新国立劇場中劇場 『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』

 香がたきしめてある。それともこれは花の香りなのか。外気の冷たさにすくみ上っている身体を、ゆっくり緩めてくれるようなショパンが流れている。舞台には赤い幕が襞深くかかり、照明がその幕の上に、桜の花を濃淡二色で浮き出す。背もたれに凭れながら、誰か佳人のお宅に来たみたいだなーと思う。源氏ゆかりの女の人の家のことなど、考えてしまうのであった。

 一転、弦楽の現代音楽。暗く、奇妙な舞台が、目の前に開ける。ダリ。上手で時計が溶けて木に引っ掛かっている。その隣にドア、舞台中央奥に、三日月を背負う豪華な着物が衣桁にかかり、その手前に光琳の流水模様のカバーをかけたこれも豪華な大きなベッドが置かれている。電話を置く台は女の彫像、ダリ風。下手のソファも溶けた時計、この病室に主人公の源氏たる若林光(木村彰吾)は、病に苦しむ妻葵(今泉舞)の様子を見に来ている。実は葵を苦しめているのは光のかつての恋人六条康子(美輪明宏)の霊なのだ。時間が柔らかくなって溶け合い、物のあやめの知れなくなるところ、三日月の着物のちょうど月のあたりに、深々と闇が広がり、現れた康子を包む。美しい康子。黒の松の絵のついたコート、小さく光を反射する豪奢な黒いドレス。彼女は光をまだ愛している。しかし、恋はいつか、必ず終わるのだ。その予感がヨットに乗り込む恋する康子をいつもとらえていて、彼女の声や眉宇を曇らせる。

 舞台の奥には闇があり、手前にはリビドーのような、ひな壇のような赤い色が広がっている。光はどこに走って行ったのか。ダリがガラならざるガラを崇拝したように、光もまた、康子ならざる康子、モナリザのような永遠の、終わらない恋、完全な愛に向かって、消えて行ったのかもしれない。

 

卒塔婆小町』観終わって一番胸打たれたのは、恋人を失って、老婆(美輪明宏)が、心から、乙女のようにすすり泣いているシーンである。ものすごく可憐。

 一見、究極の悲恋の物語だ。「あなたはうつくしい」と、恋をした途端、死なねばならない定め。ここにも終わらない恋、悲しいような愛があるように見える。

 老婆と小町の、ギャップが凄い。それでいて、同一人物であることを納得させる。別の詩人が現れたとき、幻想の鹿鳴館が光り輝いて、この物語の持っている冷たさと熱さがとてもよく見て取れる。先ほど死んでいった男が、色褪せ萎れた花のように思えるのだ。

 看護婦たちはじめ三島の硬質なセリフがよく消化できている。木村彰吾の「わかばやしあおい」という科白の声が深く美しかった。

かぐらざかあかぎ寄席NEXT→ 落語「三遊亭萬橘」独演会

 神楽坂、赤城神社。迷いようがない。地下鉄東西線神楽坂駅1番出口を上がって左すぐ。立て看板もたってるし、赤い鳥居も見える。石段を上がりきったところに、大きなガラス窓のカフェもあるのだった。カフェから窓越しにもうつぼみを持った桜の木、蛍雪天神という社、その背後に暮れていく空が見える。えー、すてき。これからここの地下ホールで、落語聴く。「三遊亭萬橘」独演会、開口一番はこないだみたまん坊さんだ。高座に上がるまん坊さんの頭上に、高気圧みたいに上に向かってのぼっていく気流が見える気がする。だめだよー、あがったら、と胸の内で思うのだが、まん坊さんはあがってないみたいに(あがってなかったのかも)きっちり話をするのだった。話は『雛鍔』。

 植木職人のお父さんが、出入りの屋敷の八歳の若様が穴開き銭を知らずに「お雛様の刀の鍔か」と言ったのに感心し、自分の家の金坊も同じようにしつけようと思いつく話。話者によって向きが違うのを(上下切るっていうんですか)まん坊さんが習ったとおり着実にやるのを感心してながめる。植木職人がかみさん(?書いててちょっと恥ずかしい)に羊羹出せというところは、お客さんの前なのでちょっと小声なんじゃないのかなと思いました。うちの子にはおつきの人なんかいないからオアシが遊ばせてくれるんだというおかみさんの道理に納得し、日本伝統の放任主義に感じ入るのだった。

