浅草見番 四季の萬会

 浅草見番。畳敷きの変形の広間に、座布団が隙間なく並べられ、ひとつひとつに少し秋っぽい半そでの服の観客が座る。皆ぱたぱたとパンフレットや扇子で顔を扇いでいて、後ろから見たその光景は、明治っから変わらないよねー。と言ってしまいそうなくらいだ。手にしているペットボトルが、ニッキ水やラムネの時代が、確かにあったと思うのだった。

 すこしがたついた、頼りない太鼓が鳴って、三遊亭まん坊さんが開口一番。おとなになったなー。特筆すべきは、声の「芯が通った」ことだ。おなかから出ていてぶれないまっすぐな声、枕の小咄が一つと「出来心」という泥棒の話を感心して聴いた。特に泥棒の親方がぴりっとしている。泥棒が、①拳銃を見て、②お巡りさんを見て、③交番だと悟るところ、とてもつまらない。迂遠。羊羹の薄切りを指で寄せて食べるのが超リアル、よかった。今も日本のどこかにあるのかなあ、羊羹を紙のように薄く切って食べる文化が。昔読んだ本に、羊羹の厚切りに少年が仰天するシーンがあったけど、今通用する?

 それから萬橘さんが登場、長屋の兄貴分の所へ慌ててやって来るおかみさんが可笑しい。前のめりに来て簪が飛び、畳に刺さっちゃうなど、おかみさんの速度を漫画のように描きだす。まんがじゃないと、このおかみさんはやばいのだ。亭主の留守に、「しんさん」を内へあげ、お茶を飲んでる所に、亭主が帰ってきちゃった。

 小学四年生の心性で生きてるとよく分からないけど、世間の男女というのは馬鹿になった鍵と錠前みたいなものに考えられてて、無慮数千数万という組み合わせがあり、世界は瓜田と桃林ばっかりなのである。ということを頭に置いてないと、このはなしつまらない。この世に信頼ってものはないんだね。兄貴分の女房が点綴されることで、実は兄貴分もまた…っていうちょっとホラーみたいな話にも見える。簪の勢いで話は進む。酔った亭主に風呂敷をかぶせ、兄貴分が目で追う押入れの「しんさん」、面白いけどさ、「生まれたての小鹿」って安易。『あまちゃん』のぱくりでしょ、ちょっと引っかかりました。

 

 コンビニで腰に手をまわしあう男と女。弁当は一つ。「おれたちみたいにアツアツにしてくれ」「すぐ冷めますよ」

 うーん。永井荷風がさ、市川左団次の文章に言った言葉しか思いつかん。これ、「いかなる批点も加ふるに値はず」。

 相撲取りの出世譚「阿武松」。林家たけ平のこの話は、棟上げの餅まきみたいに全方向に噺がばらばらで、威勢も口跡もいいけど拾って食べたりできない気持ち。林家たけ平さんは正蔵のお弟子さん、ゆうれい噺の正蔵じゃなくて、もとこぶ平正蔵だって。萬橘さんと二人で「にっぽり館」という場所を立ち上げたのだそうだ。頑張っている。でも話は焦点がない。あと「燭台」のアクセントが「マクベス」とおなじだったけどいいの?あと、「すぃんじまう」(死んじまう)っていう訛りもどうよ。

 

中入り後、萬橘さんの「千両みかん」、一席め「風呂敷」は声がやたら小さかったが、こちらはそんなことはなく、五十両の金でのれん分けを許された番頭さんの、浮かれた気持ち、落胆、恐怖、期待などが空間を圧する。なかでも、みかんをたずねて八百屋をまわる番頭さんが、惑乱の余り、胡瓜をぶら下げているのが現前する。

 みかん問屋でみかんが「あります」と言われた時のリアクションが中途半端だ。ここもすこしぱりっとやってほしかった。終盤、「若旦那」と呼びかけるさいごの「な」で顎ががくっと脱力するところ、番頭さんの心のアップダウンを拡張していて可笑しかったです。

世田谷パブリックシアター 『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』

 主題の短い、展開の多い、不安なヴァイオリンのソロが長く流れ、アナウンスの後、グラナダTVの「シャーロック・ホームズ」のテーマが聴こえる。あ、あれかー。考証に厳しく、女たちの装身具がリアルで、紅茶ポットまですてきな奴。どんなにチャンネル変えても見たいものがない時、あの番組をやってると、つい見ちゃう奴。

 シャーロック・ホームズの若い不安定な日々を描くという今作『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』には、首を傾げるところが多い。シャーロッキアンにしかわからなかったのか。三谷幸喜、どうしたい?今まで通りの愉快な感じでいきたいの?それとも愛憎を強く打ち出したいの?

