渋谷TOHO  『リバーズ・エッジ』

 「原作に、勝ってないけど負けてない」川柳か。

 1993年、世界はもう、ざらざら、べとべとしたものを排除しつくして、つるつる、ぴかぴかしていた。景気のいい時代はそぉっと終わろうとしており、そもそも、「世界」ってものが、全く実感できなかった。どこをさわってもつるつるの、その閉塞感。特に大人を選び取らなくても、こどものまま生きていける不思議。周りを見回すと、こども、こども、こども、老人だろうが紳士だろうが関係ない、変化の訪れない中で息をする、私たちは皆こどもだった。

 漫画『リバーズ・エッジ』はそんな時代を截りとった稀有の作品だ。「こどもの時代」に、本当にこどもであること。愛と、セックスと、暴力がこどもを蹂躙する。世界の破れ目として川原の「死体」が登場し、主人公の高校生たち――若草ハルナ(二階堂ふみ)、ゲイであることを隠している山田一郎(吉沢亮)、摂食障害のモデル吉川こずえ(SUMIRE)は、深い井戸を覗き込むように死体を見る。ほんとは井戸底の水に、自分の顔、自分の目玉を映しているんじゃないのか。映画は原作リスペクトできっちり作られ、例えば山田が売春するシーンを半裸の立ち姿の所で切ったりしない。

 「原作に、負けてないけど勝ってない」

 インタビューシーンが、すこし、ほんの少し「つくり」がわかっちゃう。応えられないのもちょっとつまらない。二階堂ふみは心と体がばらばらの、「涙の出ない子」としてこの世界に棲んでいるのだが、表情がもう、「選んでしまったこども(つまりおとな)」だ。

 全体に「作意」が見えるところが、弱い印象を産んでいると思う。「作意」は大人のものだ。「大人(の男)がインタビューしている」のは、原作に対して誠実だけど、やっぱ、ざんねん。

博多座 『二月花形歌舞伎』    (2018)

 為政者は逃げたり自殺したり、若い信奉者は狂奔し、こどもはころされる。そういうもんかも、負け戦とか、滅亡って。と、戦争映画を見て思った次の日の『義経千本桜』。これ、滅ぶってことが、凝縮されてるなあ。

 兄頼朝と仲の悪くなった義経中村七之助)が西国へ落ちるため、大物浦の船問屋渡海屋で船待ちをしている。実は平家の知盛である船問屋の渡海屋銀平(尾上松也)は、義経一行を油断させるため、配下の相模の五郎(中村勘九郎)と入江丹蔵(中村橋之助)に北条の侍を名乗らせ、わざと義経追討の舟を出すよう、銀平の女房お柳(中村扇雀)に強談判に向かわせる。

 浦島太郎と同じポニーテールみたいな髷をした人足たちが引っ込むと、「かかるところに鎌倉武士」、と太夫が語り、花道がちゃりりと開いて、相模五郎が舞台上手の渡海屋の奥までずんずんと歩いてくる。黄色の格子がパッと目に立つ茶に見える着物、中に濃い空色がちらりとし、足元はうす水色の股引(?)。眉をぴくぴくさせるのに気を取られているうち、サァサァサァと押し問答になる。このサァサァっていうの、実はすごく難しいんだよね。気をそろえてやらないと、気抜けしたみたいになる。五郎の着物のわきが割れているのはなぜかしらと考えているうち、銀平が登場。通る声、大きなアイヌの厚司を着て、厳しい、かっこいいかんじ。丹蔵を煙管で取っておさえ、五郎の刀を鍔元近くぐっとにぎって動きを封じる。ここ、ちょっと惜しいのは、この威のある感じが、着物に乗り移ってないとこだな。五郎の刀は舌を磨く道具のようにU字形に曲がり、店の外に放り出された五郎と丹蔵のコミカルなシーンになる。五郎のセリフが魚尽くしになっているけど、難しそう。魚の名前がいっぱい入っていて、魚を聞かせるだけじゃなく、セリフになっていなければならないから。それよりも、店と外とで、ぜんぜん別世界であることに気を取られた。コンパスの針の先のように、力のかかっているところ、次元の違う穴のようになっているところがある。目で探るとそれは銀平女房お柳で、チャリ場でコンパスの鉛筆が円を描いている間も、体の中の音を聞くようにすごく集中しているのだった。お柳こと実は安徳帝の乳人典侍の局の、この集中は終幕まで途切れない。黒襟のかかった紫の着物、暗い色がシックで深い。思いが深いのか。義経一行が現れて酒を飲み、その間お柳は夫銀平の天候を見る目が確かなことを語るのだが、朗らかな調子と裏腹に、何かあるよねと思うのだった。義経は御曹司だけれど、花道を歩くときに、そこが花道だから歩いているのじゃない、自分と一党のゆくさきを自分の目で決めて歩いている感じがした。