 さて、萬橘さんの登場だ。4月15日の法政OBの落語家の会の話や徳島の結婚式の話やなにやかや。

 粋な黒塀見越しの松、っていうとそれはお妾さんのおうち、と始まる噺は『転宅』。お妾さんに旦那が預けて行った大金を狙って座敷に上がりこんだ泥棒が、お妾さんの舌先三寸でまるめられ、散々な目にあう。好きだなこの話。頭の中で座敷に座る泥棒の、上の方に突き出された煙管の先だけがまず見え、お妾さんのすこしだけ慄えるような心持が伝わってくる。お妾さんがきれいな女なのかどうか、萬橘さんがそこはあまりつくらないのでわからないけど、聡い女なのは確か、うまく泥棒をのせていき、一緒になろうと持ちかけるところもおかしくて、色仕掛けって感じが全然せず、おもしろい。この人たち(って萬橘さんが一人でやっているわけだが)丁々発止でやりあっているみたいでいて、すこぉし、オフビートなのだ。すこしずつ野放図。配線コードの根元からわずかにむき出しの銅線がのぞいているみたいだ。それが萬橘さんの持ち味なのかな。カラスかあと鳴いて朝になりました。という決まり文句(?)も、シンプルな味があってよかった。

 2つ目の話が始まる前に、萬橘さんがザリガニ釣りの話をする。ザリガニが釣りあげられる姿を何気なく座布団の上で伸びあがってやってくれたのだが、その「ザリガニ感」、実際にザリガニ釣りしたひとにしか出せないリアリティだった。自分のザリガニ釣りの思い出も、急激に戻ってきました。

 落語は『らくだ』で、らくだっていうのは話の最初からもう死んでいる乱暴者だ。このらくだに丁の目の半次(当て字です)という兄貴分がいて、長屋の連中を脅してらくだの葬式を出そうとする。この半次にいいように使われるのが偶然らくだの死んでいるのを見つけた屑屋の男。らくだの死体をしょわされて、中国渡りのおどりかんかんのうを踊らされたり、ひどい展開である。いつも上目づかいで腰が低く、おずおずとしている男だが、半次にむりやり酒を飲まされて人格が豹変する。

 らくだは死んでいて、死んでいない。そこがおもしろい。兄貴分の荒いもの言い、死んだと知った長屋の連中の喜びようから少しずつ、少しずつ、死人がよみがえってくるようだ。死人の瞼がぴくぴくするのが見える気がする。最後には屑屋の中かららくだがまた生まれてくる。「いい酒だね。」と屑屋が心からいうと、なんだか萬橘さんがいつも(落語でだけど)いいお酒飲んでるみたいで、(いいなあ。)と思うのだった。屑屋が素面でびくびくしているところから、断りながら酒を飲んで2杯目まではよかったが3杯目に人が変わるところが鮮やか。煮しめを食べるのも、実においしそうでした。

シス・カンパニー公演 『死の舞踏』

 コミック地獄図絵。

 途中、いや、序盤、観ながらちょっと怒っているのである。

 コミックなのかー。

 そんな気持ち。スウェーデンの島にある要塞に、軍人エドガー(池田成志)は妻アリス(神野三鈴)とともに住んでいる。島のお歴々とはうまくやれないため、人付き合いは全くない。エドガーとアリスが、渾身の力を込めて憎み合っているのが、アリスの従弟クルト(音尾琢真)の訪問によって、明らかになっていく。

 池田成志はこの役の描線に、ほんのすこし、まんがの線を入れる。日本の劇画のような感じじゃなく、現実がいつのまにか、フランス漫画みたいな一面しっかり描きこまれたリアルなそれとなり、そしてその端に地続きに単純な線がかすかに入り込む。まんがであり戯画でありスーパーリアリズムである生活、お笑い草でありながら途方もなく深刻な生活、死におびえるエドガーも、夫を憎むアリスも、手玉に取られるクルトも、単調な生活や子供や家族から疎外された暮らしに耐え、憎みあい、来る日も来る日も頁をめくり続けるしかない。

