渋谷PARCO WHITE CINE QUINTO 『PERFECT DAYS』

「まったくね、西洋の人たちはあたしたちが、みんな盆栽好きの庭師だったらいいと思ってんのよ、」と、頭の中で大きな声を出してみる。「それと小津ね」。もちろん『東京画』(1985)には感謝してる、あれがないと、私小津映画観なかったかもだもん。

本作の主人公平山(役所広司)は、小津映画に出てくる淡々と生活する男のようだ。箒の音がする。目を覚ます。布団をたたむ。歯を磨く。ひげを整え、剃る。それがとても、分厚い。何度も何度も、何百回も何千回もそのシーンがあったように見える。たとえて言うなら紐を巻き付けてたたきつけ、加速する独楽みたい。そして宇宙にたった一つ、瞬く動かぬ星みたい。ますます速い独楽だけど、平山の負った無数の心の傷が、包帯をはがすように時空を逆向きにたどらせる。または、独楽が速く回ることで、芯がくっきり見えてくる。ひとり公衆便所を掃除し、夕方には銭湯へ通い、夜は大衆居酒屋で夕食を取る平山、独楽の芯を遠ざけよう、遠ざけようとする平山と、あの、娘を嫁がせてリンゴを剥く『晩春』の曽宮は通底している。曽宮はそっと泣く、その時小津は言った、「号泣してくれ」。ヴェンダースはこういう、「泣いてほしい、できたらでいいけど」、うーん、戦後の小津映画の住人は皆、卒塔婆が何百万と重なり合う堆(うずたか)い山の上で、生活のルーティーンを守り、しずかにバランスをとって生きていた。そして現代の日本人は、たとえば思いつきで美しいトイレを建てる。それを美しくしておくためルーティーンの労働を生きる男があり、その不断の努力のうえに、人々の恐ろしいほどの消費生活は営まれている。欲を「無欲」が隠しているのだ。そして「死」をルーティーンが隠す。

 役所広司の最後は「幸せ」というインタビュー記事を読んで、もーほんと、仰天しちゃったよ。あれって独楽の芯、リンゴの芯じゃないのかな。あそこには日ごろ私が何気なくすれ違う男たち、口を利く男たち、バカヤローの男、バカヤローではなかった男たちの、一人きりの姿がある。そして小津だって、恋人に去られた時や後輩の死に、あんなふうに直面してたはずでは。

シアタークリエ KERACROSS 5 『骨と軽蔑』

ものすっごい切れ味、と思うのだ。刀鍛冶の打った包丁で、牡蠣をまっぷたつに切ったみたいな、ぬるくない業物の幕切れだよ。すぐそばを砲弾の飛び交う戦争(自国の戦争)、こどもが駆り出される戦争、その中で、金と権力を手にした女たちが、厳しく辛(から)い世界を血も涙もなく主導する。ふーん、そういうディストピアかい。でも、金と権力を手にした男たちの現実が、より一層ディストピアなのに、「母」のこわさ、辛(から)さ(男女問わず万人が経験済み)をクローズアップするなんて、まあちょっとアンフェアかな。「女の人嫌い」、「ありがち」だ。

 鋭い切れ味で幕を下ろすためか、芝居の要素は意外とラフだ。工業製品にする鋼材を大体の長さに切っておく、「ラフカット」で束ねられている。たとえば召使ネネ(犬山イヌコ)の掛けるテーブルクロスは少し歪んでいるし、マーゴ(宮沢りえ)とドミー(鈴木杏)姉妹の「その前から」を争う論争は、仕上がりが甘い。ここ、宮沢りえがちゃんと今言ってる言葉に集中して、「その前」に執着しないとつまんない。二幕につながらない。歩き方は自信たっぷりなのに、実は不安そうなのが編集者ミロンガ(堀内敬子)とのやり取りから知れる。峯村リエの母グルカは、兵士を見送る声が兵士にかからないように泣く。これ、ラフなのか未達成なのか判別つきにくいよねー。客入れの音楽までササラのように割れており、不揃い仕上げで、KERA、断ち切る気まんまんだよ。

 芝居のセットは、庭(外ー周縁)と室内(内—中心)が全く等しく重なっている。外部の一般の人々と特権を持ったものが等分であり、平等であるといっているのだろう。戦争と平和も等分に重なり合っているのかも。乱れた文字で走り書きされた手紙が、屋敷の人々に、二重の世界の恐怖や不幸がいかにやすやすと近寄ってくるかを知らせる。外部がいきなり内部となる。その境遇はわたしたちにも、とてもとても近いものなのだ。「日比谷の人たち」と話しかけてくる犬山が、ここにも通路を作っているんだから。水川あさみ、秘書のソフィー、面白い役だ。引きがね(?)を引いたか引かないかわからない、の箇所、もっと無神経にやって、後半に効いてこないもん。

キャナルシティ劇場 『オデッサ』

 そっかー。「愉快」で同時に「愛憎深く」、この矛盾した命題を充たすためには、「推理もの」だよね!