 銀平娘お安は実は安徳帝であり、知盛と典侍の局が正体を語ると、見えない幕がはらりと外れたようになり、3人のいる構図が動かし難く、とても安定したものに見えてくる。

 知盛は美々しい戦支度の白装束で、義経を追って海に出ていく。女官の姿に戻った典侍の局以下の女たちと安徳帝が沖の戦を見守る。そこへ、戦の捷報を携えて五郎がやって来る。負けているということを身振り手振りあわせて語るけどこれがほんと捷報、テレビニュースみたいでアクションが「ひとりジョン・ウー」ってかんじ、この後追って負けを伝える丹蔵は、自分の体ごと敵を刺し、後ろ向きに海へ飛び込む。凄惨。戦争だねー。

 典侍の局が安徳帝に悲しい覚悟をさせるけど、彼らは自殺を阻まれる。滅びは必ず無垢なものを打つ。でもその滅びの「理(ことわり)」は無残すぎるから、ひとまずここでは安徳帝は救われる。義経が庇護するというので、江戸時代から今日に至るまでの観客全員が少しほっとし、典侍の局と知盛の成り行きに集中することができる。

 疲れて疵だらけの知盛は、しころも袴も血にまみれ、右目の上にも鮮烈な血痕を見せて、4人の敵と薙刀で鋭く戦う。口の中が赤い。それでも平家の無念を晴らすための戦いを止めない。弁慶(片岡亀蔵)が来て数珠を掛けるけど、知盛は歯噛みするように怒り狂い、数珠を引きちぎってしまう。あら無念というと薙刀はふるえ、生きかわり死にかわり恨み晴らさでおくべきかというと、観客の心が怖さにふるえる。その執念を松也が大きく演じるので、こんなに大きく演じてクライマックス大丈夫?とちょっと思うが心配いらない。もっと大きくやるんだもん。安徳帝の言葉(その言葉が典侍の局のこころにすうっとはいり、彼女に刃をもたせる。うつくしい、無残な死。)を聴き、典侍の局の死を見て、知盛の主を見る目は急にかすみ、吐く息は苦しそうで、世界が突然色を失ったように見える。知盛の無念が諦念に変わるのを静かに義経が見守る。

 碇の置かれた岩に知盛が上がるとき、ききなれたチャンバラのテーマが鳴る。ここからきてるのかー。知盛がおさらばというと義経がさらばと返し、ここからは実録物というか、身を投げるまでの時間は観客の時間と同じだ。重そうに碇を倒し、体に碇の綱を回し、ぎゅっと結ぶ。痛そう。合間につく息はまだ若い青年の息だ。碇はとてもおもく、知盛は渾身の力でそれを持ち上げて後ろへやる。その碇が、まず海に落ちる。綱が次第に海に持っていかれる間。手をぎゅっと握り合わせて祈るような身振りをして、後ろの海に向かってあおのけざまに飛ぶ。凄絶。

 (滅んだ...)と思う心を、安徳帝が生きてることと、弁慶の法螺貝が、なぐさめてくれるのだった。

 

 

『鰯賣戀曳網』

 三島作品です。めっちゃ難しいんじゃないのと腰が引けてる。『サド侯爵夫人』の重量感、『黒蜥蜴』の複雑な愛、『鹿鳴館』の立派な感じ、と、おもしろいけどわからない。それは三島自身が多くの矛盾を持つ人だったからと、演出家のD・ルヴォーさんが云ってたなあ。

