ヒューマントラストシネマ有楽町 『はじまりへの旅』

 「学校、行った方がいいよー。」

 あーんなに学校大嫌いだったくせに、画面に向かって呟いているのだ。変節?保守化?年のせい?

 やっぱり今でも学校嫌いだし、叱られた先生のことはなつかしいよりふーんだと思う気持ちの方が強い。だが、いま、年を経て、一つだけ云えるとしたら、学校行かないと「損をする」ってことなのだった。

 父のベン(ヴィゴ・モーテンセン)を「キャプテン」とあおぐ六人兄妹たちは、現代文明とは違う軸で生きている。映画が始まると映し出されるのは、針葉樹の深いつらなり、その緑の木々の天辺から、カメラはゆっくり降りてくる。そこには一頭のシカがいる。それから木の間隠れに覗く黒く塗った顔の青い目。

 このシカをね、ナイフで狩るんです。すごいね。ここには子供たちに有無を言わさぬ、自然とともに生きる生活があると、とても早い段階で観客は理解する。彼らは獲物の皮をはぎ、夜にはたき火してドストエフスキーなんか読んでいる。ギターを持ち出して、家族みんなで合奏し、歌い、踊る。楽しそう。

 この家族にはウィークポイントがある。お母さんだ。お母さんは双極性障害で、躁と鬱の繰り返しの果てに、死んでしまった。このお母さんはきっと、この生活を肯定し、否定し、それが良いものであると同時に悪いものでもあると知っていた存在だった。頭と体をフルに使う、物質文明から離れたハードな暮らし、だがそれは現代社会を受け入れて「いま」生きることを難しくする。お母さんの葬儀に向かう一家。ベンの義父(フランク・ランジェラ)が、頼もしげな文明社会の父性を体現し、義母(アン・ダウド)の娘を失った悲しみがリアリティを持って迫ってくる。現代社会からベンに打ち返される球は、きびしく、痛い所をつく。ベンがうっすらと涙ぐむところ、それがあるからこの映画が成立している。

 映画を観終わって、自分の「損をするよ」という考えは、とても皮相的であったなと考えた。そんなの貨幣経済上の考え方じゃん。

Bunkamuraシアターコクーン 『フェードル』

 「魔法が解けるまではどうすることもできない」とプルーストも言ってた。って、プルーストに聞くまでもなく、恋心という物は、手の施しようがないものだ。ラシーヌの『フェードル』や『アンドロマック』、大好きだ、恋の悩みの真ん中にどっぷり嵌って、「どうすんのあんたこれから!」と言いたくなるシチュエーションで、2,3時間しっかり恋心の変遷につきあうのだ。

 今日の「フェードル」は石造りの宮殿にいる。石は冷たく、石は熱い。なめらかであり、粗くざらざらしている。その二面性がフェードルと、その恋を表わしているようだ。石の大壁が大きく三角形に切り取られ、そこから外光が射しこむ。しかし中はくらく、椅子が一脚置かれている。椅子には赤い布が一筋かかり、それが椅子から流れ出して石段をくだり、禍々しい川のように見える。石の大きさ、重さを感じ、人が小さく、潰されやすいことを思う。この重さは神でもあるのだろう。

 フェードル(大竹しのぶ)はアテネ王テゼ(今井清隆)の二度目の妻、最初の妻の子凛々しいイッポリット(平岳大)に恋心を抱く。許されない恋だ。登場したフェードルは、マントで顔を隠し、罪深い恋に息も絶え絶えになっている。誰にも言うことはできないと思い詰めたフェードルだったが、乳母エノーヌ(キムラ緑子)に話してしまい、そこから事態が重く、深く、下へ下へと進展してゆく。

 恋の貌。大竹しのぶは恋の重さを十全に描き出す。イッポリットに心を打ち明け、一転、憎んだり、自分のことを疎ましく思ったり、相談に乗ってくれた乳母を遠ざけたり、恋のドキュメンタリーだ。繰り出されるセリフに重い感情が乗り、恋の絶望を目の当たりにする生々しさがある。皆好演、重厚な交響詩のようだった。

