シアタートラム 『お勢登場』

 閉じ込められる。大きな黒い長持の中だ。蓋が開かない、と知ったときの動転、狭い長持の中で何とかして押し開けようとする無駄な努力、家人を気づかせようと上げる大声。そして、段々に息が苦しくなってくる。どういう工夫なのか、長持の中の仰向けになった格太郎(寺十吾)が照明で照らし出され、目をつぶりたくなるような苦しさが押し寄せる。乱歩だなあ。

 よく考えてみると、閉じられた本、読まれていない本というのは皆こうして、声にならない声を上げながら、登場人物は皆本の中に閉じ込められているのかも。こわーい。と思いながら本の表紙をとんとん、とたたけば、此方もまた、本の外の世界に閉じ込められている誰かになるのかも。

 舞台は一階と二階の二層に分けられて、障子のような縦にほそながい桟に仕切られている。上等の飼い鳥、昆虫の代わりにすり餌をもらう野鳥の籠のようだ。一階の障子が三分割されて、乱歩の世界が精巧に切り嵌められて登場する。よくできていた。特に中心にお勢(黒木華)を据えるという趣向が、生きながらピンで留めつけた考えみたいに、こわくて生き生きしている。江戸川乱歩ってじつは、お勢のような女だったのではないかと思うくらいだ。黒木華が楽しそうに、絶望を通り越した退屈の中にいる女を演じる。晴れ着を着て椅子の男にしなだれる姿も、とてもうつくしい。

 片桐はいりの、寝間で夫(梶原善)とやり取りする妻も、背徳的というより、おかしい、上品な味があってよかった。戯曲は素晴らしいのに、イレカワリの演出がいまひとつ。舞台奥からカサカサ音がしていたのは、長持の中を暗示していたのかな。押絵の寺十吾、も少し支配的でもいいかな。この鳥かごのような世界にすり餌を入れていたのは、お勢だったのだろうか、それとも?

渋谷TOHO  『沈黙 ―サイレンス―』

 殉教の浜で、笛吹いて遊んだ。映画見ながら、そんなことを突然思い出して、済まない気持ちでいっぱいになるのである。ごめんなさい。海は青く、そこに浮かぶ島も青く、空も青く、けぶるように全てが青かった。あの島に、宣教師が禁教をかいくぐって戻ってきたんだって。昼は隠れ、夜は教えを説く。やがて見つかり、殉教したんだよ。海がきらきら光っていた、小舟に乗って、決死の思いで日本の地へ戻る人影が見える気がする。すごいなと思う。笛を吹きながら考えた。きっと、こんな人の、こんな行いに、神さまはいる。じゃあ、そうじゃなかった人はどうなのか。踏み絵におびえ、拷問に怖気を振るう私のような人。棄教者たち。弱くて、美しくない人たちにとって、神とは何か。そういう映画でした。『沈黙』。

 日本で布教活動をしていた宣教師フェレイラ(リアム・ニーソン)が棄教したことがイエズス会に伝わり、フェレイラの二人の教え子、ロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)はそれを確かめるため、転んだ切支丹であるキチジロー(窪塚洋介)の助けを借りて、長崎へ潜入する。トモギ村というその村で、イチゾー(笈田ヨシ)、モキチ(塚本晋也)という切支丹たちに会うがそれもつかの間、信者たちは無残に殺されていき、苦しみは尽きない。しかしそれでもまだ神は沈黙している。心の中で神と対峙するロドリゴ

 全編が息詰まる緊張で貫かれ、一瞬も緩まない。中でも塚本晋也が全身で表現する精神性に打たれた。ロドリゴたちにあって、目から溢れる安堵と喜び、踏み絵に選ばれての小さな気落ち、それから仰向けになれば浮いたあばらの間に水が溜まるのではないかと思うほどの厳しい痩せかた。これに対してキチジローは犬のような眼をした一塊の塵芥のようだ。(登場シーンのうずくまり方がちょっと惜しい。足がながすぎるのかもだけど。)彼は神を裏切り続ける。それほど弱い。そして子供のように戻ってくる。何度も転び、何度も神を呼ぶキチジロー、醜く見えるもの、弱く見えるもの、ロドリゴの行いを通しても神は顕れるのではないかと思える。そこにこそ、黙っている神が、宿っているのでは。      

シアターコクーン・オンレパートリー2017+キューブ20th,2017 『陥没』

 降る雪や明治は遠くなりにけり

と、草田男がうたったのが昭和6年。明治が終わって20年くらい後だね。明治が雪の中に吸い込まれるように消えてゆく。草田男の明治以上に、昭和も随分遠くなったなあ。陥没したように見えなくなる時代を、ケラが振り返る。

