東京芸術劇場プレイハウス 東京芸術祭2022 芸劇オータムセレクション『スカーレット・プリンセス The Scarlet Princess』

 これほど自分の国と西洋が、遠いと思ったことはない。そしてその自分の国の古典芸能の価値観を、なんとなく面白く享受しているだけで、ぜーんぜん深く考えていなかったことも、浮き彫りになったよ…。

 子供は、みずからの(おひめさまことばでもある!)一部ではありません。これが他者からの(プルカレーテの)見解。そうだよね。この芝居の、そこんとこ考えてなかったなあ。南無阿弥陀仏っていうしさあ。善悪で測れない、淪落の燃えるような輝き(スカーレット)を観るために、日本の人はこの芝居に集まる。すくなくとも私はそうだ。権助も善悪でいえば悪だけど、その悪に魅力がないとね。この芝居、ずーっと善悪で割り切れちゃう。でも、南北の、「うわ、わけがわからん」ってところもはっきりある。ヒロイン桜姫(ユスティニアン・トゥルク)がロングヘアーの鬘を取られ(表象を失い)どこの、誰であるかや、服も失って、男なのか女なのかもわからなくなるとこである。ここ、すばらしい。ただ、赤毛の鬘をかぶるシーンは、彼が「娼婦」を演じるからぐっとつまらなくなる。ステレオタイプやもん。娼婦も超えないとー。「姫」で舌出してー。

 芝居自体は、宵闇の楽屋の鏡に映し出される白塗りの顔の後ろの、秘密の通路をカサカサと紙の服を鳴らしながら通り過ぎる東洋の幽霊たちである。釣鐘型のピンクの花の散らされた侍女たちの服、何層もの白いフリルの中からそっと差し出される開かれたことのない姫の、華奢な右手だけが赤く、グレーのスーツの男たちは皆女の俳優が演じる。オフェリア・ポピは清玄/釣鐘権助をうまく演じ分ける。「オフェリアは、」と自分の名前出した時とってもよかった、混乱した。釣鐘権助に、百人の女がいたら百人とも惚れるようなクールさが欲しい。