 しかもただ推理ものじゃつまらないから、警察官カチンスキ―(宮澤エマ)は英語で話す。被疑者コジマ(迫田孝也)と留学生スティーブ日高(柿澤勇人)は鹿児島弁で、スティーブとカチンスキーはもちろん英語でやり取りする。

 「推理もの」。んー。アガサクリスティは何度も読みました。それは何回読んでも犯人忘れてしまうから。あと犯人が「金」「愛」のどちらかで殺人する。とても分かりやすい。

 今回の『オデッサ』よくできている。英語を話す宮澤は堂々としており、柿澤のたたずまいは英語しゃべれる人の自信あるそれだ。鹿児島弁の迫田も説得力がある。英語から日本語、日本語から英語に変わるとこもナチュラルだ。福岡初日、宮澤エマは謎解きの決着のとこで台詞がもつれちゃったみたいなんだけど、全く気にならなかった。それは壁に映し出されたピクトグラムぽい絵を観てたから。観客の私は台詞を捨てて絵を見たってことだよね。どうなんだそこ。字幕は大変良い仕事をしていたと思う。字幕の操作もだ。ある意味、わたしは「マンガ」を見ていたのだ。

 推理ものがいまいちつまらないのは、謎解きのためのミスリーディングなどのせいだろうか。意識的に死角を作る仕掛け。たとえば、「どうしてこの人物はこれほど他人に肩入れするのだろう」という小さい不信を作ることで犯人を見えにくくする。

 または、コメディ的な盛り上がりを作ってハグしあう二人、しかし、その体は相手に対して完全に閉じている。犯人を明らかにしないためだね。そこがたのしいの?推理ものって?わたしは、こういうのどうなんだろうなと思ってしまうけど。芝居を見る楽しみがかなり減殺される。

 愛憎をガラス瓶に入れてコメディで包む、いい手法、いい思い付きだと思うけど、永く上演されるためには、もう一工夫必要では?三者三様、たいへんよくやっている、でも、三人とも「あはれ」が出てなくない?

博多座 二月花形歌舞伎 『江戸宵闇妖鉤爪』『鵜の殿様』 2024  

「あ、ちょちょちょっと待ってて、いま読んでる本佳境だから」と江戸川乱歩『人間豹』の画面の上に出た「着信」の赤と緑の丸に慌てる。いやーおもしろかった人間豹。これ舞台、しかも歌舞伎にしたくなる気持ちわかる。妖しくて怖く、そしてその妖しさと怖さが妙に奇麗。エログロナンセンスの大正時代を、うまく江戸末期の頽廃の中に移植して、明智小五郎松本幸四郎)も恩田乱学(市川染五郎)も、景色が変わったのに気づかず疾走してゆくみたいだ。奇怪な爪を際立たせる黒い服を着て、哄笑するたびに深紅の口中をのぞかせる恩田は、乱歩の考えだした半分人間、半分けだものの獣人だ。

 ウズメ舞で名を馳せた人気ものお蘭(河合雪之丞)のもとに、熱狂的な贔屓がまいにち「鯉」を届けるとかも、「よくわかってる」よねぇー。いい。すこしうれしく、すこしメイワク、すこし生臭い。裏側に何か、鯉料理のプロセス(生きたまま捌く=暴れる鯉の尾が目に浮かぶ)があって、やっぱ怖いし。

 あのね、これ、リビドーの話やろ?情欲ってさ、せっかく築き上げた自分の人格、キャラクターをびっくりするくらい簡単に反故にしていく。内なる性的欲望を前にして、「あんただれ?」と欲望に問いかけてる青年たちの話やん。二枚目のつっころばし(?なのかな?)神谷芳之助(染五郎二役)と、神谷の想い人を誘拐してゆく恩田乱学、想い人とそっくりの容貌の妻お文(河合雪之丞二役)を持つ目明し明智小五郎は、同じ影が三重になるようきっちり仕立てないとね。仕立てがなー。そして、その三重になった影に、観客がぞっくり心を粟立てながら、自分を重ねなきゃ。

 松本幸四郎、いくつになっても青年のよう、青年の声。いつもかっこよく、何も問題ない。声が細らないよう、よーく気を付けるのと、冷たく白い漆喰壁のキズを、舌で感じるような、(奥行きの陰翳)が、芝居に出たらなー。

