ピーター・バラカンのPing-Pong DJ Special ゲスト:小坂忠

 「えっ牧師」

 予習ゼロ、晴れ豆の暗い照明でウィキペディアを見てる。牧師って、むかし「キリスト教」って授業を受けて以来、会ったことない人たちだ。牧師さんは詰襟のような黒い服を着ていたな、と思い出す。小坂忠さんは牧師だけど、真っ赤なシャツに黒の少し光るジレ、ジーンズという格好。ミュージシャンだもんね。

 バラカンさんが先に自分の好きなBlack Musicをかける。キング・カーティス、Menphis Soul Stew。バンドのメンバーを紹介する曲、7分半。小坂忠さんのビルボード東京ライヴのオープニングにかけたのだそうだ。アレサ・フランクリンを白人の若者たちに浸透させるためにサンフランシスコのフィルモア・ウェストでコンサートをやり、その前座だったキング・カーティスのライヴ盤からの一曲。バンド紹介するだけでこのかっこよさ。と思う。

 小坂忠さんはミーターズ、People Say、バラカンさんはビル・ウィザーズのGrandma’s Handと、とんとん進む。ビル・ウィザーズのアルバムを見ていて、小坂さんは自分の2001年のアルバムに「People」とつけたんだって。繊細な、フォークっぽくも聞こえる歌でした。

 続いて「アフロビート」で知られるフェラ・クティ。どの曲聴いても、リズムが署名のように特徴的な気がする。アフリカ中で受け入れられた。今日かかったのはYellow Fever           。バラカンさんのラジオ番組で、彼の波乱と抵抗の人生を曲を絡めて紹介していたよね。ナイジェリアの軍事政権を批判して、住んでいる村を警察に急襲され、お母さんは二階から落ちてなくなったんだって。パッと見、ノリのいい音楽のように聞こえるけど、そこにあふれる反骨に改めて凄いなと思う。バラカンさんは「黄熱病」をうけて、肺炎とブギウギインフルエンザ  という曲をかけていた。

 今日かかった曲で一番好きだったのはセネガルのコーラジャズバンドかな。「コーラ」という楽器と「カラバシ」という楽器を使っていて、見たことないので混乱。「コーラ」は激しい音が出せる。瓢箪に皮を張って、ギターのネックみたいに真ん中に棒がさしこんであり、たくさん(21本)弦が張られている。弦の両側に「ツノがついてるんだよ」(小坂)、かえってネットで見ると確かに装飾的なツノがついていた。「カラバシ」は、両手の人差し指と親指を使う瓢箪の楽器、っていう所までしかわからず。しかし、このひとたちのOye Como Vaは圧倒的だった。

 ほかにゴスペル界に収まりきらず、ビッグバンドできわどい歌詞を唄って批判されたシスター・ロゼッタ・サープ、ベースを弾きながら歌うエスペランザ・スポルディングなど。

 ナット・キング・コールがニュー・ラテン・クォーターという赤坂のクラブ(キャバレー?)で歌った時の記録音源。サーという雑音の中から、手抜きしない、楷書のようなナット・キング・コールの声が聞こえてくる。えらいな、ナット・キング・コール、どこでもピシッと歌う。真面目な人だったのかも。チャック・ベリーナット・キング・コールに影響を受けていて、ローリング・ストーンズはチャックベリーに影響を受けている。ナット・キング・コールは、黒人の成功の典型、目標でもあったんだって。

 ちょっと休憩を挟んで、小坂忠さんのミニライヴが始まる。中央にギターを持った小坂忠、上手にギターの佐藤克彦、下手にベースの瀬川信二。

 “真夜中まで20キロほど”としっとり歌いだされる歌の題名は、「ボンボヤージ波止場」。ゆっくりとはしけが後ろへ、後ろへと消えてゆくのをながめているみたい。ちょっとハスキーで、半音がかっこいい。

 歌い終わると、「教会はあした忙しいんです。ほんとはこんなことしてる場合じゃないんだよね。」とくすっと笑いながら言うので、日曜日の礼拝があるからかなと思ったら、「明日はイースター」だった。ねえねえイースターって、ものすごく大きな行事じゃなかったっけ。それはたいへん。