 神野三鈴は「自分(リアル)」の上にかっちり役作りしていて、ぶれがない。音尾琢真は縦横無尽に翻弄され、本分を尽くしている。池田成志の発声が聞き取りにくいこと、つくりだすコミックが多少浮き気味であることが、問題点である。このコミックがもう少しうまくいけば、たとえば映画『セッション』で最後にJ・K・シモンズが真顔で喋り出した時の、行く手の道がぐにゃっとゆがみそうな怖さに届くと思う。

 最初のがっかりは消えて、面白かったと思って家に帰った。

シス・カンパニー公演 『令嬢ジュリー』

 子供の本の作者、リンドグレーンスウェーデン、1907-2002)が、日本語訳されているたくさんの本の中で、たった一回、性的な関係に言及したことがあって、それは農家の主人と女中に関するものだった。その「おはなし」には作者のかすかな怒りが透けて見え、女中をいいようにする主人に、ほんとに腹立ってたんだなと感じる。と、関連するようなしないような話から始めるのは、この『令嬢ジュリー』が、よく解らないせいかもしれない。

 お屋敷のお嬢様ジュリー(小野ゆり子)は婚約を破棄したばかりだ。父の伯爵は留守、今日は農場の人々が羽目を外す夏至の夜である。ジュリーは下男のジャン(城田優)をダンスに誘い、しつこく自分の相手をさせる。

 祭りが熱狂的に盛り上がる一方で、ジュリーとジャンは一線を越える。関係性の変化、「お嬢様」でいられなくなったジュリーは拠り所をなくし、かごを失ったカナリアのように弱い、傷つきやすいものへと変わっていく。ジュリーは身分の枠組み、男女の枠組みに反発することで自分を成立させていたのだ。小野ゆり子の露わになった額には、まだジュリーが子供であることがよく表れている。彼女はどんどん幼くなる。

 気が付いたら裸足になっているという演出がとてもよかった。ジュリーの背景が複雑であるということを示すために、序盤のセリフに工夫が欲しい。権高であったり親しげであったり、冷たかったり熱心だったり、セリフごとに全然変えてもいいのでは。

 城田優のジャンは、登場時に肩が使用人らしく(?)こわばっている。体がほぐれていくにしたがってジュリーに自由に口をきいているように見えた。ジャンの恋人クリスティンの伊勢佳世好演。

東京芸術劇場 シアターイースト 『不信 ―彼女が嘘をつく理由』

 マンションの隣の部屋の夫(栗原英雄)はフィックス、その妻(戸田恵子)はドリー、高校教師(段田安則)は手持ち、その妻の編集記者(優香)はクレーン。なんだか登場人物の視点がみんなカメラで説明できそうだ。四人四様の言い分で芝居は進行するが、どのカメラも万能じゃない。必ず死角を持っている。

 劇場に入ると、舞台面にフラットに当たるブルーの四角い照明を、これもまた四角い、小さめの黒い影が隠している。ブルーは、縁どりにしか見えない。舞台中央に黒いスツールが6つ、四角の影を丸く切り抜いて、そこにだけブルーの光が当たる。これらのブルーとは異なるブルーが、向かって右の舞台端にある大きな棚を照らす。2つのブルーには微妙なちがいがあり、舞台面の方は緑がかっている。棚には写真立て、まるい置時計、フックにかけられたローブが見える。向かって左の棚には花瓶、ステレオなど。一言でいうと、この棚はインテリアショップの素敵なディスプレーである。

 「雨上がりの動物園」。こんなに素敵なのに、そのようなにおいのする隣の家へ、夫(段田)と妻(優香)は引っ越しのあいさつに行く。夫は耐えられず、景色を見るように装って窓を開けるが、妻はまるで感じない風に平穏に振る舞う。ここんとこにもうすべてがあるような。この匂いの沼(と私は感じた)に踏み込んでゆく二人。妻が踏み込みすぎて、優香のかわいさをもってしても、うるさく感じられそうになる。踏み込んでしまうトリガーを、もう少し書き込んでもよかった。