 染五郎の「おきゃあがれ」が、途中で声を裏返す「あ」でちょっと不安定。まだ18歳だから声帯が不安定なのだと思う、今は無理せず喉を大事にね。河合雪之丞が、うまく合わせてカバーしていたし。恩田の声よく出ていた。「獣人」ぽさはしぐさで出さなくていいのか。あと、なんも問題ない。宙乗りも毅然とこなし、結句、解き放たれた欲望は、あやめも知れぬ闇に音を立てない夢の花火のように打ちあがり、ひそひそと溶けてゆく。

 あと「欲望」とその「善悪」をはさんで対決する明智と恩田の明暗も、きちんと出してー。奥行きがー。

 

『鵜の殿様』

幕が上がっていく間も、大名(市川染五郎)は両手をかざして踊っている。音がすごくよく出てる、演奏立派なのさー。そういえば『江戸宵闇妖鉤爪』の新内も、その二幕の三味線の連れ弾きも、すばらしかったなあ。鵜匠の引く糸につれ、ぐいぐいっと鵜がひっぱられるところを、殿様と太郎冠者(松本幸四郎)で入れ替わりながらおどる。これ、みどころ?闊達でコミカルでダイナミックで、そして、そして、大変。架空の糸が殿様と太郎冠者をつなぎ、その「糸」が「みえる」。幸四郎染五郎はなんでもないように楽しくやる。躰が糸の方にクッと引かれ――そのとき鵜匠の手は糸を引き込んでいて――、また戻り、鵜匠の糸につれても一度体がしなう。この激しい運動量を明るく、楽し気にこなす。バレンタインデーの特別アンコールで再び幕が上がると、ふたりはずっと抑えながら小さく息を弾ませており、全力で踊りきったことがよく分かった。 

東京建物 Brillia HALL 『舞台 中村仲蔵 ——歌舞伎王国 下剋上異聞——』

中村仲蔵」。破れた蛇の目傘の水を切る、びゅっという音が聞こえ、その飛沫が見える。傘を握る仲蔵の細くしろい骨ばった手、黒い着物、朱鞘(しゅざや)の刀まで頭の中で順に思い浮かべてから「…かっこいい。」っていう。顔は、そうだ、やっぱり、藤原竜也だったのかもねー。思ってた通りだったねー。この細身のしゅっとした侍は、江戸時代の実在の人物、中村仲蔵という俳優が作り出した、忠臣蔵のオリジナルキャラクターである。今日の芝居は、二幕三時間で端役から名題(劇場前に看板をあげられる人気役者)に出世した彼の生涯を追う。仲間内で目立つために折檻され、さまざまのつらい目に遭う仲蔵だが、「やりてえ芝居ができねえなら、死んだほうがましだ。」という強い気持ちを背負い、一歩、また一歩と這いずるように地歩を固めてゆく。これね、やっぱ、「中村仲蔵」って咄がめっちゃ面白いよね。四代目市川團十郎高嶋政宏が安心でき、金井三笑今井朋彦)のにくたらしい立作者がいい。

 課題は大体二つ。①一幕が込み入ってる。②劇場が3階まである。誰も追いつけないくらい早く仲蔵(藤原竜也)の養母(志賀山お俊=尾上紫)が出てきて、仲蔵は血を吐くようないい台詞をぜんぜん場のあったまらないうちに言わなくちゃならない。たいへんだけど、いい台詞だから、工夫して、しっかり心の階段降りてから言ってほしい。この一幕、ずいぶん役者に被(かず)けられているなー。そして②につづくけど、3階まであるということは、「音」(おん)を頼りに芝居を観るお客さんがいる。怒鳴ると怒りしか伝わらない。もっと技巧的に怒鳴り声を扱わないと、3階席けっこうmiserableだよ。市原隼人の三味線はいい音がしている。しかし、舞台の仲蔵と呼吸を合わせるとこまでがんばれ。あと台詞を「うたってる」。台詞を覚えるときの調子がのこってるのだ。

 「シミ一つねえおろしたての木綿」のような男は劇界にはいない、というんだから、一幕の人たち、もっとキャラ立てないと。池田成志、鼻に抜くいつもの発声、四十年保ったのはそのキャラのおかげなのかな。役柄にもっと真向かいにむきあわないとね。

文京シビックホール 大ホール 『坂東玉三郎 ~お話と素踊り~』

文京シビックホールに向かうため、シャーベット状の雪をしゃくしゃく踏んで歩いていると、今日は玉三郎地歌舞『雪』をやるのに雪が降るとは、なんてあたしは賦がいいんだろとにこにこしてくる。

 この地歌舞というのは、狭いところで踊るもので(パンフレットの中に遊里や座敷でと書いてある)ちっとも四肢を動かさない。動いてもゆっくりだ。こんな踊りで観客の目を捉えるためには、よっぽどの集中力が要る。