東京芸術劇場 『ハムレット HAMLET BY William Shakespear Directed BYJohn Caird』

夢。誰の夢か。

 この人たちは皆、夢と、夢でないものの間で息をする。それはとても芝居に似ている。

 うすく傾いだ四角い舞台。その舞台の下手には本当の観客席が設けられ、上手の、暗い、役者が芝居の進行を見守る席と対峙する。彼らはホレイショー(北村有起哉)の呼び覚ました記憶なのか。観客と登場人物、音楽家は互いに見守りあい、どちらがより夢か見定めあう。

 ハムレット内野聖陽)も、王(國村隼)も、オフェーリア(貫地谷しほり)も、ガートルード(浅野ゆう子)も、皆夢を見る。そこではハムレットはフォーティンブラスでありまた叔父の王に似る。彼は正当な王位継承者でありながら叔父を殺して王位を簒奪するものでもある(彼は王冠をかぶろうとして倒れる。)のだ。オフェーリアはガートルードになった夢を見、ガートルードはオフェーリアになった夢を見ているのかもしれない。いや、オフェーリアはガートルードで、ガートルードはオフェーリアなのかもしれない。ガラスのコップがありふれた水を非現実な円筒形に切り分けるように、どこかに夢と夢でないものを分けるとても薄い、繊細な仕切りがあるはずだ、水の表面のようなしきりが。ハムレットの人々が上衣を残して舞台奥に消えてゆくとき、残された乱雑さにはっとする。コップだ。現実。ついいましがたまで、私は水がやすやすとコップなしで立ち上がっていたのを目撃していたような気がするのに、この夢は生きて動き、零れる。これは私の夢だったのか。

 貫地谷しほりとレアティーズ(加藤和樹)の歌う二声の節は、ものすごく説得力がある。二役のオズリック頑張れ。浅野ゆう子、低い声が美しいが、テンポがゆっくりで少し周りとかみ合っていない。

 

 

ドーナル・ラニー&アンディ・アーヴィン Never Ending World Tour 2017

 ポーグス、エンヤ、チーフタンズアイルランド音楽を飛び石みたいにしか聞いたことがない私でも、ドーナル・ラニーの名前は知っている。

 ギリシャのブズーキという楽器(洋ナシを半分に切ってそこへ弦を張ったようなかたちの楽器)を取り入れ、背面がフラットな、アイリッシュ・ブズーキで知られた人だ。

 1972年に結成されたバンド、プランクシティや、ボシィ・バンドで活躍し、今も現役です。今日はそのドーナル・ラニーが、プランクシティでも一緒にやっていたアンディ・アーヴィンとライヴを行う。4月2日、前日の寒さも少し和らいだ午後。3時の追加公演の回。

 まず、日本でアイルランド音楽をやっている若いバンド、ジョン・ジョン・フェスティバルが演奏する。ギターとフィドルとバウロンというタンバリンと太鼓の中間のように見えるもの。片側だけに皮が張ってあり、ブラシのようなスティックでその上をはたく。反対の手でバウロンの音色を変えているみたいだなあ。フィドルのジョンは女性、フィドルは単色の地声で大きく早く鳴り、時々すばやくひるがえる。簡素な白のワンピース、ウェストまで小さいクルミボタンがたくさん並び、フィドルと反対側の耳に、白い羽根のイヤリングが下がる。前髪がつやつやと光るのをながめつつ音楽を聴く。バウロンにもフィドルにも負けずギターの音も聞こえる。スナフキンみたいな帽子をかぶった若い人。やすやすと指を動かしている。日本にもこんな人たちいるんだなぁ。緊張しつつも楽しそう。バウロンの足元でチャイムのようなキラキランという音がする。Sally Gally、加速。太鼓とギターで盛り上げる。フィドルの弓の馬の毛が少し切れて照明に光る。数曲で彼らはさっと引き上げ、ドーナル・ラニーとアンディ・アーヴィンが現れた。ドーナル・ラニーは薄い色のジーンズとそれに合う水色のTシャツ、アンディ・アーヴィンは黒のシャツの下に赤い字のロゴのある黒のTシャツを着ている。ラフ過ぎない?ていうか寒くない?初めて聴くブズーキとギターから、おそろしくきれいな音がして、見た目とのギャップが大きくてびっくりしている。その上ふたりとも、日本語で解説してくれるのだ。きつねの出てくるおとぎ話です。とか、彼女がほかの男に行っちゃった悲しい話。なんていう。その悲しい話は、アルペジオが下降してくると、日が陰るように感じる。行く手の道にゆっくりと雲がかかるみたいな。主人公の男の心もそんな風に翳るのね、と思うのだった。それから、東ヨーロッパのダンス曲。「16分の11拍子です。」うーん。ぽつぽつと降り出した雨が激しくなるような曲でした。低音が響いてくる。どんなダンスだ。一瞬の休止、そして上昇してゆく旋律。どんなに激しく踊っても、このダンス曲に見合わないような気すらする。

