KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 『ドクター・ホフマンのサナトリウム ~カフカ第四の長篇~』

 人差し指の指紋の渦を、一人の男が歩いてゆく。強い向かい風に帽子を押さえ、前方は感知不能、両脇は背の高い目隠しに視界を遮られている。いやなこと、困ったことが次々に起き(女の人が絡んでいることも多い)、結局彼にはいつも「現在」しかない。にもかかわらずその男の登場する小説は予見的で、透かし見るとホロコーストや戦争が浮かび上がってくる。というのが、カフカが苦手の私のカフカ。きゃああって言いたくなる。でもさ、よく考えるとカフカの主人公がわけのわからない審判を受け、たどり着けない場所へ何とか行こうとあがいたりするように、私だって頼んだわけでもないのにこうやって生まれてきて、理不尽とも思えるこの世のおきてに従っている。一緒やん。『ドクター・ホフマンのサナトリウム』は、カフカの4番目(実際には存在しない)の長篇作品の草稿を持つ男ブロッホ渡辺いっけい)の話と、その草稿の中のヒロインカーヤ(多部未華子)の悪夢がより合わさってできている。カーヤは恋人ラバン(瀬戸康史)を探しに戦場へ赴く。

 いつものようにびしっとした開幕だ。しかし、汽車が動いた後、多部未華子が静止するタイミングがちょっと早かった。汽車の振動を乗客の揺れで表わすところが、エロティックでとてもカフカっぽい。いつの間にか二重の夢の中に観客は巻き込まれていくのだが、紗幕に考えられないほどの数の客車の座席が映るところ、映像に芝居が負けている。後半の不条理は、目の前にそそり立つ歪んだ急峻な坂、危険な階段のようであってほしい。カフカについてもっとびっくりしたい。多部未華子瀬戸康史麻実れい(かつら気を付ける)、手堅くきっちりやっているが、皮一枚下の不気味さが足りないかも。終演後、人差し指を眺めながら、終幕の瀬戸康史はラバンかガザか、それともカフカか、ちょっと考えたりする。

小倉城天守閣再建60周年 『平成中村座 小倉城公演』

黒-白-柿の中村座の定式幕とおなじ配色の小さいのれんが、劇場前の売店の上に一列に並び、風に吹かれてお客を手招きする。甘酒、コーヒー、お弁当、シャンパン、シャンパン売り場の人は蝶ネクタイをしている。後ろを振り返るとそこが平成中村座だ。櫓には紫に白く抜かれた中村座の隅切銀杏、劇場の中は鼎が沸くような喧騒で、お茶子さんが席を探し、子供は通路を走り、観客はうきうきと高声で談笑する。前方は桟敷、うしろは8人続き、5人続きの長いすに、それぞれ小さな座布団が置かれている。劇場にずらっと並ぶ提灯が、ふらふらと自分のペースで揺れて、ここが外ととても近い場所なのだとはっきりかんじる。

 たしか18世勘三郎は、唐十郎の紅テントに感激して、この「平成中村座」を立ち上げたんだったなあ。

 「間もなくの開幕でございます」張りのある声がして、場内がすぅっと静かになる。

 最初の演目は『神霊矢口渡』。あのー、大劇場で見る時と、ぜんぜん心持が違うの。新幹線、土地勘ゼロの場所、お土産物屋、売店、長椅子と、日常の皮を、一枚一枚矢継早にはがしてここにいて、大道具の戸口が揺れるのさえ、「ああ芝居小屋だからだな」(皆揺らさないようにとても神経を使っていた)と思うし、心が沸き立っちゃって落ち着いて筋書が読めない。ここどこ。