 そこは大聖堂のような建物。ちいさなマス目の窓ガラスで区切られ、二階までも吹き抜けで、三階に見まごう屋根は円形に次第にすぼまって、ガラスは空を見通せる。手前の舞台上に、「レースのカバー」の附いたソファセット、上手に「観音開きの扉つき箱」に収まった大型テレビ、下手に枝折り戸が見える。この建物はオリンピアスターパーク。ホテル、テニスコート、プールを完備し、昭和39年のオリンピック需要を当て込んで、湯たんぽ会社の社長諸星光作(山崎一)が着工しようとしているのだ。しかし光作は不慮の死を遂げ、昭和38年11月の開業一か月前の披露パーティーを、娘の瞳(小池栄子)がとりしきるところ。だがそこには瞳の元夫木ノ内是晴(きのうちさだはる=井上芳雄)や、是晴の婚約者の大東結(おおひがしむすび=松岡茉優)がやってきて、なんかすっごくややこしく、笑えるのだった。

 木ノ内是晴の井上芳雄が、とても適っていて、よかった。いろいろと笑劇の要素が多いが、男女の思いの芝居としても成立している。ただ自分の好みとしては、「切なさ成分」が、も少しあったほうが好きだなという気はする。

 ドーム状のガラス張りの建物の中で、登場人物が「希望」や「選択」を語る。高度成長というのは身の回りにたくさん、自他を切り離す「かご」のような建物を、せっせと積み上げた時代だったのかもしれないと思った。

NODA・MAP第二十一回公演 『足跡姫 時代錯誤冬幽霊 ときあやまってふゆのゆうれい』

 芸能。持ち上げられたり落とされたり、毀誉褒貶の激しいジャンルだなと思う。羨ましがられたり、憎まれたり、憧れられたり、蔑まれたり、忙しい。それはみんな、芸能が場を通じて一時(いっとき)顕現し、観る人を圧倒し、そのあと一瞬で消えてしまうからだ。世間の人って「消えるもの」を胡散臭く思ってる。「消える価値」を許さない。だけど「消えるもの」に魅かれてしまう。それが美しいから。

 江戸時代。出雲阿国の系譜をひく三、四代目阿国の女歌舞伎が興行している。そこへ現れる役人(伊達の十役人=中村扇雀)が、女歌舞伎を取り締まろうとする。一座しているのは、三、四代目阿国宮沢りえ)とその弟サルワカ(妻夫木聡)、一座の座主万歳三唱太夫(池谷のぶえ)たちだ。サルワカは穴を掘っているうちに由比正雪古田新太)を掘り出してしまい、その手助けで台本を書く。由比正雪の腑分けをしたい腑分けもの(野田秀樹)、由比正雪を頭と恃む戯けもの(佐藤隆太)も現れ、将軍家なんとかの御前での舞をめぐって、事態は混とんとしてくる。

 縦横無尽に幕が引かれる。幕を引けばそこでおきたことはみな「ツクリゴト」の「消えるもの」に変わるのだ。ありとあらゆる芸能の貌が語られる。反骨、追従、嫉妬、華やかさ、売色(吉原)との距離の近さ、純粋さ。全てが失われてゆく。消えてゆく。

 でも、踊り子ヤワハダ(鈴木杏)が川の中に黒く(黝く見えた)横たわるとき、伊達の十役人が声を張りながら辺りのカブキ者に鋭く目を配るとき、「ツクリゴト」の「消えるもの」は決してなくならないと何かが私に言う。風に瞬くローソクの灯のように、消えたと思ってもそれはまた灯り、いつまでもいつまでも続いていくのだ。

世田谷パブリックシアター 『幸福な職場 ~ここにはしあわせがつまっている~』

 いい話なの。チョークを作っている会社が、養護学校の先生のたっての頼みでしぶしぶ知的障碍者を受け入れ、次第にその出会いで変わってゆく。実話だ。

 出てくる俳優はみんなハンサムだし、笑わせる間合いもすごく巧いし、壁にかかった湖かなんかの絵を、へぇーと覗き込む感じで観る。知的障碍者のことなんて、考えたことなかった、それはたとえば、駅には一か所、線路の向こう側にしかエレベーターがないのだということに、足をくじくまで気づかずにいるのと似ている。弱者の立場になるまで、この世界が弱者にどれほど不親切か、わからないのだった。ところが、障碍者が就職できず、子どもを持つことも許されなかったという事実は、私たちにもちゃんとつながっている。ほら、「産めとか産むなとか、自分のことを他人に言われたくない」って思うでしょ、あの気持ちを敷衍していくと、「障碍者の人は産めとか産むなとか、ずーっと指図されていた」ってところに行きつくんだよね。「絵」のなかの「おはなし」だったものが、ひたひたと観ている私の足元に押し寄せる感じ。

