男2(内山森彦)は科白によって一瞬に殺し屋のベンとガスになり、「合図」として下げられたハンカチは「ジョバンニ」と名前の入ったハンカチのある悲痛な世界につながり、公爵夫人はアリスの不条理を召喚する。

 戯曲を読んだ印象では、この芝居は、高く、高く上がっていく視点から見る海みたいだった。科白が波、白い波頭を立てて、岩にぶつかり、ぶつかるたびに岩は色を変え、つぎ、またつぎに向かってくるもりあがった海面が遠く控えているのが見える。この波は一方からのものでない、「四方」から打ち寄せる。世界はとても非現実、とても不確かなのだ。

 ところがここで役者の身体を通してセリフを聴くと、世界がとてもリアルで確実。とても小さくて、「破れない」。女1(森尾舞)と女2(新井純)の黒頭巾サングラスの扮装が可笑しく(着こなしている)、女性にこうしたいい役(いい役にしている)があることをすてきだと思う。が、芝居全体に大胆さと可笑しさと勢いが足らない。可笑しさを破り、がんがん進まないと、別役が企図した、演劇の宇宙の中からはるかに眺める外世界の「終わり」に行きつけないよ。

赤坂ACTシアター ダイワハウスpresents  ミュージカル 『生きる』

 今はもう『七人の侍』を作れる時代じゃないんだ、と、90年代の初めごろ、黒澤がやや憤然と言っていたような気がする。それはこのミュージカル『生きる』の冒頭で、市役所の人がさっと膝を上げたときの、そのひざ下の長さを見ただけでわかる。戦前生まれと現代では、日本人の身体は全く違う。旧日本人と新日本人くらい違う。私たちはみな、畳に置いた椅子に腰かける、渡辺寛治(市村正親)の息子光男(市原隼人)の子孫なのだ。宮本亜門にはそのことがよくわかっている。下町の母親たちを不格好に見えるように配置し、彼らは渡辺寛治を通じて、旧日本とは違うもの、「夢」を持ってもいいという希望のある新世界に気づく。でもやっぱり、このミュージカルの「無国籍」な感じは否めない。誰なんだろうこの人たちと思うもの。終幕光男がブランコに近づくとき(もっと繊細に近づいてほしい)、失ったものの大きさに気づくように、黒澤の『生きる』とミュージカル『生きる』の間に生まれたずれに、「かっこ悪いから」と捨ててきた膨大な「がらくた」のことを考えた。もすこしそこ意識してもよかったんじゃないの。連続性も。

 市村正親の丸めた肩がかわいく、胃が痛そうで、声を張って歌う曲は少ないが、女学生の「ハッピーバースデー」の歌と渡辺が人生に目覚める掛け合いがすばらしい。市村の声がきれいな銀色のテープのようにきらきらしている。

 組長(川口竜也)の「金の匂い」という声を潜めて始まるナンバー、小説家(小西遼生)の冒頭の曲の一音だけ抑えつつも上げるところがよかった。二幕のお母さんたちのコーラスもはっとするほどきれい。山田耕筰みたいでごめんだけど、助役(山西惇)の歌の「おろか」と「ねてみる」の高低が日本語ぽくなくききづらいよ。

池袋芸術劇場シアターイースト RooTS Series 『書を捨てよ町へ出よう』 寺山没後35年記念

 気が重い夜、座席に向かって息を吐き、くるっと振り返って舞台を見る、とたんに胸が広々として気持ちがあがる。上手奥のスクリーンに『書を捨てよ町へ出よう』と凝った文字で書いてあり、下手スクリーンには空色のウサギの模様(確かにあれはミナペルホネン)を施した青年と少女の絵(宇野亞喜良)がある。舞台中央に華奢なカメラとテーブルがあって、周りに銀白色のイントレが分解されて並ぶ。それは床の上に幾層も重なった銀色の紙――写真に見える。紙は切り取られ分解された眼球の奥で動き始める。

 寺山知らずの寺山嫌い、寺山のエッセイを読むと、なんだろ、もの凄い疎外感を感じるのだ。一列に組み立てられたイントレの二階を、軽やかに踊る足取りで行き来するれいこ(川崎ゆり子)の下で、男の子たちはサッカーの話をする。サッカーの「たま」の話を。あー、この疎外の大元は、私が女だからなんだな。だからこんなに苛立つんだ。

 母親のいない貧しい家族の18歳の「わたし」(佐藤緋美)、妹せつこ(青柳いづみ)、ばあさん(召田実子)、おやじ(中島広隆)のことがきれぎれに語られる。ウサギの死を知っているおやじの躰の重い感じ、振り返るばあさんの首のひねり具合が、マームとジプシーに新しい!と思った。あい変わらず力を持っているのは青柳いづみの声で、突然大型のプロペラが廻り出したような気すらする。せつは寺山だ、と途中で確信した。

 佐藤緋美、その場に「居よう」とする意志がすばらしい。初期の香川照之松田優作と共演しながら何とかしてとにかくただそこにいようとしていた香川照之を思い出したよ。しかし、科白が粘っている。もっと本を読んで。体の中の書を読む子の声を探して。