 ブズーキの上で、ドーナル・ラニーの左手は、速く、軽く、しっかりと絃を弾く。よく見ると、何があってもブズーキの面は一定に固定され、あまり動かない。奏者が揺らせば別だけど。

 アンディ・アーヴィンはハーモニカを吹いたりギターを弾いたりブズーキを弾いたりしている。あの中にマンドリン(マンドーラ?)もあったのかなあ。二人とも「民謡だな」と思わせる生活に近い寂びた声で次々唄う。呪文のようなゲール語の歌もある。

 やさしく鳴らすとブズーキはルネサンスの楽器みたいに見えるけれど、早くなり、はげしくなり、中からアイリッシュ・チューンが立ち上がる。彼女を置いてアメリカに渡った男。二度とアイルランドには帰らなかった。映画『ブルックリン』の、アイルランド人労働者のためのクリスマス食事会のシーンを思い出した。年を取って疲れたアイルランドの男たち、あれは帰れなかった人たちだったんだなあ。なにか言いかけてやめるように曲が終わった。

 プランクシティの曲も弾く。手足でリズムを取りたくなるような曲、2人の男が戦争に誘われて断る歌、って言ったかな。体の中に太鼓があって、その太鼓が目を覚ますみたいだった。誰も踊らないけれど日本人的には十分盛り上がってます。クライマックスは男に裏切られた女の子の歌、僕たちこの曲100年やってます。と言って笑わせる。始まった途端、100年やってるだけのことあるやん!と胸に叫ぶ。曲の中、歌の中、楽器の中に嘆きの核心が潜んでいる。素晴らしいです。手拍子しないのかあ!ともう一度胸に叫んだ。

 次にアンディが、ウディ・ガースリーに捧げます、と言って、ファシストは消え去る、というリフレインを日本語で観客に歌わせてくれる。なんだろう、この安堵感。ここにいる人がみんなファシストを嫌っているというかすかな連帯感と、ファシストがほんとに消え去るような希望を感じた。ドーナル・ラニーもアンディ・アーヴィンも、もうTシャツでブズーキを弾く人、というより、楽器の従者、お供のように見えてきた。楽器がアップで目に映り、繊細そうにぴかぴか光を放つ。

 最後にジョン・ジョン・フェスティバルがもう一度登場して一曲。人数多くて、迫力がありました。

劇団黒テント第76回公演 『亡国のダンサー』

 一人の男「わたし」(服部吉次)が大きな机の上に軽く手を触れる。「降りやまない雨、」と彼は言う。倒れている「わたし」を描写する。「わたし」は顔の間近に雨粒の跳ねるのを見ている。雨粒のダンス。浅い傷や深い傷、彼は動くこともできず、失血し続ける。

 この話、さっぱり分からなかった。「わたし」は複眼のように思われ、変容する。大化の改新乙巳の変)、中大兄皇子中臣鎌足が当時政事をほしいままにしていた蘇我入鹿を儀式の最中に殺す。また、理事長(宮小町)と呼ばれる女がαpoint60Fと呼ばれる後嗣を育てている近未来がある。そこはどうやら高層のビルらしく、ダクトを伝って作業員たちが、ある計画に駆り出されている。近未来のこのビルの一室で、「わたし」は証人(平田三奈子)にこの人を知っているといわれ戸惑う。「わたし」のいる部屋に、姉(中島亜子)と名乗る女、弟(芹澤悠)と名乗る男、祖父(愛川敏幸)と名乗る老人がやって来る。