 ためしにYou Tubeで、「武原はん 雪」の動画を見て!!なんか…なんかすごいから!!一瞬一瞬が美しいじりじりした動きで繋げられ、なんていうか乾坤一如なの。天も地も、ひっくるめて一つさ。女の心の裡も外も、ぜんぶひとつに一体化していて、指の先に体の中の悲しみがあり、たたむ傘に秘めた諦めが見える。踊る外形は、踊りの「手」「振り」じゃない、心なのだ、って、こーんな凄いものが手軽にケータイで観られる昨今、玉三郎はこれをどう踊るのか。

 幕が上がるとひとりの人が白く透ける傘を持ち、着物の後姿で立っている。暗い舞台に雪がひとひらひとひらそっと降り、後姿がすっとしているんだけど、あの、武原はんの鋭く考え抜かれた着物の、嫋嫋とした、糸一本に至るまで清々した女の姿を思うと、心配になる。でも、半身をゆっくりひねり、こちらを向いた玉三郎はやっぱり清らかだ。その清らかは、墨染めの衣になった悟りの清さに見える。この『雪』という演目は、恋人を思い切って出家しちゃった芸妓の話をもとにして作られているらしいから、そんな風に見えて当然だね。そして、コンプラ的に問題かもしれないけど、すべての女の人は成仏が難しくて、いったん男に生まれ変わるという話を思い出すと、目の前の淋しそうな人は、男でも女でもある。玉三郎は、素踊りだ。

 うぉー玉三郎すごい、「男で女」「女で男」、「男の想う女」「女の想う男」を、踊り分けようとしているな。琴の音(三味線なの⁈)に潜む鐘は淋しく鳴り、子供の頃のよる、家の皆がどこかへ行っちゃった後、カッチカッチと音を立てる振り子時計のことが瞬間的によみがえる。透いている傘を通して見える玉三郎の、傘越しのまなざし、向こうをそっと振り返る顔は、すべての未練を置いていこうとする女の人であり、男の人であり、玉三郎なのだ。乾坤一如やねえ。一つ言うとすると、俳優はどうしても顔の表現で踊ってしまう。もっと体つきで表現できると思うよ。第一部がお話、第二部が『雪』、玉三郎はリラックスしていろんな話をしてくれた。次の公演地の方々、おたのしみにー。

本多劇場 加藤健一事務所vol.116 『サンシャイン・ボーイズ』

BEN: You’re not happy. You’re miserable.

WILLIE: I’m happy ! I just look miserable.

 脚本読んだ時、ははは。と、ここすごくわらってしまった。マネージャーで甥のベン(加藤義宗)が、伯父のコメディアン、ウィリーに無聊で淋しい生活を指摘するシーンなんだけど、しんとして考えると、『サンシャイン・ボーイズ』って、happyとmiserableについての芝居かなあ。ボードヴィルの一時代を築いたウィリー(加藤健一)とアル(佐藤B作)は、その時分、売れてハッピーだったのかもしれないし、たがいにいらいらしてミゼラブルだったのかもしれない。コンビ別れだって、年を取ることだって、一人ぼっちも、ひょっとしたら死も、ミゼラブルの中にハッピーを、ハッピーの中にミゼラブルを蔵しているのでは。

 加藤健一事務所版の『サンシャイン・ボーイズ』は、「時」を前面に押し出す。うねりながら流れていく『時』、あらゆる人に同時に流れ、パラレルであるのに、ある人の中では悲惨が勝ち、別の人の中では幸福な「時」。可笑しいことも悲しいこともすべてが流れる。終始イライラしているウィリーと、年老いることを受け入れているアルに、「悲惨で幸福」な結末が待つ。ここが、かなしく、笑えて、不思議。禍福が互い違いに訪れることになっている、この世界で、いわく言い難い「同時」にぽっちり等分な幸せと不幸せが並列する。なんかもう、笑っていいのか泣いていいのか、いい話だよね。演出は流れを重要視して句読点を打たない。

 打とうぜ?これコメディやん?

 可笑しいシーンがたくさんあるのに、立ち止まるのは往年のコメディ「おはいり」あるいは「どうぞ」の一か所だけで、あとはサラサラだ。こんな私でも、「ほほー」と5行に1,2回は読むのを休むくらい感心のあまり眼が止まるのに、可笑しい台詞がなんだかもったいなかった。皆好演、だけど、こっちは滋味ある表情見逃さないように必死だった。加藤義宗は、二人の老人を補助する脇役、昔よりすごくよくなってる。でも台詞の受けが全部同じ調子になりそう、気を付けて。