二つ目の演目『鰯賣戀曳網』、題名の画数もやたら多くしんぱい。幕が上がると、京の五条大橋が太鼓橋のせりあがる正面を見せている。上手から駕籠で来たなあみだぶつ(片岡亀蔵)、下手から博労の六郎左衛門(尾上松也)。松也さんさっきまで凄かったのに、茶の着物に黒の格子、ストライプの粋な脚絆を巻いて、とんぼりしている。この落差。馬も登場。馬の胴を二人で担ぎ、茶のゆるめな半パンツの下から、茶色の足が出ている。(馬に見えるなあ。)と感心する。馬と六郎左衛門は上手に去り、花道を鰯売りの猿源氏(中村勘九郎)がやってくる。

 「伊勢の国の阿漕が浦の猿源氏が鰯かうえい」。鰯売りの売り声が尻すぼみに弱弱しく、元気がないのがかわいい。うすももいろの鉢巻をして、「中村格子」の着物を着ている。若い、やさしい男の子って感じ。父の海老名なあみだぶつは元気のなさのそのわけを尋ねる。

 猿源氏は、ふと街で見かけた美女に心を奪われ、恋煩いなのだった。美女は遊君の蛍火(中村七之助)で、高家大名の席にしか出ない。息子の恋を知ったなあみだぶつは、一計を案じ、猿源氏を関東から来た大名宇都宮弾正となのらせ、六郎左衛門や鰯売りの朋輩を家老家来に仕立てて、蛍火のもとに乗り込んでいく。

 んー、大名家のお雛様みたいに古雅でおおらかな話だった。最近のお雛様ってさ、華奢なちいさい顔にぎゅっと目鼻が詰まって、やたら賢そうでしょ。でもお大名のそれは大ぶりで、顔も丸くて広く、そこにゆったりと目鼻が描かれている。全員お雛様の芝居のようにおっとり。その悠長な空気の中を、一人猿源氏が、鰯売りの自分と大名に化けた自分の間を一生懸命小魚のように泳ぐ。蛍火にいろいろ聞かれて「え?」と頭の上に響く、頓狂な声を出したり、「不在と申すか」としゅーと空気が抜けちゃうようにしぼむところとか、とてもチャーミング。これ、巧く、そして巧すぎないように、お客に凭れないようにやるの、凄く難しいと思う。巧くて巧すぎない道は、一筋の糸のように細いもの。

 七之助の蛍火は立ち姿で現れたり、後姿で去るところで、お客がいちいち(はっ)と息をのむほどうつくしい。お庭番(中村橋之助)出るシーン、すこーし唐突かなあ。三島由紀夫のせいかもしれません。

スズナリ 唐組×東京乾電池コラボ公演 『嗤うカナブン』

 フィルムノワール?まず、そこからだ。フランス映画じゃなくて、第二次大戦頃のアメリカの犯罪映画。『飾り窓の女』とか。それなら観た。犯罪者になってしまった大学教授が追いつめられていく映画で、いよいよ窮地に立った時、いやになって鞄からキャラメルだして食べた覚えがある、キャラメルを静かに剥いて顔をあげたら、ぜんぜん違う流れになっていて、それにはびっくりした。この他、ほんとにフランス映画を指すフィルムノワールってのがあり、香港ノワールと呼ばれる犯罪映画もあるということだ。

 さて、フィルムノワール・ハードボイルド。セットは大きなボードにパリ/シモキタの風景があり、真ん中に「JAZZ」という店の看板が電飾でちっちゃく光る。看板の下のオレンジ色の小窓には、ジャズのプレイヤーがちいさくちいさく、影を見せている。スズナリはエッフェル塔のようなタワーで、カフェルノアールは垢抜けたパリ風の店である。上の方には何人かのスター(ボガートなど)が描かれている。これらすべてが実は大部分チョークを使った絵だとわかったとき、胸が躍った。

