下北沢・北沢タウンホール 音楽劇『瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々』

うー。「きのう、お稽古の帰りに夜道を見上げると、完璧なまでに艶容で清冽な朧月が懸かっておりました。」(演出家ご挨拶)

 「お稽古」「夜道」「艶容」「清冽」「朧月が懸かる」。こういう文章、時間の余裕がない時にも書いちゃう人、どうなのか。と、そっとパンフを閉じる。あとは「お察し」である。いろいろなことが書いてあって、けれど実際に物を「よく見」てはいない。「清冽」と「おぼろ月」が適うと思うセンス。相当問題ある。あと欲張りである。一つのことにたくさん意味を持たせたい。90分間の芝居だというのに、言いたいことが絞れない。同根だ。いい?90分だよ?走れ!三谷幸喜風の台本(これは習作だろう)は、恐ろしく薄っぺらで、こちらも言いたいことがわからない。

 ドイツ留学中の滝廉太郎(新正俊)を大学時代の友人岡野真一(大久保祥太郎)を尋ねてくるが、瀧はよそよそしい。留学生幸田幸(音くり寿)、その小間使いフク(梅田彩佳)は間に立って気をもむ。というような導入から入るのに、この芝居が国家と芸術の間で苦しむ若者の話というわけでは毛頭なく、道半ばにして友に功を譲る友情譚というわけでもなく、才ある美しい女を間に挟む話でもなく、何なんだろう?最後の全員による美しい歌唱は『故郷』で、これ、望郷の歌じゃなかったっけ?

 演出、どれかに決めてほしい。じゃないと役者はたまらない。どのキャラクターもフォークのように先が三つに割れている。

 作家が舞台上に、疑いをかけたままのフクの浮気な元亭主基吉(塩田康平)を放置するのがひどすぎる。どうすればいいのだ、基吉は。塩田、がんばれ。醒めた現代人のように、あるいは小学生のように、それとも関係ない人みたいに、変わった立場で茶々を入れてやれ。

 官僚野口(小出恵介)はきっちりやっているが、もっとできる。ドタバタの練り方が足りない。足音が気になる。とにかく、一丸となって、芝居を救うのだ。

シネクイント 『異人たち』

どこにいるのかわからない。薄暗がりの遠景の街に、劇的な感じのグレーの雲が幾筋もたなびき、うすく明かりがさしている。朝?高層マンションの窓越しに、外を見る男(アダム=アンドリュー・スコット)の顔がそこに重なる。夕映えの夜?いや、遠くの街のビル群の片面が、赤く光って見えるけど、次の瞬間、日が昇っているように思えた。はじめ男は上半身肌脱ぎなのだが、物語が始まるとラフに身じまいしている。ここんとこ、最初の導入が鮮やかに時間をかく乱する。へぇーと感心するのであった。

 独身で暮らすゲイの脚本家アダムは、同じマンションに住む男ハリー(ポール・メスカル)に一緒に飲まないかと誘われる。最初は断ったアダムだが、ハリーと言葉を交わすうちに親しくなり、肉体関係を持つ。アダムは1987年の両親の話を描くために何十年ぶりかに実家を訪れる。そこで彼は、12歳の時死に別れた両親(ジェイミー・ベルクレア・フォイ)に再会するのだった。ここんとこも、ピンボケ(アウトフォーカス?)の映像を多用することで「死んだ人に会う」のが、だんだん「あり」にみえてくる。ここ非凡だよね。と誰かに言いたい気分だった。

この映画全部が、「時間」、「喪失」、「死」、「傷」を、永遠のなかで「取り返しつくもの」「切断のないもの」「癒され得るもの」として描こうとする。実は気宇壮大なのだ。けど、ここが繊い。あと、クスリによる幻覚がびっくりするくらいありふれていた。限られた「上映時間」で、複雑な両親との和解を語ろうとするために、ニュアンスやディテールが薄い。両親による、ゲイの受容がとても教科書ぽい。もうちょっと人物像をふくらましてもよかったんじゃないの?それに、クリスマスツリーとか、どうなんだろ。山田太一の原作にあるような、おまえは(こどもだから)ハンカチに包んで冷たいビールを持て、っていうような、胸が痛くなるような描写が欲しかった。全体にあっさりしている。情より脳が勝ってました。

中野ザ・ポケット 義庵4th ACT 『ちいさき神の、作りし子ら』

 耳が聴こえる者と耳が聴こえない者の恋愛、結婚、こう書くことにもう不平等が忍び込んでいる。正しくは、「音を聴く者と無音を聴く者」とするべきなのか。いやいや、「無」っていう否定的な感じが、よくないかもだな。