 早く起きた朝、昼下がり、夕暮れ、ふとケーブルテレビで観て、「こんなの観た。」と友人に喋りたくなるような、そんな映画に感触が似る。

ムジカーザ 『第八回 上原落語会 夜の部』

 わたし開場から数分おくれた、と思ったら、もうホールはお客さんでいっぱい。寄席っぽい音楽はなしで、ムーディなダニーボーイが流れるのを、みんな静かに聴いている。今日は小学生がいないなあ。ジョン・レノンのジュリアなど、アダルトないい感じの音楽が次々に聴こえ、段々心配になってくる。

 落語とのつなぎめどうすんのかなー。

 スピーカーから今度はピアノが鳴り始める。春の気配。今日は啓蟄。紫の座布団が、赤い毛氈の上で、感慨深げにジャズを聴く。

 はい、桃月庵白酒(とうげつあんはくしゅ)さん、無音で登場。無音しかないよね。短髪の体格のいい噺家さん。鹿児島県出身。風邪気の音楽ゲスト濱口祐自さんを呼び入れ、「病弱」とからかっている。濱口さんにはギターがないとね、と思ってしまった。音楽とのジョイントはむずかしい、どっちも中途半端になりますからねぇ。そうかな、音楽聴いて、落語も聴けて、お得って気持ちだけどなあ。確かにつなぎ目むずかしいけど、音楽好きな男の人と、落語好きな女の人がケンカせずデートできていいじゃない。シークレットゲストの林家彦いちさんが、「(私が)ジョイントです!」と言って参加する。彦いちさんも鹿児島出身、木久扇さんのお弟子さんだ。

 今日はいきなり、桃月庵白酒さんの落語から。いい声で歯切れよく、夫婦喧嘩から始まって、世界平和が乱れていくというぴしっと一直線にサゲ(っていうよね?)まで行く勢いのあるはなしだ。奥さんがやたらとぷんぷんしていて、自分みたいで、笑わずにいられない。「きょうはあったかかったね」「わたしのせい!?」っていうのがおかしかった。江戸に持ち込む現代のイラっとした奥さんて感じ。亭主の熊公がくしゃみをするくだりが、むずむずしているところなど細かく、観客の呼吸をひきつけていて、ものすごく巧いとおもっていたら、遠慮したくしゃみが、それに倍するリアルさなのだった。奥さん(かみさん?)はここでも「なんなのそれは」と機嫌の悪さ全開だ。落語にも、こんな女の人いるんだなと思った。それとも機嫌の悪い奥さんは、時代を越えてるのだろうか。四つに組んでそのまままっすぐ相手を押しだしちゃう相撲の電車道のような、速い、白酒さんの集中力と膂力を感じる噺だった。

 白酒さんがさっとかっこよく高座を後にして、セッティングが変わり、臙脂の鍔つき帽と、黒地に細かい白の水玉シャツを着た濱口祐自さんが現れる。やっぱりギター抱えてなくちゃだめですよ。風邪はピークが過ぎ去るまで治らない、というようなことを言っていたとおもうのだが、例によって私には、紀州弁が概略聞きとれないのであった。

 ホールにギターの低音が響く。左の小指にはめたスライドの管が、キラッ。音がササラのように割れている。割れた音がついてくる。かっこいー。二曲目は『アメイジング・グレイス』、濱口さんは音が緊張しているなんて言うのだが、澄んだ音と割れる音とが一緒に出てきて不思議。主旋律が割れているときは、伴奏が澄んでいる。主旋律が澄んでいるときは、伴奏はかすかに尾を引くように割れる。『おじいさんの時計』『丘を越えて』など、指を早く動かして弾くが(早弾きっていうの?)大変そうな様子ゼロ。ホール全体が胎内、物の発生するところになったような優しい音がする。ホールに音があっている。ええのう、こんくらいの音でええけ。上品な音楽やりたい、のぅ?そんなこと早口でせきこむように言って、『冬景色』の「さぎりきゆるみなとへの」のフレーズを落ち着いて弾く。この部分美しすぎる。『故郷』を弾いて、アルペジオの中から『Hard Times Come Again No More』が立ち上がってくる。辛い時よ二度と来ないでと歌う歌、もうスライドの音はしない、真水のように澄んでいる。願いの透明さが際立って見えてくるみたいだ。