 南朝方の新田義興は謀で船に穴をあけられ敗亡した。穴をあける手先となって働いた船宿の頓兵衛(坂東彌十郎)は褒美をもらい、いい暮らしをしている。ここへ、義興の弟、新田義峯(中村橋之助)が許婚のうてな(中村鶴松)とともにやってきた。訪ねる義峯にこたえるのは頓兵衛の娘お舟(中村七之助)である。紫の縞の着物に黒い襟、半襟が赤いんだけど、この赤が紫と相俟ってうっすら光を放っているような赤。私には牡丹赤に見えた。お舟さんて義峯を見るなりはらりと袖が手元から下に落ちちゃって、義峯を好きになってしまう。その心が手に取るようにわかる。そして心映えが深い。心が襟元みたいにぼうっと光っているのだ。七之助は娘役だけれど、自分の決めた範囲をとても自由に動く。いや、決めた範囲を遠心力でちょっと出るって感じかな。「いま、ここ」で息をする人になろうとしている。自在な人まであともう一息。

 この芝居ね、口跡がみんなパリッとしない。劇場の構造のせいだろうか。気配で芝居を察するしかない。そしてなぜか平賀源内の芝居だなあと思うのは、許婚の娘と一緒に居ながら、義峯が一瞬、気の迷いを起こすとこだ。お舟と手を触れそうになったとたん、気を失う二人。うてなが新田の旗をかけると生色を取り戻す。お舟は自分を好いている感じの悪い六蔵(中村いてう)を斬り、父親に刺されながら(ここ全然わかんなかった。上品すぎた。)義興の包囲を太鼓を叩いて解かせ、死んでゆく。

 頓兵衛は自分ちの壁を壊して忍び入るところがあって、蜘蛛の巣が(ねばねばのや糸のようなのが)顔につくのを払うのがリアル。私が思うのに、ここ芝居小屋なんだから、引っ込みとか六蔵の「行きつ戻りつ」とか、もっと遠心力を持ったすばやいものでいいんじゃないかなあ。(状況劇場とか、「荒ぶる芸能」だったけどな。じゃーん、ばーん、しょっちゅうロマンティックな音楽がさわりだけかかって、本水どーん、水しぶきざっぱーんて。原初の演劇感満載だった)

 次の『お祭り』では舞台にしかけがある。ここでわたしうっすら涙が湧いた。勘九郎の踊り―踊りという過去―過去の歌舞伎―景色を見ているうち、寄り掛かった背中の壁(最後列でした)が、不意に板が古くなり木目が浮き出して、虫食いの穴が開いている「小屋」のそれのように感じた。でもこれ、おぎょうぎいいよね。

 勘九郎国芳の浮世絵からぬけだしてきた、というよりもっと男前で(検索して!国芳の野晒悟助)、上背はあるし踊りはきりっとしているし、とてもすてきだった。でもさ乱暴じゃない。

 最後の梅川忠兵衛(『恋飛脚大和往来』)では勘九郎は八右衛門を演じる。この八右衛門もかわいく、憎たらしく、品がいい。

 この芝居で花道から登場する忠兵衛(中村獅童)が可笑しくよかった。「肩でそよそよ風を切る」感じの「あまえた」(甘えん坊)のお兄さんなのである。このそよそよした獅童を、七之助の梅川がしっかり受け止める。筋書で勘九郎が「セッション」といっていた小判の音を聞かせあうところ、サスペンスと盛り上げが足りない。笑いながら観ていたのに、しだいにまじになり、さいごは「ああっ封印を、」切りんしゃった、と北九州の観客が青くならないと。

 「劇場」が「小屋」になれば、やっぱり芝居も変わらざるを得ない。スピーディに乱暴にやったほうがいい。演目を選び、演出を立てた方が、いいんじゃないかな。

たましんRISURUホール(立川市市民会館) 大ホール 『柳家小三治 秋の会』

 ほそいほそい三日月が、ホールのガラス壁越しに、ちょうどころあいの場所に出ている。その斜め上に星がひとつ光り、月とつよく引っ張り合っているように見え、夾雑物を許さず均衡をたもって成立している。絵のようですね。