「わたし」は誰のことも知らない。「わたし」が「わたし」である証を立てるために、「わたし」は辛抱強く、何度も、小さな電子機器の入力コードに、個人の情報を打ち込み続ける。「わたし」は容易にこの作業を他人にゆだねない。近道や安易な方法を注意深く避けながら、「わたし」は扉を開ける。コンピューターの機械同士の闘争に巻き込まれる「わたし」、「わたし」はあの日部屋から外を見ていて(家族を持ち)、また、部屋の外からカーテンを見上げていた「わたし」でもある(つながりを持つ)。視点のジャンプ。「わたし」はあの時殺された入鹿として血を流し続け、雨粒の跳ねを見守る。その雨の踊り。こうして書きながら、私もまた「わたし」としてこの芝居に巻き込まれているのを感じる。私にはこの芝居がわからないが、私の観た芝居はこのようなものであった。

新国立劇場中劇場 『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』

 香がたきしめてある。それともこれは花の香りなのか。外気の冷たさにすくみ上っている身体を、ゆっくり緩めてくれるようなショパンが流れている。舞台には赤い幕が襞深くかかり、照明がその幕の上に、桜の花を濃淡二色で浮き出す。背もたれに凭れながら、誰か佳人のお宅に来たみたいだなーと思う。源氏ゆかりの女の人の家のことなど、考えてしまうのであった。

 一転、弦楽の現代音楽。暗く、奇妙な舞台が、目の前に開ける。ダリ。上手で時計が溶けて木に引っ掛かっている。その隣にドア、舞台中央奥に、三日月を背負う豪華な着物が衣桁にかかり、その手前に光琳の流水模様のカバーをかけたこれも豪華な大きなベッドが置かれている。電話を置く台は女の彫像、ダリ風。下手のソファも溶けた時計、この病室に主人公の源氏たる若林光(木村彰吾)は、病に苦しむ妻葵(今泉舞)の様子を見に来ている。実は葵を苦しめているのは光のかつての恋人六条康子(美輪明宏)の霊なのだ。時間が柔らかくなって溶け合い、物のあやめの知れなくなるところ、三日月の着物のちょうど月のあたりに、深々と闇が広がり、現れた康子を包む。美しい康子。黒の松の絵のついたコート、小さく光を反射する豪奢な黒いドレス。彼女は光をまだ愛している。しかし、恋はいつか、必ず終わるのだ。その予感がヨットに乗り込む恋する康子をいつもとらえていて、彼女の声や眉宇を曇らせる。

 舞台の奥には闇があり、手前にはリビドーのような、ひな壇のような赤い色が広がっている。光はどこに走って行ったのか。ダリがガラならざるガラを崇拝したように、光もまた、康子ならざる康子、モナリザのような永遠の、終わらない恋、完全な愛に向かって、消えて行ったのかもしれない。

 

卒塔婆小町』観終わって一番胸打たれたのは、恋人を失って、老婆(美輪明宏)が、心から、乙女のようにすすり泣いているシーンである。ものすごく可憐。

 一見、究極の悲恋の物語だ。「あなたはうつくしい」と、恋をした途端、死なねばならない定め。ここにも終わらない恋、悲しいような愛があるように見える。

 老婆と小町の、ギャップが凄い。それでいて、同一人物であることを納得させる。別の詩人が現れたとき、幻想の鹿鳴館が光り輝いて、この物語の持っている冷たさと熱さがとてもよく見て取れる。先ほど死んでいった男が、色褪せ萎れた花のように思えるのだ。

