ヒューマントラストシネマ渋谷 『スパイの妻』

 常套句(クリシェ)でない。この作品が海外で評価されたのは、まずそこだろうと思う。この題材(日本軍の人体実験)は、日本では空気の薄い、誰も行きたがらない暗い場所にある。だからそこで起きる出来事を、まだ誰も見たことがないのだ。状況も主人公も、先が読めない。わたしなんか観終わって外へ出ても、喉の動脈が拍動してわなわなしていたよ。

 1940年、裕福な貿易商福原優作(高橋一生)は、商売のために出掛けた満州で、無残な光景、国を挙げての秘密を目撃する。それは許せないものである。その妻聡子(蒼井優)は、優作が実現しようとする正義を共にし、そのことによって愛を貫こうとする。

 憲兵隊の隊長津森泰治(東出昌大)は聡子の幼馴染で、いまだに聡子を愛している。登場するなり彼は優作に身の処し方を忠告する。泰治は優作に見えない所で、強く眉を寄せて優作を見つめる。体の中にある、分裂した本音――聡子への愛ゆえの憎しみが外に現れる。そして聡子も、夫の陰に女の姿がちらつくと、顔の下から泰治と同じような瞋りの表情が浮かび上がる。愛が信じられない苦悩だ。優作は正義を語るけれど、そこにはやはり見てしまった者の苦しみがある。三人はひとつの阿修羅像のようである。たたかう神の悲しげな顔。この顔は、あの薄い空気を吸う誰も行きたがらない場所から生まれてくる。ぎりぎりの人間の顔だ。にしては、すこしみんな軽いかも。東出昌大、扱いにくい自分の声を、かかとを土にめり込ませながら手綱を取っている。聡子と話すときは無垢に、憲兵隊長としては暗く。いい。でもまだまだこれからだ。「十四」は「じゅうよん」より「じゅうし」がよくない?蒼井優、すてきだが文雄(坂東龍汰)の見捨て方が凄すぎてむごい。もう少し工夫があってもよかった。高橋一生の最後のシーンの撮り方がよい。日本映画と思えない。