 ええ感じやの!濱口さんは余韻にお構いなしに照れ隠しでそう言って、自作の『なにもないLove Song』を歌う。咳出たらやめる、これ浜田真理子さんがカヴァーしてくれた。次回は健康な時に喋ります。次にとても速い難しい曲をやって、『テネシーワルツ』で終わり。風邪とはとても思われない、すてきな演奏だった。

 仲入り後、林家彦いちさんが、伴奏に濱口さんをたのんで登場。ブルースにあわせて砂漠の毒蛇の小咄をする。どんとうけたところで、私は実録物という、自分の身辺に題材を採った噺をやっていますと自己紹介した。

 「ある晴れた夜の上り電車、」京浜東北線が急に停車、車内は空いている。サラリーマンの上司と部下、おばちゃんたち、イヤホンを大音量で聴く若いもの。それを見ている彦いちさんの胸中と車内をスケッチする。「ぶっちゃけ」という言葉を使う通りすがりの渋谷の若者の、声の核心を捉えていて驚く。生活や性格、立ち居振る舞いがぜんぶ声に入ってる。何だか知らないけどなぜか口元を手で覆いながら喋るおばさんも、イヤホンのお兄さんも生き生きしている。

 ただ小説風(?)になっているので、「おばちゃんは、」「おばちゃんが、」と重複して主語を語ると文全体の仕立てが変わり、すこし間延びすると思う。ここはひとつ、一息にすらっと言ってほしいような気がする。お客さんがわっと沸いて彦いちさんの落語が終わり、最後にまた桃月庵白酒さんの番になった。

 話の前振り(まくら?)がブルースの話。マディ・ウォーターズのバンドにいたブルースハープのジェームズ・コットンが、フィーチャーされたリトル・ウォルターがあんまり受けるのでいじける話。ジェームズ・コットンの師匠(師匠?)のサニーボーイ・ウィリアムソンがリトル・ウォルターより受けてみせたっていうんだけど、渋い話を知ってるんだね。ブルースが好きなんだなあ。

 噺は『茗荷宿』。片道5日で江戸から京大坂まで行く飛脚が、客がめったに来ない茗荷屋という宿屋に泊る。飛脚が大金を運んでいると知って、宿の夫婦は茗荷を山ほどだし、飛脚のはさみ箱を忘れさせようとする。茗荷のみそ汁、茗荷の漬物、煮茗荷、茗荷ごはんときて、天ぷらは手間がかかりますから(笑)と出ないのだが、ここはグルテンフリーでしょと『ララランド』を思い出してちょっと笑った。さらっとやって時間はちょうど8時でした。

博多座 『二月花形歌舞伎』   (2017)

 『雪之丞変化』、さすがの私も題名だけは知ってます。記憶の底から、長谷川一夫の、肉厚な美貌の上に、ふわりと載った紫の野郎帽子が現れる。女形の人が剃った前髪を隠すためにちょっと頭にかぶったら、それが色気があるってことになって代々かぶるようになったっていうあれね。あとは何にも知らない。

 原作が昭和9年(1934)年。長崎の商人松浦屋が、同業の広海屋(市川猿三郎)や、長崎奉行土部駿河守(市川男女蔵)に陥れられて牢で自死、遺された妻ゆき(市川笑也)も斬られた。一子雪太郎(市川猿)は役者中村菊之丞(市川猿弥)と、父の朋輩で剣の達人脇田一松斎(市川門之助)の薫陶を受け、芸道にも武道にも一流となり、両親の仇を討とうとしている。かたき討ちの話です。

 母ゆきが苦しい息の下から雪太郎に遺言するとき、周りを囲んだ菊之丞、一松斎、女中おもと(坂東竹三郎)が、ゆきの呼吸に合わせてふわっと動揺し、さすがだなと思っちゃいました。