 マイクロフト・ホームズ(横田栄司)とシャーロック(柿澤勇人)の兄弟の相克はまだこの函に収まるけど、後半の、裏切られた男の憎悪には、函の底が融けだしそうだよ。

 柿澤勇人はシャーロックを滑舌よく、センス良く演じる。中盤、椅子にしゃがむ事しかできなくなる所、病んだ若者の身体の生理をよくとらえていた。しかし、柿澤のせいでなく、シャーロックに魅力がない。もう少し脚本に遊びがあってもいい。ヴァイオレット(広瀬アリス)はその点いちばん楽しめる役なのに、この人蓮っ葉にやりながら全然誰にも心を開いていない。第一声、あれでいいの?私はマジの方がいいと思うよ。レストレイド(迫田孝也)、登場で空気変えられていない。ここが一番大問題だと思う。ワトソン夫人(八木亜希子)、美しく、声のコントロールも素晴らしく、「ソツがない」。ちゃんと女優になればいいじゃん。このキャスティングは、なんとなく、歌を歌わせる(得意と不得意)ためだったのかなとも思う。

 論理の天才ってコンピューターみたいに一瞬でたくさん考えるんだね。女の勘に一目置くはずだなあって思いました。

日本橋TOHO 『引っ越し大名』

 マンガっぽい演技、について考える。一瞬で表情が全然変わる、間が重視され大仰になるあれ。ポップでシュールな芝居に適ってる。時代劇って、戦前のものからもう「現代劇」なので、「時代劇に適わない」ってことは言わない。ただこの『引っ越し大名』には、マンガっぽい演技と、抑えた静かな演技が二重らせんのようになってた方がよかった。その分岐点のようなところに向井理柳沢吉保がいて、きびきびと集中の高い芝居をしてさっと去る。私が問題にしているのは、殿様(及川光博)が苦労を掛けた家臣山里(小澤征悦)の手を取るシーン、(おっ、藤沢周平かよ!)と思うのに、及川光博の泣き方はそれをマンガにしてしまうのである。演出の捌き方がいまいちなんだと思う。馬を見送る城下の女たちなど、衣装がとってもいいのに、なぜ於蘭(高畑充希)は登場時、貧しい服装ではないのだろうか。高畑充希、とても頑張っている。馬に乗っているときは怖すぎる顔をしているし、(うふっ)っていうキャラを封印して臨んでいる。しかし、それでもまだ、「ファンシーでポケッタブルでハンディ」な芝居しかできてない。つるつるしている。田舎から渡英して保母になった人の託児所便りでも読んでみたら。その本「ファンシー」でも「ハンディー」でもないから読めないかもね。

 引っ越し奉行を命ぜられる引きこもりの片桐春之介(星野源)、書庫から出てしばらく、メイクの目の下の隈がめだって、ほんとうに「星野源」大丈夫かと思うのである。その友人高橋一生の鷹村源右衛門は、細身ながら磊落な腕っ節の強い武士で、きちんと演じられる。トラブルを、荷物の上に飛び乗って喜ぶところ、誰も笑ってなかったが私は大笑いした。シーンの切れ目があんまりきれいでない。そのコマ要るのと何度も思ったのと、本を焼くのが解せない。古物の六角の徳利がいくつもいくつもあって、感心した。

東京芸術劇場 シアターイースト DULL-COLORED POP 福島三部作一挙上演 第一部『1961年:夜に昇る太陽』第二部『1986年:メビウスの輪』第三部『2011年:語られたがる言葉たち』 

