シアタートラム ケムリ研究室no.2 『砂の女』

 幕開け直前、オペラ『道化師』の「衣裳をつけろ」がモノラルで流れる。独りよがりにも聴こえる悲壮なテノールだ。あっそうだ、公房の『砂の女』ってモノラルで、単眼だよねってなった。冒頭の「地の文」は男(仲村トオル)の声の高さにそろえてあり、家を出て汽車に乗りバスに乗り、砂地を辿ってハンミョウを追いかける男の足取りは単純な一本線で、これから起きる出来事は、例えばアリジゴクをじーっと眺めている男の脳内での物語(縮んでゆく男、巨大化するアリジゴク、擬人化される虫たち)であったとしても一向に構わない。そして何よりも砂の女には、体躯があって顔がない。砂まみれの裸の女、その顔は隠されたままだ。「男」の「単眼」で視た時、世界はこのように見える。これ1962年。

下って2021年、『砂の女』をKERAは複眼化しようとする、モノラルでなくステレオに、男の俺様モノローグを男女のデュエットに変える。音楽もプロジェクション・マッピングも洗練され、軽々と宙を舞う重い得物(刀)のようなのだった。

 えーと、谷崎の『細雪』って、きっと「B足らんの注射」の奥に頽廃を持ってるよね、映画では石坂浩二と「美容院の先生」(横山通乃)が「できて」いる。ほんとは谷崎もこんな風に書きたかったのかなと思ったが、この『砂の女』では、複眼化しようとして一歩踏み出した足が、「メロドラマ」になりかけだ。安部公房が「えー」といいそう、「後退している」っていいそう。私はKERA版のこの芝居が好きだが、これ決して冒険ではない。顔のない女(剥ぎとられた愛)に顔を与えるウェルメイドプレイだ。現代の『砂の女』(緒川たまき)と、メロドラマの間に明確な境目が欲しかった。とはいえ、コロナ下にこれだけ優れた芝居ができたこと、本当に素晴らしい。

 オクイシュージ、おそろしいの「そ」が「tho」になってるよ。