 舞台が暗くなってスモークがたかれ、いくつもの灯りが舞台に落ち、ホリゾントの青い光の列が上へとあがる。少年雪太郎を載せた盆がゆっくりまわり、まわりきったらそこには成長した雪太郎=雪之丞(市川猿之助)がいる。話が早い。

 この芝居はわき役が皆しっかりしていた。とくに掏摸(すり)の軽業のお初(中村米吉)、すばらしい。伝法で、コミカルで色っぽい。なんだか「もとおちゃっぴい」なかんじもする。簪で髪の根をちょっとかいたりする仕草が、むかしなのに今。さりげなくてきまってる。雪之丞のことが好きなのに、がらじゃないのでいいだせず、「いひひひ」と照れたように笑って楽屋を出ていくとこなんか、「いひひひ」が品がいいし、軽くておしゃれだ。子分のむく犬の源次(市川弘太郎)との信頼関係もきちんと見せていて、アドリブがちょっとぐずぐずで惜しかったけど、このコンビが好きになる。

 さて、劇場では雪之丞が鷺娘を演じている。鷺の精だって。おぼろ夜の恋に迷いしわが心。雪景色。真ん中から端に向かって透きとおってゆく傘を傾げ、青いむらさきに銀糸の着物で踊る雪之丞。うすみずいろに銀の縫い取りのある着物の裾裏、雪のしろに映える冷たい色合わせが、一転、赤の恋心を思わせる着物に変わり、さらに一瞬で白い鷺に変わる。「瀕死の白鳥」の影響があるっていうけど、本当に瀕死の白鳥を思い出した。猿之助の中身がまるで飛び立ってゆくみたいだった。バレエといっしょだね。

 仇土部は、将軍様の側室にあげようとしている娘浪路(中村梅丸)と連れ立って芝居を観ている。この娘がきれいで優しげで、見張った瞳がうつくしく、男の人が皆妻にしたいと思う楚々としたお天気おねえさんみたいなのだった。この人がきれいだということ、清らかで可憐だということが、雪之丞の心の苦しみをリアルにしている。仇の娘を憎からず思うってことね。

 一松斎は免許の巻物を雪之丞に授けるが、それが面白くないのは同門の門倉平馬(坂東巳之助)だ。平馬は土部の家来である。声が大きくて、すっきりしていて、嫉妬に駆られている人を好演している。最後の一言が内省がなくちょっと惜しい。二役で笑った。どうせ後々おじいさんにはなっちゃうので、いまはハンサムな若者で出た方がいいような気がする。

 猿之助の二役は、義賊闇太郎だ。雪之丞を助ける。その配下の丑三ツの次郎(中村隼人)もかっこよかった。

 立ち退いた雪之丞と浪路をかくまう孤剣先生(平岳大)は、どうやっているのか、着物の裾前がきりっとしていて、立ち回りも敏捷で、飛びぬけて大柄な姿も生きている。

 この芝居にはもう一つ入れ子で演じられる歌舞伎があって、平将門の娘滝夜叉姫が出てくる。パッと見、何が起きているのかわからないのだが、横一列に並んだ登場人物が、探るような手をするので、あっこれ暗闇?とおもうのだった。一巻の赤い巻物が、動いてはキマル人たちの手から手を渡って、滝夜叉の方へ行く。暗闘と書いてだんまりと読ませる、歌舞伎の演出だって。おもしろかった。手燭のあかりでやったら凄いのかもね。

 土部の屋敷で仇が待ち受ける中、雪之丞は大凧に乗って乗り込んでいく。はかりごとがばれているのにだめじゃんとおもうのだが、やっぱり凧でゆっくり中空を舞う雪之丞は狙われた。でも大丈夫。ファンタジーなやり方で、ちゃんと土部屋敷に降りるのだ。

 助太刀の闇太郎と二役なので、並んだ戸板の上手から入った雪之丞が下手で闇太郎に変わったり、その逆だったり、目まぐるしく変わる。平行四辺形の台の上にひょいと上がり、その台がさっと直角に立ち上がるのに、何でもなさそうに立っているのが鮮やかだったなあ。

 雪之丞が土部にとどめを刺すところ、いやじゃない程度に観ている者に手ごたえがある。巧いと思いました。