新国立劇場 小劇場 『M.バタフライ』

 愛って幻影かもだなー。と思って劇場を後にする。芝居だって幻影だ。二人の人間をすれ違わせたまま置き去りにする。陽炎のように幻影がいくつもいくつも立ちあがり、『M.バタフライ』を形作ってゆく。1983年にフランスで発覚したスパイ事件に想を得て、「征服する西洋=男」と「征服される東洋=女」という、ピンカートンと蝶々さんの図式が、力業で逆転する。

 中国駐在のフランス人外交官ルネ・ガリマール(内野聖陽)は、京劇の俳優ソン(岡本圭人)に強く魅かれ、北京郊外に囲い、「バタフライ」と呼んで愛しむ。だがソンは中国のスパイであった。「バタフライ、」最後にその言葉は呟かれるが、バタフライはどこにもいない。バタフライとは、ルネの中に棲む女の幻影なのだから。幻燈がふっと消えるように、全てが闇に消えてゆく。

 今まで見た内野聖陽の芝居の中で一番おもしろい。映画の『M.バタフライ(1993)』で、J・アイアンズが化粧するのを(んー。…)と思ったけど、舞台ではすんなり受け取れる。では問題はどこか。まずね、芝居が古いので女の人のステレオタイプをやめようとしているよね。チン同志の占部房子は可愛く、顔に似合わずひどい。この人は、江青女史のようなステレオタイプであるべきだ。魅力を諦めている哀しさが出るなら、それが最も今日的。内野聖陽はかならず役を作ろうとする。役を作りすぎ、おじいさんぽくし過ぎ、自分から逃れすぎだ。役を作ってよかったのは坂本龍馬くらいじゃないかなあ。「自分」で役を受け止めてほしい。岡本圭人、外形的には完璧だと思ってるよね。京劇の剣舞の「空虚さ」、女の「中身のなさ」が怖いくらいだ。外側の受け答えは間合いや表情がよくできているけど、中身はからっぽだった。もっとお腹の底から芝居しないとだめだよ。腑に落ちてない。