 今日の座布団は薄め、ふかふかの座布団は足が痛いって三三がこないだ言ってたなー。めくりには「柳家小三治独演会」、はっ、独演会なんだね、と今知る粗忽者。高座にあたるサスペンションライトが、すこし零れて舞台の前が明るい。

 最初に現れたのは柳家小はぜだ。こういう、あと二席は人気の咄家がつとめて、みんなわくわくしてその登場を待っているとき、出てくる立場ってなかなかむずかしく微妙だけど、小はぜは「おあとおめあてをおたのしみに」とさらりと言う。落語って歴史長いから、こういう間の悪さがすっかり洗練されてるんだね。言った小はぜもいい感じに、洒脱に見える。小はぜは泥棒のまくらを振り泥棒の話『やかん』というのをする。

 「むかし浅草の観音様に、」と言いながら薄い紫の羽織をさらっと脱ぎ、綺麗な薄緑の着物になる。お仁王様にとがめられた泥棒の話をすいすいするんだけど、仁王の手の構えが浅草寺の仁王とは違ってる。それと手に力が入ってなくふにゃふにゃで緊迫感がない。スカートに手を入れるデパート泥棒の話もいまどきどうなんだ。笑えん。

 『やかん』の、「…あっしゃ泥棒が仕事ですか」と新米の泥棒がいう所、心から驚いていて、不思議そうで、とてもよかった。泥棒の親分と新米は、連れ立って夜の稼ぎに出る。真っ暗な道で新米は、「親分。親分!親分!!」と三回呼びかける。この距離ね。と聞きながら心にツメで印をつけるのだが、ここがねー。このあと距離がまったくぱりっとしない。あやふやで決まってない。伸びたり縮んだり、駄目だよ。この辺の見当、っていう、お互いの居場所がわからないもん。財布を忘れて慌てる新米に、親分が、「うちには手癖の悪いものはひとりもいない」ときっぱり言う。こことても笑った。

 このあとも塀に上がった親分に掛ける台詞や、外でひとりごつ新米の台詞が、距離が甘い。距離が甘いと深夜の泥棒の緊迫とリアリティが、失われます。

 

 高座をいったん降りて退場した小はぜが、高座の向かって左にお茶を置き、下手に座る。時をはかってめくりをめくる。

 「柳家小三治

 下手から黒の着物の小三治登場。きゃー。小三治はよっこいしょっと膝をかくっと折って座る。わかるよ。私もろっ骨折ったところだもん。体に不具合あるとなめらかにさっと座れないもんね。でも「口」の方はそれでは困るのだ。

 「お元気ですか」

 「どうやら何とかたどり着きました」するりと脱ぐ羽織。

 小三治は黙ってる。

「黙ってたら仕事にならないからね」

 今日もマクラがながい。いろんなことを話す。政治向きのこともちょっと話し、ぱーっと拍手がわく。今日一番笑ったのは、講談や落語を昼休みにやって、人気者だった高校時代の話をしていて、さりげなく、「わたしは高校時代有名だったんですよ」といったところかな。

 今日は『馬の田楽』。よどみなくさらさらと進む馬方のたじゅうどんのひとりがたりを聴いていると、3Dの絵本が次々に展開していくみたい。馬方が「板の木目に疲れがすーっとしみていくようだなー」という台詞で、床の手触り、風の通る板の間を感じる。今日の立て場のばあさん、なぜ声が小さかったの。耳の遠い人は声大きいよね。今日は「馬の田楽みたことがねぇ」というオチ(サゲっていうの?)が話の全体を見渡すようによく効いていた。

 ここで休憩。ちょっと会場が暑かった。小三治が高座に上がる。一席目のまくらではなしたラグビーの田中、ひいきの田中の名を叫んで気合を入れてからまたかくんと座った。噺は「粗忽長屋」。

