彩の国さいたま芸術劇場小ホール さいたまネクスト・シアター最終公演 『雨花のけもの』

 ――あー、バット折れてる。

 と、作の細川洋平にも、演出の岩松了にも、ネクストの俳優たちにも、言いたい感じ。不能と去勢の登場する世界、それを権力が規定する世界、岩松は「善悪詳らかならざる世界」を提示したかったのか。その結果人物の欲望がぼやけてしまいぴりっとしない。細川の脚本の、世界の枠はすごくいい。富裕層が若い者を「ペット」として飼う。いいアイデアだ。しかし台詞が凡庸。やり取りに「ペットを飼う」ディテールや「飼う人」「飼われる人」またはそのつもりの人ならではの実感が薄く、退屈する。「ペット」には「アバター」の側面や、レシピ(台本)の「プレイヤー」の部分が反転しながら見えた方がよかった。また、蜷川を思い出させる塵紙を背負ったふたりの「ペット」のやり取りは、「批評」「挑戦」というよりは「失礼」どまりであった。ネクストシアターが肚括ってこのシーンやってるんだから、もっとやりようあるだろ。芝居は反転に次ぐ反転を重ねて「一人の内面」に収れんしていく。それが結構意外で、なんか牽強付会感。心当たりの人「ペット以上のペットっぽさ」に腐心してほしい。俳優たちは「ちゃんとしている」が、それだけじゃダメ。脚本を助ける。周本絵梨香、男に捨てられてきた「過去」が見えない、鈴木彰紀もっと「欲する男」になれ、竪山隼太この医者何しに出てきたの、手打隆盛芝居に楔を打て、松田慎也無難すぎる、茂手木桜子、痩せすぎているよ、中西晶、芝居予想つく、續木淳平もだ、阿部輝もっとキャラ立てる、内田健司殺人に至る心がわからない、佐藤蛍体の癖(左肩上る)気を付ける、鈴木真之介ユング(中西)を飼う病的な繊細さが欲しい。アクリル製の嵌め殺しの窓が、生きているように震える。あれだったら、「目のようだ」っていえる。そこに大きく「飼われるな」とあるみたいで。