 芝居はジャズのカルテットを組んでいた男たちが銀行強盗の過去を持ち、ずいぶん経ってからもう一度強盗を計画するが、そこにはカナブンという謎の人物と、裏切りが絡む。

 この芝居には芝居以上の深い意味があり、「単純そうに見せて実は複雑なやつ」なのかもしれない。皆手堅く面白く演じるが、すべてが映画に「依拠している」からだ。役名は映画から採られているようだ。はっきりいうと、私は俳優の見分けが最後までつかなかった。キャラが立ってない。終演後「久保井」「稲荷」と声がかかることで、(唐組の人なんだな)と思うばかりだ。それってどうなんだろう、これもまた何かに「依拠している」ってことじゃないのかな。

渋谷TOHO 『マンハント』

 控えめに言って、ジョン・ウーの『ミッション・インポッシブル2』はとても好きな映画だった。かっこいいとか美しいとか鳩が飛ぶとか、人はいろいろ言うだろうが、わたしにとってあれは「話の早い映画」だ。スピンする車のスローモーションのなかで、男と女の目があう。そのあと何の説明もなく二人は恋に落ちるけど、1ミリも不自然でない。映像の説得力が、すごいんだもん。

 ジョン・ウーの新しい映画『マンハント』では、まず鳥居の立った波のたぎる海が映る。日本だ。ちょっと奇妙。演歌が流れ、一人の男(ドゥ・チゥ=チャン・ハンユー)が小料理屋へやってきた。ガラの悪い客たちに絡まれる店の女(レイン=ハ・ジウォン)、彼は女を助けようとする。「私は弁護士だ」。

 うーん?弁護士だからって関係ないよ。レインに、後々迷いを生じさせる大事な所だから、セリフに心を分散させず、映像に集中したかった。ここのシーンで乗れずそれが最後まで効いてしまう。

 殺人の疑いをかけられたドゥ・チゥは、逃走しながら真相を追う。一方、彼を捕えようとするのは大阪府警刑事部捜査一係の矢島聡(福山雅治)である。追いつ追われつ、二人は心を通わせていく。

 地下で、路上で、車の中で、水上で、激しいアクションが展開する。中でも、左手を手錠につながれた矢島が、放り投げられた日本刀の鞘を右手でつかむが早いか左顎の下に挟み、腕を伸ばしてすらりと抜き放つところはエレガントで、かっこよかった。

 真由美のチー・ウェイは中野良子の表情をよく研究していたし、殺し屋のドーン(アンジェルス・ウー)は好感が持てる。倉田保昭の顔こそ、「やりたくないこと、やらなきゃならないこと」を全部やってきた顔だなと思った。悪者といい者の白いシャツが血で赤く染まり、複雑な日本への感情を表わしている。

東京芸術劇場 プレイハウス 『密やかな結晶』

 石原さとみに点が辛い。

 なぜって石原さとみのパントマイム修業をテレビで(2012、NHK)観てるから。あの時見た舞台上での心のしなやかさ、演技のみずみずしさは、忘れられない。

 今日はその石原さとみ主演の『密やかな結晶』、原作は小川洋子の小説だ。本を読むと閉じ込めあう男女とその愛と滅びのかなしみみたいなものを強く感じるが、芝居では設定をずいぶん変えている。脚本は鄭義信である。

 あるところにある島があって、関西弁の少しコミカルな秘密警察たちが、人々の生活と記憶から、いろんなものを「消滅」させている。リボン、香水、カレンダー。とうとう季節が消え、島はいつまでも冬に鎖される。小説家の「わたし」(石原さとみ)は、「消滅」の影響を受けない記憶の持ち主、編集者のR氏(鈴木浩介)を隠し部屋に匿う。「記憶」は丁度ユダヤ人のように、狙われているのだ。

 なんか、雪の道路で自転車を走らせ始めるような芝居のスタート、台本のくすぐりがあんまり効いてなくて、石原さとみのセリフは淡白。自転車のハンドルを雪に取られそうな、根源的な不安感がちらちら覗くとかがほしい。セリフでもっと景色見せて。

 しかしいよいよ消滅が極まってからの鮮やかな展開と役者の集中力にはびっくりする。石原さとみは冷静なF1ドライバーのようにアクセルをぎゅうっと踏み込み、恐れることなく終局へ突っ込んでいく。その速さと胆力の中から現れてくるのは、見間違えようのないあのひと、あの隠れ家のひとの透きとおった魂だ。