 「(おまえは)死んでるよ」と低い声で言われた粗忽者が、不得心に「死んだような心持がしない」と答えると、「それがおめぇはずうずうしいてんだよ」ときめつけられる。いいなあ。この飛躍。大体、粗忽者が2人ですっかり「いきだおれ」のまわりの空気を「死んだ自分を見に来る死んだはずのひと」の場にするのがすごいね。

 さいごのところ、「抱いてんのは確かに俺だが、抱かれているのはいったい誰だろう」という。どうなのこれ。ふつうじゃん。落語会が終わって帰り道、おじさんたちが「志ん生…」「志ん生の…」とささやき交わしている。たしかに、かえってネットで探してみると、志ん生と同じだ。志ん生(1890-1973)の頃とは、もう時代が違っている。明治時代とは、「じぶんってなにか」が変わってしまい、とても揺れ動いたんだなと思う。理に落ちるのを嫌ってこのオチ(サゲ?)なのかもしれない。しかし、「抱かれているのはたしかにおれだが、」の方がいいよ。現代的。小三治、現代から降りちゃったの。現代と自分との間に、もっと緊張を持て。

世田谷パブリックシアター 『終わりのない』

 個にして全、全にして個。オデュッセウスの「都合二十年」に及ぶ長い帰還の旅。一人の少年が、凍りついた一歩をどう踏み出すかの物語。

 この三つがうまく重ねあわされSF的に進行する。と、だれもかれもそう思っている芝居だが、「そこじゃねー。」と小さい声で(或いは大声で)言っておこう。

 川端悠理(山田裕貴)は高校三年生、何をしたいのかこの先どう進みたいのかさっぱりわからないでいる。父(仲村トオル)は著作を持つ有名ダイバー、母(村岡希美)は優れた物理学者である。悠理には心にトラウマがある。

 ――とここまでで私は子どもの本のカニグズバーグ風味(大学町で大きくなる子どもたち、働いているとても知的な父母、貧困が全く視野にない)を感じ取るのだが(この類似は母を「クールな」物理学者にしたため起きたものだろう)、前川知大の作品はクールなカニグズバーグ以上に悠理を突き放し、全くスウィートでないのだった。串ともいえる悠理への寄り添いが完全に欠けてしまっていて、三つの主題がバラバラに離れ、結句隣の席の女の人がストールを首まで引き上げて真剣に眠りに入りかけるという事態となっている。また、個にして全、全にして個であるAIのダン(浜田信也)が翻意するシーンも、前川は故意にスウィートさを消す。わかりにくい。

 多元の宇宙の一つの仮想として、少年やAIを描きたいのだろうが全体に冷たい作劇なのだ。そう、世界は冷たい。

 山田裕貴は感情爆発シーンなど頑張っているが、「世界の冷たさへの反作用」としての激しい痛み、つよい悲しみを感じさせるほどではない(今日は作意が感じられた)。村岡希美の物理学者の母素晴らしい。女の人の造型に新たな鉱脈を発見している。

serial number 03  『コンドーム0,01』

 脚本は手堅い。役者もきちんと演じる。結果おもしろい。

 なのに、文字が話し言葉になるところで、めっちゃまずいことが起きていると感じる。例えば、「え。でもさ。」という言葉は、はっきり「芝居の台詞」として発せられる。言ってみれば空間に穴がない。風船の中に水を填(つ)めるように、芝居は段々に拡張していくが、とても予定調和なやり取りに聞こえる。皆実力ある役者で、脚本が浮かないように細心の注意を払い、芝居を助けているが、時折顔をのぞかせる「わざとらしさ」にちょっと疲れてしまう。なんといっても私たちはもう、「現代口語演劇」を通過しているのだ。

 コンドームの開発をする人々、売る人々、広報の人、皆部門の別を忘れ、0,01の薄さの新製品のために集結し、「それ」は何のためか、誰のものかを考える。男のこと、女のこと、話は徐々に広がり社会構造やジェンダーに接地しそうになる。しかし、詩森ろばは大声を出さないし説教もしない。その代り、芝居は何度も同じくらいのいいシーン(散発的な打ち上げ花火)を繰り返して、「ありがちないい話」に着地する。これどうなんだ。深い話にするんじゃなかったのか。