 看護婦たちはじめ三島の硬質なセリフがよく消化できている。木村彰吾の「わかばやしあおい」という科白の声が深く美しかった。

かぐらざかあかぎ寄席NEXT→ 落語「三遊亭萬橘」独演会

 神楽坂、赤城神社。迷いようがない。地下鉄東西線神楽坂駅1番出口を上がって左すぐ。立て看板もたってるし、赤い鳥居も見える。石段を上がりきったところに、大きなガラス窓のカフェもあるのだった。カフェから窓越しにもうつぼみを持った桜の木、蛍雪天神という社、その背後に暮れていく空が見える。えー、すてき。これからここの地下ホールで、落語聴く。「三遊亭萬橘」独演会、開口一番はこないだみたまん坊さんだ。高座に上がるまん坊さんの頭上に、高気圧みたいに上に向かってのぼっていく気流が見える気がする。だめだよー、あがったら、と胸の内で思うのだが、まん坊さんはあがってないみたいに(あがってなかったのかも)きっちり話をするのだった。話は『雛鍔』。

 植木職人のお父さんが、出入りの屋敷の八歳の若様が穴開き銭を知らずに「お雛様の刀の鍔か」と言ったのに感心し、自分の家の金坊も同じようにしつけようと思いつく話。話者によって向きが違うのを(上下切るっていうんですか)まん坊さんが習ったとおり着実にやるのを感心してながめる。植木職人がかみさん(?書いててちょっと恥ずかしい)に羊羹出せというところは、お客さんの前なのでちょっと小声なんじゃないのかなと思いました。うちの子にはおつきの人なんかいないからオアシが遊ばせてくれるんだというおかみさんの道理に納得し、日本伝統の放任主義に感じ入るのだった。

 さて、萬橘さんの登場だ。4月15日の法政OBの落語家の会の話や徳島の結婚式の話やなにやかや。

 粋な黒塀見越しの松、っていうとそれはお妾さんのおうち、と始まる噺は『転宅』。お妾さんに旦那が預けて行った大金を狙って座敷に上がりこんだ泥棒が、お妾さんの舌先三寸でまるめられ、散々な目にあう。好きだなこの話。頭の中で座敷に座る泥棒の、上の方に突き出された煙管の先だけがまず見え、お妾さんのすこしだけ慄えるような心持が伝わってくる。お妾さんがきれいな女なのかどうか、萬橘さんがそこはあまりつくらないのでわからないけど、聡い女なのは確か、うまく泥棒をのせていき、一緒になろうと持ちかけるところもおかしくて、色仕掛けって感じが全然せず、おもしろい。この人たち(って萬橘さんが一人でやっているわけだが)丁々発止でやりあっているみたいでいて、すこぉし、オフビートなのだ。すこしずつ野放図。配線コードの根元からわずかにむき出しの銅線がのぞいているみたいだ。それが萬橘さんの持ち味なのかな。カラスかあと鳴いて朝になりました。という決まり文句(?)も、シンプルな味があってよかった。

 2つ目の話が始まる前に、萬橘さんがザリガニ釣りの話をする。ザリガニが釣りあげられる姿を何気なく座布団の上で伸びあがってやってくれたのだが、その「ザリガニ感」、実際にザリガニ釣りしたひとにしか出せないリアリティだった。自分のザリガニ釣りの思い出も、急激に戻ってきました。

 落語は『らくだ』で、らくだっていうのは話の最初からもう死んでいる乱暴者だ。このらくだに丁の目の半次(当て字です)という兄貴分がいて、長屋の連中を脅してらくだの葬式を出そうとする。この半次にいいように使われるのが偶然らくだの死んでいるのを見つけた屑屋の男。らくだの死体をしょわされて、中国渡りのおどりかんかんのうを踊らされたり、ひどい展開である。いつも上目づかいで腰が低く、おずおずとしている男だが、半次にむりやり酒を飲まされて人格が豹変する。

 らくだは死んでいて、死んでいない。そこがおもしろい。兄貴分の荒いもの言い、死んだと知った長屋の連中の喜びようから少しずつ、少しずつ、死人がよみがえってくるようだ。死人の瞼がぴくぴくするのが見える気がする。最後には屑屋の中かららくだがまた生まれてくる。「いい酒だね。」と屑屋が心からいうと、なんだか萬橘さんがいつも(落語でだけど)いいお酒飲んでるみたいで、(いいなあ。)と思うのだった。屑屋が素面でびくびくしているところから、断りながら酒を飲んで2杯目まではよかったが3杯目に人が変わるところが鮮やか。煮しめを食べるのも、実においしそうでした。