 一曲目は、神さまは登場しない曲だった。2曲目は“トランペットの響きが永遠の別れを告げる”とはじまる、自分の死についての歌。死を悲しいものでなく、ポジティブにとらえる、それはゴスペルなのかなあ。私が家族に「死んでからも仲良くしてね」って言ってるのも、ちょっと宗教ぽいのかもしれん。と考える。

 左右に座るベースとギターが、最新鋭の機械に見える。楽器の音が、そう、ぴかぴかの新車の上等な感じ、フェラーリとかフェアレディzとか、それを乗りこなす、弾きこなす音楽だな。小坂忠は、パレットにとろりと流した鮮やかな絵の具色の車に乗って、スピードを出す余裕のおじさんだ。“目を覚まして現実を見て歩き出そうよ向きを変えて”これゴスペル?

 “木金土は映画館、”という歌詞が“日曜日はきみのため”と続く。この「きみ」は神さまでもあるのかも。日曜日一日を誰かに捧げるというのは難しいことで、すくなくともわたしにはできないんだよね。尊敬する。ベースの人が弾きながら落ち着いて会場を見渡す。ベースの中には別の時間が流れているんだろうか。低い音がギターと絡まって、気持ちいい。

 You tube で昔の小坂忠の歌うのを聴くと、今の唄が断然いいと思う。ゴスペルってそんなに特殊なものではない、普遍的な歌なんだと感じた。

 アンコールは「機関車」ほか一曲。この歌難解。「きみ」は「僕の影を踏みながら先へ先へと走る」。二番で僕は機関車になっている。考え考え、頭の中で何回も聴いちゃう曲でした。

IHIステージアラウンド東京 ONWARD presents 『劇団新感線 髑髏城の七人 season 花』 

 「いい席だねー。」「ほんと、いい席だー。」

 私の一列前の人が、ほかの席から様子を見に来た友達に、口々に羨ましがられている。確かに、いい席。天魔王の見る「整った」満月は半分見切れてしまうけど、俳優さんの姿もよく見え、何より、端で劇場が「廻っている」のを体感できる。見上げる天井が、なるほど丸い。私たちは円の内側にいる。グレーの湾曲したスクリーンが天井と同心円に舞台を閉め切っている。スクリーンはほぼ90°で一旦切れ、別のスクリーンがそれに連なる。このスクリーンが開き、客席の下から動力音がして、開いた正面まで私たちを運んでいく。(ま、まわってる?)広く開く場面もあれば、それほど開かない場面もある。開口部が小さい時には、両側のスクリーンに、城や家や、さびしく夢のように揺れる荒地の花が映っている。要するに暗転のない舞台なのだ。スクリーンと客席の間の、円形の通路(廻り花道って感じ?)を、髑髏党の鉄機兵や、血路を切り開く「髑髏城の七人」が駆け抜ける。ダイナミック、だけど残念なことには、セリフがぱりっと聞きとれないのである。9割がたの、亡霊みたいな芝居を3時間追いかけなければならない。尻上がりに面白くなるからいいけど、いいセリフがもったいない。例外的に古田新太のセリフは聞きとれるので、何か工夫しているのかなと思った。

 天魔王の成河が飛びぬけて迫力がある。本の中の本、飛び出す絵本を読んでいるみたいだ。大仰で極端、この劇場が破格なのに足並みをそろえていてぴったりだ。蘭兵衛(山本耕史)と捨之介(小栗旬)のトラウマに毒を注ぎ込む。山本耕史、心変わりにとても説得力があるが、捨之介、兵庫(青木崇高)ともどももっと極端でお願いします。いつもの「演劇」と、違う感じで。小栗旬がカーテンコールで去っていく後姿が、「きゃあああ」って感じで捨之介でした。

ヒューマントラストシネマ有楽町 『はじまりへの旅』

 「学校、行った方がいいよー。」

 あーんなに学校大嫌いだったくせに、画面に向かって呟いているのだ。変節?保守化?年のせい?