 田島亮、前回は「いっぱいいっぱい」だと感じたが、今回は丁寧にやっている。しかし全然意外性のない役作りで、十六歳の原節子みたいである。女性に理解ある男たちよりも、理解のない男たちの方が演技が光っていた。そういう男の人は、たくさん演じられてきてるからねぇ。理解ある男の人たち、頑張ってほしい。営業のワカ(碓井将大)、気のいい考えなしの青年でとてもよかったのに、「僕に教えてくれたように」という台詞が浮いてて「わざと」で、超ざんねん。

恵比寿ガーデンホール 『Live Magic』 2019

 曇り空のエビミツ、ついふらふらと、ラベンダー色のマニキュアとか買うのである。今年のライブマジックは、おっとりした人工衛星の心持で、つーと見学した。

 まずバラカンさんのオープニングのあいさつ、13:00の8分前。8分できっちり、テキーラベースのスペシャルドリンクから、グッズの説明までし終えて、アフロポリタンバンドが登場する。「4人って言ってたけど6人のようです」とバラカンさんが少し困ったような、可笑しそうな様子で紹介する。黒い山高帽、黒ジャージ、黒の足首まであるかっこいいスニーカー。ヴォーカルだ。

 《You can be Afropolitan》

 と、歌う後ろに、ハーレキンのように大きな市松(黄色とアフリカの青い模様の)の衣装を着た人たちが、初めて見るアフリカの打楽器の位置につく。

 背の高い、足の方がすぼまった双子の太鼓、手で叩くジャンベ(ブルキナバスケットに外見が似てて、縁に音を出す金属のへら状のものに細かいリングが一列にじゃらじゃら下がっている。音を響かせるためかその下に馬上杯の足みたいなのがついてる)、三つの高さの三つの違う音を出す太鼓、バラフォン(木琴。木の音階部分の下に、素焼きの壷のように見える瓢箪が据えられていて、音を共鳴させる)、それから、小さい舟形の胴に皮を張ったギター様のもの。名前教えてくれたけれど、聞き取れなかった。

 ちっちゃなポロのスティックのようなのを右手で撥として使い、左手は素手で叩く。太鼓の拍子を繰り返すように観客にいうけど、この拍子がすごーく難しい。一拍の半分(の半分?)くらいうすーく休符が入っていて、とても私には再現できない。

 曲が終わると見せて、ちょっと休止した後、倍速で始まる。皆日本語が上手。一人東洋人(韓国の人、ムーンさん)の女の人がいて、ジャンベにあわせてアフリカンダンスをする。上半身を倒して激しく強く、膝を大きく曲げて足踏みし、太鼓に踊らされているように見える。これさー、ある程度長い時間やって、ちょっとトランス状態になる感じなのだろうか。いまいちグルーヴの在処がつかめない。ただ、アフリカの太鼓にとても敬意を持った。『狼少年ケン』とか、めっそうもないと思いました。

 喫煙所になっているベランダに出ていたら、ラウンジで16歳の小林ケントのギター演奏が始まる。白とグレーのコンビのトレーナー(って今はもう言わないのか)と、ジーンズ。ジーンズの裾はお洒落に靴の上にたまってて、その靴はマスタードカラー。確かめるために出す音、チューニングの音がきっぱりしてる。自信ある音。アルバム三枚出してるもんね。お医者さんなどになっていそうな顔の若い人だ。躰に比べて、指が長く、手がとても大きい。ギターの絃の上を右手で叩いてリズムを取りながら、ベースみたいな音を出し、きゅいいんとネックを揺らしたり、上からネック部分の絃をなでて変わった音を聞かせる。

