新宿シアタートップス TAAC 『人生が、はじまらない』

 作者が、井戸の中のひどい話に近寄らぬよう、井戸屋形をかけて遠巻きにしてるのに、その遠巻きにする残酷さが、さらに芝居を地獄の様に残酷にしている、ってかんじかな。作者は登場人物に決して近寄らない。ネグレクトした母親にも置き去りだった長男にも次男にも触らない。不得要領な台詞をたくさん与え、暗い顔をさせ、事の次第が自分に解るよう、「願っている」のだ。何のためにさ?「おもしろい」「おもしろくない」私は芝居をジャッジする、その俎上に、この芝居、のせちゃっていいの?例えば日航機墜落事件を扱った野田秀樹の『フェイクスピア』では、作家は全力で機長の手に「触れに行く」のであり、絶望を共にし、操縦桿を上げる。そこんとこがあるから、こちらの心の中に多少感じる(えー?)という気持ちが乗り越えられ、鎮魂を祈れるんじゃん。他方、この芝居はもともとの事件を掘り起こしたに過ぎないよ、ものすごく失礼だし、出てくる誰の心もわからない、作家がまだ作家じゃないから。悪いことは言わん、登場人物の手を握れ、そして離すな。

 長男(清水優)、一生懸命やっており、芝居に好感を持った。少年時代、「妹(難波なう)を打たない」設定になっているところが、この芝居全体のウソになっているが、それを勘案しても、ちゃんとした芝居だ。次男(安西慎太郎)も精いっぱいやるが、告白後の雷がダサい、ダサすぎる。芝居の邪魔だ。七味まゆ味もせっかく二役なのに、二役が無駄だ。長男の妻として言うことが、よく理解できない。ジャーナリスト(猪俣三四郎)に一番心中を語るセリフが割り振られていて、そこがまたわからない。

 ほんとにこの作劇がなかなか理解できない、これが「与党的な態度なんです」と言われたらそれきりだけどさ。