 やっぱり今でも学校嫌いだし、叱られた先生のことはなつかしいよりふーんだと思う気持ちの方が強い。だが、いま、年を経て、一つだけ云えるとしたら、学校行かないと「損をする」ってことなのだった。

 父のベン(ヴィゴ・モーテンセン)を「キャプテン」とあおぐ六人兄妹たちは、現代文明とは違う軸で生きている。映画が始まると映し出されるのは、針葉樹の深いつらなり、その緑の木々の天辺から、カメラはゆっくり降りてくる。そこには一頭のシカがいる。それから木の間隠れに覗く黒く塗った顔の青い目。

 このシカをね、ナイフで狩るんです。すごいね。ここには子供たちに有無を言わさぬ、自然とともに生きる生活があると、とても早い段階で観客は理解する。彼らは獲物の皮をはぎ、夜にはたき火してドストエフスキーなんか読んでいる。ギターを持ち出して、家族みんなで合奏し、歌い、踊る。楽しそう。

 この家族にはウィークポイントがある。お母さんだ。お母さんは双極性障害で、躁と鬱の繰り返しの果てに、死んでしまった。このお母さんはきっと、この生活を肯定し、否定し、それが良いものであると同時に悪いものでもあると知っていた存在だった。頭と体をフルに使う、物質文明から離れたハードな暮らし、だがそれは現代社会を受け入れて「いま」生きることを難しくする。お母さんの葬儀に向かう一家。ベンの義父(フランク・ランジェラ)が、頼もしげな文明社会の父性を体現し、義母(アン・ダウド)の娘を失った悲しみがリアリティを持って迫ってくる。現代社会からベンに打ち返される球は、きびしく、痛い所をつく。ベンがうっすらと涙ぐむところ、それがあるからこの映画が成立している。

 映画を観終わって、自分の「損をするよ」という考えは、とても皮相的であったなと考えた。そんなの貨幣経済上の考え方じゃん。

Bunkamuraシアターコクーン 『フェードル』

 「魔法が解けるまではどうすることもできない」とプルーストも言ってた。って、プルーストに聞くまでもなく、恋心という物は、手の施しようがないものだ。ラシーヌの『フェードル』や『アンドロマック』、大好きだ、恋の悩みの真ん中にどっぷり嵌って、「どうすんのあんたこれから!」と言いたくなるシチュエーションで、2,3時間しっかり恋心の変遷につきあうのだ。

 今日の「フェードル」は石造りの宮殿にいる。石は冷たく、石は熱い。なめらかであり、粗くざらざらしている。その二面性がフェードルと、その恋を表わしているようだ。石の大壁が大きく三角形に切り取られ、そこから外光が射しこむ。しかし中はくらく、椅子が一脚置かれている。椅子には赤い布が一筋かかり、それが椅子から流れ出して石段をくだり、禍々しい川のように見える。石の大きさ、重さを感じ、人が小さく、潰されやすいことを思う。この重さは神でもあるのだろう。

 フェードル(大竹しのぶ)はアテネ王テゼ(今井清隆)の二度目の妻、最初の妻の子凛々しいイッポリット(平岳大)に恋心を抱く。許されない恋だ。登場したフェードルは、マントで顔を隠し、罪深い恋に息も絶え絶えになっている。誰にも言うことはできないと思い詰めたフェードルだったが、乳母エノーヌ(キムラ緑子)に話してしまい、そこから事態が重く、深く、下へ下へと進展してゆく。

 恋の貌。大竹しのぶは恋の重さを十全に描き出す。イッポリットに心を打ち明け、一転、憎んだり、自分のことを疎ましく思ったり、相談に乗ってくれた乳母を遠ざけたり、恋のドキュメンタリーだ。繰り出されるセリフに重い感情が乗り、恋の絶望を目の当たりにする生々しさがある。皆好演、重厚な交響詩のようだった。

東京芸術劇場 『ハムレット HAMLET BY William Shakespear Directed BYJohn Caird』

夢。誰の夢か。

 この人たちは皆、夢と、夢でないものの間で息をする。それはとても芝居に似ている。

 うすく傾いだ四角い舞台。その舞台の下手には本当の観客席が設けられ、上手の、暗い、役者が芝居の進行を見守る席と対峙する。彼らはホレイショー(北村有起哉)の呼び覚ました記憶なのか。観客と登場人物、音楽家は互いに見守りあい、どちらがより夢か見定めあう。