 観に来ているのは大体が若い女の人、静かに並んでキャストの写真やグッズを買っている。安西慎太郎のきれいに整えられた眉を見ると、私がいつも観ている芝居、こんなのが芝居だと思い込んでいるのとは違う芝居なのかもしれない、とちらっと思うけど、彼の大森泰弘は、正調二枚目主役の芝居で、陰翳に乏しい。それを支える工場の原田(松田凌)と久我(谷口賢志)も、どちらかと言えば二枚目の芝居なのだった。最初の通産省の役人の場面が、そのあとどうつながるのか、しばらくわからなかったよ。馬渕英里何の佐々木先生、幅いっぱいきっちり芝居しているが、逸脱が欲しい。「味」です。

Bunkamuraシアターコクーン 『世界』

 スナックのミラーボールに、かすかに光。小さい小さい粉雪ほどの光が一つ見える。それは世界に穿った穴みたいだ。

 スナックや、ラブホテルや、台所や、下宿、舞台はさまざまな貌を見せながらくるくる回る。早く回る。その頭上に歩道橋があり、寒そうに登場人物が行きかい、又は立ち止まり、ぼんやり煙草をふかしていたりする。

 これといった出来事は起こらない。町工場を営む一家の父(風間杜夫)と母(梅沢昌代)が離婚しようとしている。止めたい思いの息子(大倉孝二)はスナックのママ(鈴木砂羽)と浮気している。すばやく景色を替えながら、物語は淡々と進む。しかし、どの人物の芝居をとっても、なんだかクローズアップで見ているように心の裡がわかり、歩く姿にはそれぞれの人生の重さがある。大げさでも控えめでもない芝居「そのもの」が提示され、役者はみな役柄「そのもの」に見えた。そこから覗く諦念や哀しみ、変えられない性(さが)を、私もまた歩道橋から、煙草を吸いながら寒く眺めたような気さえする。

 風間杜夫のどうしても自分のことしか考えられない父、離婚を止めるよう息子に言われて、何か身を固くする梅沢昌代、軽薄そうなのになぜか抱擁シーンが胸を打つ早乙女太一、ぶっきらぼうな大倉孝二とのどこにも行きつけない愛を持て余す鈴木砂羽、明るくしている控えめな妻青木さやか(冷蔵庫に寄り掛かっての腕組みシーン段取りにならないようにね)。ケロッとしているようで自分に耐えている娘の広瀬アリス、散々な役回りの高知の青年和田正人(スーパーのシーンでは、自棄の感じがもすこしあってもいい)。ここに挙げない人も皆好演である。ていうか空席がもはや絶対許せないレベルの芝居だったのでした。

劇団東京乾電池公演 『やってきたゴドー』

 『やってきたゴドー』、初演は2007年、戯曲は2010年9月論創社刊。読み終わっての感想は、電信柱とベンチとバス停のある砂の惑星に、ウラジーミルとエストラゴンがいて、そこへ、隕石みたいに「バスを待つ女」や「乳母車の女」や「受付の二人」が、フォルムとして突き刺さって来るって感じだ。フォルムのひとつひとつが、それぞれの宇宙を持ってる。ものすごく広くて、ものすごくねじれてて、ものすごくおかしい。

 開演前、今日の舞台を一目見るなり、少し笑った。私の中では静謐なイメージの電信柱とベンチとバス停が、皆近い。別役の静けさに持ち込むこの近さ。そして(明るくなるとわかるのだが)饒舌。下手寄りにやや迷いながら立っているように見える電信柱には、質屋や内職の広告や女の裸のビラが貼ってある。ベンチは少しデザインが入っているしバス停には「宮下一丁目」ときっちり記されている。ちびた塗下駄をはいて現れる女1(麻生絵里子)は買い物かごを提げている。昭和三十年代だー。昭和風に言うと、この芝居はひとつづりのバスの回数券みたいだ。全てのフォルムが、押しくらまんじゅうでつながっている。ウラジーミル(伊東潤)とエストラゴン(有山尚宏)は終始怒鳴りあっていて、何度ゴドー(戸辺俊介)が名乗っても見逃してしまう。腑に落ちないために、いつまでも出会えない人々。赤ん坊を連れて、その父親を探している女4(宮田早苗)。息子からの手紙を買い物かごに忍ばせて、息子の訪れを待っていたという女1。東京乾電池の女の役者たちは、「その場にいる」ということがきちんとできていて、地に足がつかない感じのエストラゴンたちとは違う。それは演出だとおもうけど、セリフのどたばたに、もすこし洗練が欲しい。時刻表を見る麻生絵里子の、集中した静かな感じは、とてもリアルで、洗練されているよ。