 真の平等・公平とは何かがこの芝居では問われる。少しラジカル寄りの、でも根は全然ラジカルでないジェームズ・リーズ青年(加藤義宗)は、人の役に立ちたいという純粋な動機で、ろう学校の口話を教える教師になる。彼はそこで、音を聴いたことのない26歳の女性サラ・ノーマン(吉富さくら)に発語させられず失敗する。得意でないことをやりたくないとはっきり意思表示するサラを愛するようになったジェームズは、「結婚」という形をとって「ちいさき」彼女を『包摂』しようとする。1979年。「男女」「恋愛」「結婚」に潜む上位と下位、つまり不平等不公平も、「聴こえない」人に「口話させよう」とする暴力も、ごちゃごちゃになってジェームズとサラを混乱に陥れる。サラは彼女を取り囲む欺瞞や不平等を敏感に感じ取り、受け入れない。愛し合っているけど、ある種の強制を受けたことで、サラはひとつの選択をする。

 手話の中に出てくる「世界」という、丸い球を作って見せるしぐさのような、ぼんやりした、そしてもやっとした雰囲気を持つ芝居だった。演出がもやっとさせてる。それは恋愛のジャンピングボードを「いつしか」にしようとしてるせいだろう。

 あと、吉富の手話はプラスとマイナスの二極しか表していず、最初に母(日下由美)について語る時、くらっと身体が拒否的に変わらないといけないのに、変わんない。発語シーンがすんごい弱い。加藤は背が高くハンサムだけど、体の中が空洞。中身を感情の水で満たせ。多分、いまの10倍くらいの感情表現しないと足りない。品が大事、抑制が大事って思ってる。それ以前の問題だよ。サラのデートの顛末を聴くときの衝撃が躰にない。「すべての時間を稽古につぎ込んだ」せいで、ジェームズとオリン(八頭司悠友)は散髪に行かなかった。んだと思う。小劇場の全身全霊を尽くしてる感じにちょっとうるっと来たが、散髪には行った方がいいね。

新宿武蔵野館 『ペナルティループ』

あー、愛だよねこれ。殺し殺される者の間の激しい愛だ。恋人唯(山下リオ)を素性の知れない男溝口(伊勢谷友介)に殺された岩森(若葉竜也)は、6月6日の朝、復讐するために野菜工場へ向かい、機会をとらえて溝口を殺害する。しかし自宅で目を覚ますと、そこはいつも6月6日の朝、これから殺人を果たす朝なのだ。いやになるほど繰り返される殺人のループで、岩森と溝口は次第に学習し、心の距離が縮まってしまう。憎い人殺しの溝口は淡々としたなかなかいいやつで、「いいもの」「主人公」のはずの岩森は、悪鬼のような形相で溝口に迫る、シリアルキラーのようである。善悪の彼岸で、「つきあっちゃえよ!」と思っちゃうくらい二人は相寄る。命を取る=取られる者たちは等価で、誰に対してよりも強く向き合い、格闘する。これが愛でなくて何だろう。ボーリングの球が若葉を操るシーンが素晴らしく、ここで繰り広げられているのは、殺人ではなく、見えない力によって行われる「圧殺」でもあるのだといわんばかりだ。

 カメラワークがちゃんと、よく考えられていて、岩森と溝口の奇妙な協同も練られてる。これといって難はない。面白い。だーけーどー。頭の中で「おべんきょう」して作り出した殺人の10回のループとか、本当に耐えがたい。一晩中泣くのだって大変なのに、10回殺すとかありえないよ。この映画作った人、一晩泣いたこととかある?実感薄いけど。「10回の殺人」、聴いただけでげんなりする。宣伝もよくないよ。そこ強調しすぎだろ。

 若葉は表情が柔らかく、子供のようにも壮年になりかけの男のようにも見える。ラスト以外はよくやっている。伊勢谷はキャラクターをしっかりつかんで感じよく演じる。頭いい。だけどこんくらいの芝居じゃ第一線には戻れません。芝居に賭けろ。気を散らさない。