 「いささかの不安があれば、いくら会社の方針とは言え、肉親を失った私は会社には従わない。何も東電しか勤め先のないわけではないから東電を辞めてもいい」

 常磐線の中で、福島双葉町の大学生、穂積家の長男孝(内田倭史)と知り合った謎の男(佐伯=阿岐之将一)は、蓋を開ければ東電の社員で、孝の祖父に東電の原発の説明をしながら、こんな啖呵を切る。原爆の投下された広島に育ったという彼は、こうまで言っておきながら、決して周りの人を見ない。ぜったい辞めたりしないんだなー。ここ巧かった。佐伯「先生」と孝は、まるで漱石の広田「先生」と三四郎の悪夢版のようだ。広田先生の「滅びるね」という声が幻のように頭の中に響き、佐伯から目が離せない。原爆に遭った広島の人間を尖兵として働かせることの中に、「滅びるね」が詰まっているのだが、この私自身は原発に「反対してこなかった。」と考える。清志郎のアルバムも、持っているのに。反対しなかった、鈍感だった、怠惰だった自分を思う時、こうしたことはなにも原発誘致のことに限らないよねという気がする。

 原発は出来上がり、一人の一生けんめいな男、原発反対派の穂積忠(次男=岸田研二)は原発賛成、現状追認の立場で選挙に出ることを肯う。彼は町長となってしまい、「原発は安全だ」としか言えなくなっていく。

 2011年に原発メルトダウンを起こし、福島県民は散り散りに避難せざるを得ない。それを映像に撮るテレビ局の、今は報道局長の穂積真(三男=井上裕朗)。人々の亀裂、苦しみを、どう位置付けてゆけばよいか、テレビ局の葛藤と、同時に葛藤のなさ(ショッキングな映像を求める)が共に語られる。

 全体に、新劇っぽい、オーソドックスな手法である。ところどころにつかこうへいっぽさ(1部の美弥〈倉橋愛美〉と孝)や、マンガのような演出(リアクションの芝居や犬〈百花亜希〉の登場、清志郎の使い方)があるものの、ストレートな3部など、つよい既視感に襲われる。リアリティある調子で台詞を言っているのは、井上裕朗、東谷英人など数名で、あとはちょっとオーバー。吉岡(古河耕二)いい役だからがんばれ。

 1部の内田倭史に対しては、はっきりたくさんのダメ出しの跡がうかがわれるのに、3部の美弥(都築香弥子)の歌う台詞はスルーされてんの?宮永美月の春名風花、ほかに焦点が行っているとき、あんまり芝居しちゃダメ。

 一瞬も気持ちの逸れない、立派な作品だった。いい一日、厳しい一日を過ごしたと思った。

京都芸術センター 地点『三人姉妹』京都公演

 「きゃー」、長い長い、新しく張り替えられた瀟洒なローズウッド色の廊下を歩くと、とおーくの床が、思わぬ具合に軋む。ここは「アンティーク」という言葉がぴったりな元小学校だ。ここで今日、地点の芝居を観るのだ。

絶望したように見える白樺が、舞台天井のあちこちにぶらさがっている。静かな林が倒立し、足元に星が明滅する。舞台前面に8枚のアクリル板、薄く粉っぽいペンキのようなもので粗く白く吹き付けられてる。虚実の皮膜のこのアクリル板には、ノブのないドア(ロープの取っ手)と、上手側に4つも桟の付いた裏口(?)がある。

 3拍子の映画のテーマソングが大音量でかかるので、頭の中を大急ぎで繰る。なんだこれ?クラシックなのに通俗的に哀切、クレズマーのように民謡ぽく、サーカスのように寂しく、でも最後のところでぎりぎりに品がある。ショスタコーヴィッチ、The Second Walts。

 上手の奥のドアを開き、ゆっくりと明かりの方へ、四つん這いの人がやがて立って、誰彼なしに抱き合い、格闘する。それは白樺林の出来事であり、『三人姉妹』の出来事であり、私たちの出来事である。雨に濡れた舗装道路が、うっすらと空と街を映すように、世界は二重三重になり、私たちはその中を無意味に落ちて行く。きゃー。

「ああっ」と声を漏らして俳優は顔をおさえる、それは羞恥から絶望へと移り変わり、冒頭の気合の入った格闘と、ショスタコーヴィッチは、魂の深い所で結び合っている。ここ、最高でした。「何の意味があります?」以降、姉妹の格闘は白樺の林の上にかかる雲の縺れのように意味を失い、「からっぽ」であるように見えてくる。