 ハムレット内野聖陽)も、王(國村隼)も、オフェーリア(貫地谷しほり)も、ガートルード(浅野ゆう子)も、皆夢を見る。そこではハムレットはフォーティンブラスでありまた叔父の王に似る。彼は正当な王位継承者でありながら叔父を殺して王位を簒奪するものでもある(彼は王冠をかぶろうとして倒れる。)のだ。オフェーリアはガートルードになった夢を見、ガートルードはオフェーリアになった夢を見ているのかもしれない。いや、オフェーリアはガートルードで、ガートルードはオフェーリアなのかもしれない。ガラスのコップがありふれた水を非現実な円筒形に切り分けるように、どこかに夢と夢でないものを分けるとても薄い、繊細な仕切りがあるはずだ、水の表面のようなしきりが。ハムレットの人々が上衣を残して舞台奥に消えてゆくとき、残された乱雑さにはっとする。コップだ。現実。ついいましがたまで、私は水がやすやすとコップなしで立ち上がっていたのを目撃していたような気がするのに、この夢は生きて動き、零れる。これは私の夢だったのか。

 貫地谷しほりとレアティーズ(加藤和樹)の歌う二声の節は、ものすごく説得力がある。二役のオズリック頑張れ。浅野ゆう子、低い声が美しいが、テンポがゆっくりで少し周りとかみ合っていない。

 

 

ドーナル・ラニー&アンディ・アーヴィン Never Ending World Tour 2017

 ポーグス、エンヤ、チーフタンズアイルランド音楽を飛び石みたいにしか聞いたことがない私でも、ドーナル・ラニーの名前は知っている。

 ギリシャのブズーキという楽器(洋ナシを半分に切ってそこへ弦を張ったようなかたちの楽器)を取り入れ、背面がフラットな、アイリッシュ・ブズーキで知られた人だ。

 1972年に結成されたバンド、プランクシティや、ボシィ・バンドで活躍し、今も現役です。今日はそのドーナル・ラニーが、プランクシティでも一緒にやっていたアンディ・アーヴィンとライヴを行う。4月2日、前日の寒さも少し和らいだ午後。3時の追加公演の回。

 まず、日本でアイルランド音楽をやっている若いバンド、ジョン・ジョン・フェスティバルが演奏する。ギターとフィドルとバウロンというタンバリンと太鼓の中間のように見えるもの。片側だけに皮が張ってあり、ブラシのようなスティックでその上をはたく。反対の手でバウロンの音色を変えているみたいだなあ。フィドルのジョンは女性、フィドルは単色の地声で大きく早く鳴り、時々すばやくひるがえる。簡素な白のワンピース、ウェストまで小さいクルミボタンがたくさん並び、フィドルと反対側の耳に、白い羽根のイヤリングが下がる。前髪がつやつやと光るのをながめつつ音楽を聴く。バウロンにもフィドルにも負けずギターの音も聞こえる。スナフキンみたいな帽子をかぶった若い人。やすやすと指を動かしている。日本にもこんな人たちいるんだなぁ。緊張しつつも楽しそう。バウロンの足元でチャイムのようなキラキランという音がする。Sally Gally、加速。太鼓とギターで盛り上げる。フィドルの弓の馬の毛が少し切れて照明に光る。数曲で彼らはさっと引き上げ、ドーナル・ラニーとアンディ・アーヴィンが現れた。ドーナル・ラニーは薄い色のジーンズとそれに合う水色のTシャツ、アンディ・アーヴィンは黒のシャツの下に赤い字のロゴのある黒のTシャツを着ている。ラフ過ぎない?ていうか寒くない?初めて聴くブズーキとギターから、おそろしくきれいな音がして、見た目とのギャップが大きくてびっくりしている。その上ふたりとも、日本語で解説してくれるのだ。きつねの出てくるおとぎ話です。とか、彼女がほかの男に行っちゃった悲しい話。なんていう。その悲しい話は、アルペジオが下降してくると、日が陰るように感じる。行く手の道にゆっくりと雲がかかるみたいな。主人公の男の心もそんな風に翳るのね、と思うのだった。それから、東ヨーロッパのダンス曲。「16分の11拍子です。」うーん。ぽつぽつと降り出した雨が激しくなるような曲でした。低音が響いてくる。どんなダンスだ。一瞬の休止、そして上昇してゆく旋律。どんなに激しく踊っても、このダンス曲に見合わないような気すらする。