 「こんばんは」昼やん。とてもにこやか。マスタードカラーの靴はギターのボディとコーディネートしていたんだね。続けてビートルズのドライブマイカー、それからマイケルジャクソンのスリラー。低音の伴奏とメロディを一人で弾く。一人で凄いな。低音のあの有名なフレーズがずっと鳴っている。そして80年代のケアレスウィスパー。アレンジしてまだ五日と言っていたが、安くならない。甘くない。原曲のもともとの良さに気付かされる。お医者さんにも将棋指しにもなれたと思うのに、ギターを選んだ小林ケントよ君に幸あれ。

 ホールが気になって入っていくと、シーナ&ザ・ロケッツの火の出るような本息のリハーサル。プラチナブロンドに長い髪を染めたかわいい女の人がヴォーカルをつとめている。なんか、やっぱりシーナに似た人選ぶんだなー。とぼんやり思う。鮎川誠は、「よろしくー。三時からー。」といいながら、にこにことステージを下がる。

 後ろの椅子に座ってしばらくぼーっとする。バラカンさんが現れてシーナ&ザ・ロケッツの紹介。2音、ドラムスが叩いただけで椅子から飛び上がる。キタ!バットマンのテーマだ。それから41年前の曲。なんて言ってるかひとっぱもわからない。けどいいの。とにかく座っていられない。鮎川誠は今朝仙台からこまちで帰ってきたそうだ。きつかろうねえ。とおもうが、「ぱっと光って消えちまう」(『ホラ吹きイナズマ』)と鮎川は歌いつづける。ギターソロ。ベースと二人で寄って演奏する。ヴォーカルのルーシー・ミラーは鮎川誠の三女だそうだ。ええー。昔10歳くらいのお姉ちゃんが、この人をおんぶして歩いていたのを見たなあ。プラチナブロンドの長い髪に、お姫様のティアラがきらきらして、ホットパンツに後ろが裳裾になったロックプリンセス風の青いスカート(?)、黒のレザージャケットを羽織ってる。やっぱり何を言ってるか聴こえない。後半になればなるほどルーシーの歌はよくなったけど、今度は鮎川誠のギターが重くなってしまう。指が重い?やっぱきつかったとかね。

 2月14日のシーナの命日に19枚目のアルバムが出るそうだ。11月23日には下北沢のガーデンでバースディライブがある。I love youという掛け声を観客に頼むとき、鮎川誠は「練習はしない。ROCKはいつもなま。」という。かっこいい。ROCKを通じて本質に近づくシーナ&ザ・ロケッツである。

 昼、柏ナーディスでライヴを一回やって、三時に千葉を出、20分でセッティングして、4時40分からまた本番(ライブマジック)のスタイナー・ラクネス。バラカンさんに紹介され、客席の方を向いてにこっとする。心ひらいている。大事だよなあ。そこがうまくいってない人って結構見かけるよ。

 ウッドベースの絃の向かって左横に、弓を入れる矢筒様のものがついている。スタイナー・ラクネスは弓でフレーズを弾いては矢筒にしまい、ペダルを踏み、指で弦を弾いたり、また弓を出して弾く。しばらく、何をしているのかさっぱりわからなかった。最初に弾くフレーズをループで再生し、重ねあわせて演奏しているらしい。すごいことができる世の中になったねえ。一曲目は2018年のアルバムChasing The Real Thingsから、アルバムタイトル曲。繊細なハミング、そして口笛をベースのf字孔に吹き入れる。Maggie’s Farmの次はI’m On Fire。ブルース・スプリングスティーンの曲だ。スタイナー・ラクネスの演奏、歌を聴いていると、「中身が鳴ってる」と感じる。ベースと同じように体の中が洞になっていて、どちらも共鳴し合っている。内側の声だ。Folks And People 、Killing The Bluesと弾きつづけて、突然ぶつっとマイクに音がする。あー、20分でセッティングしたからねー。惜しい。最後のCameleonを聴いていたら、60年代の「エレキギターのかっこよさ」が8つの玉に飛び散って、民族音楽やクラシックの楽器に取りつき、一つがこのベースに憑依しているように思った。