 ラストシーン弱い。あらゆる人を圧殺する世界に、岩森は出てゆくのじゃないか。

配信 『チャッピー小林と東京ツタンカーメンズ』

チャッピー小林(小林聡美)よ!このライヴの世界線はどこだ!世界が見えねー。

 逆光をあびてしずしずと歩を運んできた一人の女(チャッピー小林)は、もちろん自分の立ち位置をラクダのタイムマシンに乗ってきた女と説明はするけど、なんかまあ、説得されない。ライヴに登場する曲が、どれもこれも、ほとんど全然知らない曲だということも、影響しているかもしれない。昭和世代の私だっても、「ヘドバとダビデ」をかろうじて覚えているくらいだ。よくいうと、どれもこれも新鮮に、「知らない」。そしてどの曲も考えて選ばれていて、いい歌ばかりだ。チャッピー小林は堂々としてる。落ち着いてる。でも、「たのしんでください」を「おたのしんでください」と言い間違えるくらいには浮足立ってる。そして、「たのしんでください」と言い直すくらいにライヴに馴染んでる。ここがなー。不安定。『若いってすばらしい』を歌っても、ハラハラして楽しめない。繊細にキャラを作り上げてきたアベ・サディー(阿部サダヲ)とデュエット(きちんとはもっている!)を淡々とやり遂げ、後半に入るにつれて調子は上がる。「傘もささずに僕たちは…」(『黄昏のビギン』)とうたうと、トランペット(河原真彩)も前半よりもよく鳴って、「小刻みに震えてた」はよかった。「初めてのキス」のくだりも素晴らしい。花丸。でも、全体にキャラも歌も線が繊い。各地を回ってあと100回くらい歌わないとダメだねえ。どの歌も、背面飛びで、すれすれにバーをクリアしてる。無難。でもそつのない歌なんかつまんないよ。中休みで衣装替えするとき、演奏があんまり段取りじゃない?ギターソロもあってよかったのにね。

ブルーライト・ヨコハマ』、『お祭りマンボ』はよく歌いこまれていて、小林聡美がこの歌を好きなのが伝わった。ファルセットも頑張っている。急にライヴがひかひかと輝く。衣装はかわいく、とにかく小林聡美は威風堂々だ。けどさ、器用にこなしてもダメ、みんなが知ってる王道の曲で、どーんと勝負に来い。そこが欠けてる。第一、カラオケで練習できないんじゃ話にならんやん。

鶯谷 東京キネマ倶楽部 No Lie-Sense

 鶯谷。エロス(ホテル街)とタナトス(墓地)に挟まれたところ、とか言いたいけれど、実際には正岡子規ののどかな影とかも感じられ、ひょろ長い、不思議な街だ。だいたい、行けども行けども喫茶店がない。延々と続くホテルの数に、ほんと、びっくりする。だまし絵みたいな路地の一角に東京キネマ俱楽部はあって、往年のとんがった音楽少年少女が、そのまま年を取ってここに集まる。

 おんぼろだけど何となく格のある、おばあさんの「もとスカーレット・オハラ」のような劇場で、舞台下に貼られたゴブランみたいな布地と、下手(しもて)のちょっと小高くなった小舞台がその気持ちを強化する。なんだろこの劇場。ドレープを寄せた舞台後ろの幕には、青い照明が当たってる。薄くテノールの甘い歌声が流れ、それが1つでなく2つで、マーチがそこにかぶってきて軍靴の行進のよう。ちょっと怖い。Nothing is forever というナレーションがあって3拍子の曲の2回目の繰り返しのとこでメンバーが舞台に上がる。

 『マイ・ディスコクイーン』。月火と水木金、とうたうとこが調子よくて好きな歌だけど、意味はさっぱり分からない。「ダダ面を下げて」とあるからダダイズム詩人のことだろうか。いや、そんなことよりも鈴木慶一の声の出てなさに凝然とする。これ、「歌えてない」っていうんじゃない?たぶん、思ったより「歌えてない」ということに気づいたKERAが、ぱっと自分の音量を上げてカバーに入る。それとも鈴木慶一自身が「音量を上げて」と合図を送ったのかな。ええと、『ah-老衰mambo』を聴きながら(老衰は病ではない)、自分の老衰について考えてしまう。鈴木慶一は、涼しい顔で声を出し続けて、実にクール。お金の取れる歌ではない。ていうか前衛?2022年に鈴木の歌を聴いたときはよかった。何が起きた?結局アンコールで多少持ち直したけど、前半の声の出てなさのリカバリーはできなかった。

 喉やばいとき(のどの調子が悪かったんだって)、「できてたことができなく」なったとき、自分はクールでいられるか。喪い続けることの衝撃に耐えられるか。Nothing is foreverやん。No Lie-Senseのライブ自体、単独では2017年以来初めてなんだってさ。コロナの影響もあるだろ。ざんこくな時代だったね。そのかわり、バンドのメンバー、KERA、鳥巣田辛男(高野寛)はとても頑張り、特に高野寛のひゅーっと上がる集中した高音部は素晴らしかった。緒川たまきが出演してきっちりまとめ、下手(しもて)の高い舞台でいいトーンではがきを読んだ。ドラムス(イトケン)の難しい拍子もかっこよく、ライブの締めの、音の切れ際がすべてを浄化する。けどね、私あんま楽しめなかった。ずっと失うことについて考えてた気がする。鈴木慶一、つぎはしっかりね。前衛なら前衛でいいよ。体幹を鍛えよう。