 ブズーキの上で、ドーナル・ラニーの左手は、速く、軽く、しっかりと絃を弾く。よく見ると、何があってもブズーキの面は一定に固定され、あまり動かない。奏者が揺らせば別だけど。

 アンディ・アーヴィンはハーモニカを吹いたりギターを弾いたりブズーキを弾いたりしている。あの中にマンドリン(マンドーラ?)もあったのかなあ。二人とも「民謡だな」と思わせる生活に近い寂びた声で次々唄う。呪文のようなゲール語の歌もある。

 やさしく鳴らすとブズーキはルネサンスの楽器みたいに見えるけれど、早くなり、はげしくなり、中からアイリッシュ・チューンが立ち上がる。彼女を置いてアメリカに渡った男。二度とアイルランドには帰らなかった。映画『ブルックリン』の、アイルランド人労働者のためのクリスマス食事会のシーンを思い出した。年を取って疲れたアイルランドの男たち、あれは帰れなかった人たちだったんだなあ。なにか言いかけてやめるように曲が終わった。

 プランクシティの曲も弾く。手足でリズムを取りたくなるような曲、2人の男が戦争に誘われて断る歌、って言ったかな。体の中に太鼓があって、その太鼓が目を覚ますみたいだった。誰も踊らないけれど日本人的には十分盛り上がってます。クライマックスは男に裏切られた女の子の歌、僕たちこの曲100年やってます。と言って笑わせる。始まった途端、100年やってるだけのことあるやん!と胸に叫ぶ。曲の中、歌の中、楽器の中に嘆きの核心が潜んでいる。素晴らしいです。手拍子しないのかあ!ともう一度胸に叫んだ。

 次にアンディが、ウディ・ガースリーに捧げます、と言って、ファシストは消え去る、というリフレインを日本語で観客に歌わせてくれる。なんだろう、この安堵感。ここにいる人がみんなファシストを嫌っているというかすかな連帯感と、ファシストがほんとに消え去るような希望を感じた。ドーナル・ラニーもアンディ・アーヴィンも、もうTシャツでブズーキを弾く人、というより、楽器の従者、お供のように見えてきた。楽器がアップで目に映り、繊細そうにぴかぴか光を放つ。

 最後にジョン・ジョン・フェスティバルがもう一度登場して一曲。人数多くて、迫力がありました。

劇団黒テント第76回公演 『亡国のダンサー』

 一人の男「わたし」(服部吉次)が大きな机の上に軽く手を触れる。「降りやまない雨、」と彼は言う。倒れている「わたし」を描写する。「わたし」は顔の間近に雨粒の跳ねるのを見ている。雨粒のダンス。浅い傷や深い傷、彼は動くこともできず、失血し続ける。

 この話、さっぱり分からなかった。「わたし」は複眼のように思われ、変容する。大化の改新乙巳の変)、中大兄皇子中臣鎌足が当時政事をほしいままにしていた蘇我入鹿を儀式の最中に殺す。また、理事長(宮小町)と呼ばれる女がαpoint60Fと呼ばれる後嗣を育てている近未来がある。そこはどうやら高層のビルらしく、ダクトを伝って作業員たちが、ある計画に駆り出されている。近未来のこのビルの一室で、「わたし」は証人(平田三奈子)にこの人を知っているといわれ戸惑う。「わたし」のいる部屋に、姉(中島亜子)と名乗る女、弟(芹澤悠)と名乗る男、祖父(愛川敏幸)と名乗る老人がやって来る。

「わたし」は誰のことも知らない。「わたし」が「わたし」である証を立てるために、「わたし」は辛抱強く、何度も、小さな電子機器の入力コードに、個人の情報を打ち込み続ける。「わたし」は容易にこの作業を他人にゆだねない。近道や安易な方法を注意深く避けながら、「わたし」は扉を開ける。コンピューターの機械同士の闘争に巻き込まれる「わたし」、「わたし」はあの日部屋から外を見ていて(家族を持ち)、また、部屋の外からカーテンを見上げていた「わたし」でもある(つながりを持つ)。視点のジャンプ。「わたし」はあの時殺された入鹿として血を流し続け、雨粒の跳ねを見守る。その雨の踊り。こうして書きながら、私もまた「わたし」としてこの芝居に巻き込まれているのを感じる。私にはこの芝居がわからないが、私の観た芝居はこのようなものであった。