『ほぼ日の學校』

 「サブスクリプション意味がわかんねえ~」(桑田佳祐)と、いう世代であるために、サインインがめっちゃ大変。一か月無料。入るときに「自分に名前をつけろ」といわれてすんごい恥ずかしかった。自分で自分に名前をつける。なにさ。はずかしい。慣れない。ぶつぶつ言いながら2日がかりでやっと見られるようになった。

 最初は鍼灸師・臨床家の若林理砂の講義から。いま、自分の中で人生何度目かのお灸ブームなのだ。背中さむ!ココロよわ!ってなるたびにがんがんお灸している。お灸用に買った灰皿まである。若林先生によると、素人のツボは的確に当たらないことが多い、精度が低いんだって。えー。とちょっとがっかりだが、てきとーで大丈夫、大体でいいといわれると気は楽。先生はペットボトルを使う。一人で気楽にできるけど、あっちもこっちも欲張っちゃだめらしい。自分のお灸を反省するのだった。

 この講座は「実学」って感じで、それが残念っちゃ残念だ。何かを「教わり」、「実践し」、「役に立つ」。それだったらツボを、いっそコロナに特化してもよかった。(「風邪に効くツボ」って、すごい遠回しじゃない?)

 昔テレビの対談など見ると、必ず「むずかしいこと」「わからないこと」「自分の理解から零れちゃってること」というのが入ってて、それがとても大切だったような気がする。この講義ものすごく役に立ったけど、「零れちゃってること」がすくない。まあ、あんまり深く語られたら視聴しづらいと思うけど、「すらっとはわからないこと」は、もすこしあったほうがいい。

 ヘアメイクアップアーティスト草場妙子の『では、眉毛だけメイクしてみましょう。』は、勉強になった。メイクの中に今の時代が入ってる。眉毛をいじりすぎないというのは、「地声の自分」を見つけるための第一歩だと思う。電話取るお母さんの作り声から、ずいぶん遠くまで来ました。メイクの済んだ女の人たちも、なにかこう、うっすら眉宇の辺りから息をしているようなのだった。後半の草場先生の、「その人らしさを損なわず」という声も心から出ていて、大変よかった。…こういうの、「いいコンテンツ」とかいうの?中身はいいよ、でもね、包装が陳腐。ナレーションは「トトロにおける糸井重里」的な地声のおんなのひと(「青年団」ぽい人)がやるべきだし、ぴろりろりんという音楽は、泣きたいほど古臭い。作品(コンテンツなの?)の精神を無視してる。作品を創る気構えが、はっきり言ってありませんね。コンテンツじゃないよ。作品だよ。

 今日さいごに見たのは笑福亭鶴瓶の「作品」。質問を受けながらこれまでや今を面白く語る。テキスト派の私はどうしても下の字幕を読んでしまい、最初困った。これ、耳の聞こえにくいひとのためについているんだね、と、そこまでは私もかろうじて経験でわかる。でもそこから先のリアリティが自分に欠如している。その先は滝。世界の果て。地球が平ら。でも鶴瓶はそれを実感で丸い球にして、世界の果てを一周廻って自分の足元につなげる。だからケニア人の運転手や、障がい者のことまで語れるのだ。この圧倒的な「みんな知り合い」の感じが触れにくいものを無効にし、かわいくも、おもしろくもする。ここ、熟練の芸でした。自分を開くことで笑いの幅が広がり、「自開症」が鶴瓶の笑いを助けているんだなと思った。「世界の果ててここですやん」というアナーキーな笑いを感じる。けど、20代の初め落語の稽古をつけてもらえなかった絶望とか、なかったの?あったでしょ。絶望が手薄。面白い話にするために犠牲になってる。そこも少し語ると、「作品」、もっとよくなるのに。