酒田雛街道 

「来たよぉ」

山居倉庫の広々した物販部(酒田夢の倶楽)の壁一面に、きれいに飾られた素晴らしいお雛様(一体の立ち姿が70センチくらいに見える)をしり目に、親指の先くらいのお顔の、精巧な芥子雛に声をかける。ちっちゃ!ものすごい小さい。見えない。近寄ると(相当近寄る)、この人たちは、きれいな縮緬の着物を木目込みのように着てる。たとえば五人囃子の上着は、真っ赤な地に、ぽつぽつと白い花びらが散ったようなので、指貫(袴みたいな…)はグレーに鮮やかなオレンジと紫の雲竜模様だ。ひな壇の下半分、五人囃子と仕丁(怒り上戸泣き上戸笑い上戸ね)の体のバランスは、んーと、御所人形に近い。頭の大きい赤ちゃん人形みたいなのだ。これに対してお内裏様とお雛様、三人官女はお顔が半分くらいに小さく、お上品。とても小さいのに、近くで見ると小さく感じない。繊細に入念に作られている。しかも、「わらってる」。仕丁よりも五人囃子の出来がいい。いいなーこれ。ちいさいおもちゃの好きな人は好きだよね。

 この度の雛めぐりで聞きかじったところによると、五人囃子は鳴り物の音の大きい順に左から並べるというけど、このお雛様は去年まで違ってた。今年は、直っています。よかったよ。少し蔭に引っ込んで見えるお内裏様とおひなさまは、蔀戸をあげた上つ方に居る。その後ろに鶴(鳳凰?)の飛んでいるちいさいけどダイナミックな屏風があり、鶴(鳳凰なの?)もなんだかにっこりしているのだった。

 さて隣のめっちゃでっかいひな人形を見る。何もかもが大きく、しかし気合が入ってて、緩みがない。中でも一番すごいのは、手前(段の下だね)で舞を披露している二人の舞人だ。背中に蝶の羽をつけて、お人形にちょうどいい大きさの、織で浮き出した花の模様の衣装(雅楽風?)を着て、右の人形は左手をそっと挙げ、左の人形は右手を大きくしなわせている。そして、全体の色の褪せ方がおっとりと美しく、きらきらしすぎずいい感じだ。この人形たちもみな表情がある。おじさんの人形、おばあさんの人形、にこにこしてるのがちょっと怖いんだけど(凍ったように時が止まっている)踊る二人の娘たちは、いちばんこの場に似合っている。全体の押し花色のなかに、緩やかに住まっているみたいなのだ。

 そういえば本間家旧本家(例の、本間さまには及びもないが せめてなりたや殿様に とうたわれた酒田の豪商)にある大きな(現代のお雛様の倍くらい)古今びなたちは、ぱっと見「古い人形」としか見えない。品を重視した人形師は、ひな人形に表情をつけないし、係の方が嘆いていたようにどうしても髪が傷む。束帯の黒地に小さく地模様を出した贅沢な衣装も、すっかり古びている。しーん。

 ところがねー。あの狩野永徳の奥さんの弟っていう、「俺は絵が下手だった!」と挫折のあまり一回出家したくらい多感な絵師、狩野興信(秋田の佐竹侯のお抱えになった)の大きな絵が一枚あって、チェックのカチッとした狩衣を着た男の向こうから、川の水が流れてくる絵なんだけど(対岸屋敷に姫君)、この絵の趣向は縦横きまりが付いたはっきりした世界に流れ込んでくる水—かたちの決まらない、生々しい、いうことを聞かないもの―を表すのが主眼となっていて、「あー。」と思うのである。コノミズハココロ。係の方が緋毛氈のうえに、お雛様のもち道具の貝合わせの貝(花びらよりちょっと大きめくらいの貝の内側に、細かく絵が描かれ、平安朝の人物が二人向かい合っていたりする)をよーくかんがえつめて配置し、美しい酒田の押絵を点綴するのもココロだし、「私はこのお雛様が好きなんですよ」と親切な係の人がおっしゃると、世界がぱっと色彩を取り戻して、お人形の中に息がかよい、「感情」の水が流れ、古いお雛様が少し微笑ったような気がしたのだった。

 

 この日、本間美術館のお庭の敷石の上に落ちた霰が、ぱちっと割れて四散するほど寒い日だったのだが、別邸でお抹茶を頂いたり、お雛様の歴史まで勉強したり、いろいろ面白かった。写真撮影禁止。(本間美術館)けど、お雛様の絵ハガキ早よ。かわいく撮れた三つ折り人形の赤ちゃんはがきが欲しいです。

 

              令和6年4月3日(水)まで。