 チェーホフの原作の終り数ページ、台詞の中からすんごい交響詩が立ち上がってくる所、地点ちょっと負けてる。惜しいです。

赤坂ACTシアター いのうえ歌舞伎《亞》alternative『けむりの軍団』

 うっかりしてる間にこんな年になってしまって、ふと頭の中を「明日の月日はないものを」という詞がよぎる。(黒澤も使ってたねー)

 この新感線の『けむりの軍団』を見ていると、それをひしひしと感じるのだった。いまの「い」という言葉と「ま」という言葉を言う間にも飛び去る舞台の一瞬、この一瞬の中にしか「新感線」はない。「失われる=ポップ」ということの贅沢と楽しさと寂しさを思わずにはいられない。じーん。

 倉持裕の新感線、『乱鶯』よりもいい。つまり、一か所に「とどまっていない」。特に女の人にいい牌が行く。ばか殿目良則治(河野まさと)を子に持ち、苦悩する嵐蔵院(高田聖子)、則治への忠義の余り魔性になる千麻の方(中谷さとみ)、大殿のお手付きであったことを秘(かく)して働く長雨(ながめ=宮下今日子)。どの女も黒澤ぽく、深く描かれている。宮下今日子、大急ぎで口の中広く。こんな役なかなかないよ。急な配役だったようだが、楽しんでほしい。肩が縮こまっている。損。真中十兵衛(古田新太)の「あばよ」がすばらしい。でも言えてない台詞もある。それはもう、諦めるべき「とき」なの?

 思い返してみて『隠し砦の三悪人』(2008)くらい腹立った映画はなかったわけだが、あの砦の辺りから、今回の煙(成長)が、狼煙のようにあがっていたのだろう。あれ、子供の映画だったよね。新感線がこの路線(大人)をやることに私はめっちゃ肯定的だ。だって「明日の月日はないものを」。早乙女太一、腰を割って屈んだ姿勢が誰より低くかっこいいが、声割れてた。川原正嗣にキャラ似てたよ。美山輝親(池田成志)、最高の牌、最高の手であがれるのに、なんか洩れてる。そして、h音、変。序盤、間の手を入れる初山国助(吉田メタル)的確、よかった。

DDD青山クロスシアター 『絢爛とか爛漫とか』

 昭和初期、一人住まいの裕福な青年古賀大介(安西慎太郎)の居室で繰り広げられる青春の四季の人間模様。かと思ったらなかなか、そんな甘いもんではなかった。

 四人の青年が友人として登場し、それぞれ文学と相渉る。この文学(芸術)の存在が、とても大きく、底知れない。例えて言うなら、文学は怪物で、対する青年はいのちを賭けて鉈一本で、怪物に手疵を負わせようとする。書けない悩みを持つ古賀。上流階級のモダンボーイ泉(鈴木勝大)。母親の影を背負う耽美派加藤(川原一馬)。さらりと見どころある作品を書く諸岡(加治将樹)。それぞれが芸術と必死で取り組む。このくだりが重く、ほんもので、目が離せない。青年達も一人一人が「必殺の一撃」の芝居をする。古賀が小説家を止めると言い出してからの加藤の切ない表情、涙を浮かべて詰問する古賀、その詰問を受けて立つ諸岡、そして目の前のやり取りを動揺しながら受け取る泉。後半よかった。しかし、この芝居は、序盤その「必殺の鉈」で料理をデリケートに作らなければならない。鉈で千切りや細切りをこなし、軽く、テンポ良く、身体がリズミカルに動き、声は自在に調節できないとだめ。言ったら冷やし中華作るのに、鉈を頭の上から振り下ろしてちゃダメでしょう。怒鳴ってばっかりだったね。

 安西慎太郎、「書けない」っていうのは海でブイと離ればなれになってく感じだよ。『キャストアウェイ』でトム・ハンクスがウィルソンと離れるみたいな。しかもおぼれているのです。実感なかった。

 加治将樹、友達とじゃれる距離がちょっと近い。後半意外性がない。あの部屋に、心入れに花を活けているのは女中のおきぬだろうか。(いい気なものだね)っていう、終わりのような気がしたけれど。