 

 Myahk Song Book-Tinbow Ensemble。ベースの松永誠剛とブラックワックスの池村真理野(サックスを持ってる、サックス奏者だ)。

 松永誠剛は、まえほど始まった途端音楽に入り込まなくなった、と書きたいけれど、やっぱりベースを揺らしてすぐ「異界のひと」になってしまう。修正する気はないんだな。じゃあミスをしないようになー。

 與那城美和を含む宮古島の女性たちがうたい始める。会場のサイドの壁に寄り掛かって歌声に合わせそっと息を吐くとなんかとても気持ちいいのだった。何だろ。オーカクマクの隅々からまっすぐ、邪気ない地声が空に昇っていく。煙みたい雲みたい。

 「っはいっはいっはい」掛け声をかける。歌う何人かが会場に降りる。高音から放物線を描いてくる声で、声を合わせて歌う。その声を聴きながら外に出る。すると天から降ってくる何か明るいもの。

 休憩。

 最後は小坂忠。バンドが凄かった。レーザーで切り分ける気配、漆黒の靄。こう書いても大げさにならないほど、引き締まっている。ここでね、わたしはっきり言って疲れていた。エチオピア帽(?)をかぶった小坂忠さんと、バンド(Dr.kyOn鈴木茂小原礼林立夫)と女性シンガー(桑名晴子)がバシッと決めるのを聴いていると、しりあいのしりあい(だから知らない人)がめっちゃ踊っている後姿が目に入る。背中のリュックもぴょこぴょこ踊る。音楽好きのお祭り、すてきだねぇ。バラカンさんのリクエストで、小坂忠ジミー・クリフのMany Rivers To Cross。いい歌やん。それからティミー・トーマスのWhy Can’t We Live Togetherを歌う。「この年になるとね、(新しい歌は)大変なんだよ」といいながら、ちゃんとどちらも自分のものにしている。最後のアンコールはYou Are So Beautiful、ゆっくり幕が(キラキラの光る紗幕が)下りてくるみたいだった。

下北沢特設テント 唐組・第64回公演『ビニールの城』

 『ビニールの城』、これ、「女って何か」「他者って何か」っていう話かなあ。

 昔々、「わからないこと」「不条理なこと」を皆、女のせいにしていた時代がありました(『イヴの総て』をご覧ください)。男たちがビニールの包装越しに出遭うビニ本の女、モモ(藤井由紀)は、アパートの薄い壁の穴から覗き見た腹話術師朝顔稲荷卓央)を愛してしまう。朝顔はそのことを知らず、はなればなれになった分身の人形夕顔を探し、尋ね尋ねてモモと行き会うのだ。朝顔は確かにビニールに包まれたビニ本の女に向かって愛しているとは言ったものの、生身の女の出現にひどく戸惑う。(ビニ本の女は幻想である、しかし、生身の女に男が貼りつけてきたのは、やっぱり幻想だったのではないか。)モモは自分と朝顔を隔てるビニールを憎んで撃つ、「生身」の「生臭さ」をそこから届け、朝顔と愛し合うために。しかし、男はそれには応えない。

 じつはわたくし、最後、舞台の後ろが開く重要なシーンを見ておりません。見切れました。

 「見られない」という芝居だと思って、カーテンコールのモモの服を観た。モモは手の届かない所へ行ってしまうのだと思う。絶対の他者として、唐が幾重にも幻想を巻きつける決して触れられないビニールの城の王女として。

 引田(岡田悟一)の連れ河合(全原徳和)の台詞よかった。ジャッキで膨らました空気人形のように唐の言葉が生きている。

 唐十郎の「芝居小屋=テント」の思想は素晴らしいけれど、年を取ってて少し体の利かない自分って、どうしてもそこから零れ落ちちゃうよね。さようなら。さようならでいいですか。唐組はそこんとこ、これからどうするつもりだろう。