アンネ・フランクがいる)

 その驚き。風邪よけマスクが、涙でぐずぐずになった。フォーミュラワンだけでなく、雪道の自転車も頑張って運転してください。

日比谷コンベンションホール 『デイヴィッドとギリアン 響きあう二人』

 熊蜂の飛行、リムスキー・コルサコフ。朱赤のつるつるしたルパシカを着た老人が、背を丸めてピアノの上に屈みこんでいる。二呼吸くらいすると必ず客席の方に顔を向け、歌い、独り言を言い、凄い勢いで指を動かして、ぶんぶん飛び回って一時も休まない熊蜂を音楽でスケッチする。

 老人には何もかもが少しずつ似合っていない。ルパシカ、せわしなく動く首、丸めた背中、何だかこの世からずれた人に見える。でも音楽は違う。逆に言うと、音楽にアジャストするために、あれこれ他のずれている自分を、苦労してこの世にあわせてくれているのではと思わせる。もちろんクラシックをよく聴く人や指揮者から見れば、この老人(デイヴィッド・ヘルフゴット)のピアノは正統なテクニックと表現に支えられた王道音楽ではないのかもしれない。彼の蜂のようなとめどない動きは、聴衆の「音楽鑑賞」を邪魔する。でもわたしは、「音楽をみた!」と思ったよ。その音の中に、何か生きものめくもの、たった今生まれた息遣いのようなものが、とても強く籠っているのだ。それは「残念」「入念」とかの「念」だろうか。

 デイヴィッドはピアノの神童だったけど、ノイローゼになって精神病院に入り、11年も音楽を取り上げられていた。その後知り合った女性ギリアンとの生活で彼の人生は安定し、コンサートも開け、『シャイン』という映画になった。このドキュメンタリーはデイヴィッドの才能と変わった個性が光を発し、周りの人々の姿を惑星のようにぼうっと浮き上がらせる様を撮った作品だと思う。題名を見ただけだと奥さんて静かな献身的な人なのかと思うけど、グラマー美人の元占星術師で、はっきりした、おもしろい人だった。これ、決して二人の関係だけを扱った映画ではない。題名は、とてもずれている。(2018年3月 シアター・イメージフォーラム他で公開予定)

渋谷TOHO 『嘘を愛する女』

 その朝日新聞の記事を私も読んだ。不思議な話さ。5年連れ添った医師の夫が死んでみると、その夫の名前は嘘だった。医師でもなかったし戸籍もなかった。私の夫は誰だったのでしょうか。折に触れ私も考える。新聞に載っていた誰でもないあの人は、誰だったんだろ。

 「あの人」をモデルにした映画『嘘を愛する女』は、冒頭のシーンが素晴らしい。雑踏の中でためらいがちに、物思うように繊細に、具合悪そうな由加利(長澤まさみ)に近づく桔平(高橋一生)のスニーカー。それから、ちょっと非現実的な感じのする由加利のハイヒールが、彼女とその行く末を暗示する。

 桔平はある日倒れ、そのことで由加利は彼が「自分の知っていた桔平」ではないことを知る。衝撃の中で、由加利は探偵事務所の海原(吉田鋼太郎)の助けをかりながら、「桔平だった人」の過去を探っていく。

 長澤まさみは、バリキャリの、自分のことばっかり考えているがむしゃらでちょっとかわいい女性を懸命に演じる。すこし押しすぎ。引かないと。(でもわたしは、海原のバッグを旅館の広縁めがけて投げるシーンで笑った。)しかし、この映画は桔平と由加利の映画であると同時に、由加利と海原の映画でないといけない。旅に出る前に、海原の由加利に対する気持ちをもっと描写する必要があったと思う。全体に笑いに対して少し引いている演出でちょっと残念。

 川栄李奈、「してみせる芝居」でなく自分の体の中に集中して演じきっており、とても頑張った。初音映莉子が儲け役、DAIGOも地味にしていていい。終わってから、自分だって長年、耳の後ろについて考えてなかったなと思う。ほくろか。あってもいいし、なくてもいいじゃん。