浅草寺境内 平成中村座 十月大歌舞伎 『第二部 「綾の鼓」「唐茄子屋 不思議国之若旦那」』

 『綾の鼓』。三人三様の、かなわぬ恋を描いた芝居だね。美しい華姫をいちずに慕う三郎次(中村虎之助)、退屈まぎれに庭掃きの三郎次を呼び出し、綾の鼓を与え、鳴れば思いをかなえるという華姫(中村鶴松)、亡くなった子供と同じ年齢の三郎次に鼓を教えるうち、ちがうこころが芽生える元白拍子の秋篠(中村扇雀)。華姫は、三年後、成長した三郎次の去る後姿に、「三郎次」とひとこと呼ぶのである。

 三人とも、巡り合わせが悪いの。不幸。悲運。無残。そしてこの、三つの役が三つとも、どれもすっごく、しどころのある、いい役なのだった。まず子供と夫に先立たれ、機織りをして世を過ごす秋篠の、身の上の嘆き、美しかった自分がなすすべもなく年を取ってゆくという悲しみがきちっとえがかれ、グラスの氷の上に熱湯を注ぐような、三郎次の手をあたためるときの複雑なこころが「みえる」。ここ、秋篠のこころ、痛いんでしょ。もっと痛烈に痛い方がいいと思う。心が痛くて弱っていくんだもん。

 華姫、「ディズニーのお姫様の感じ」って言ってたけど、3Dだった。退屈、っていうか身のつまらなさが迫真。それは鶴松が、扇の重さ(扇の表裏をじっと見る)を手首に感じさせ、次に身体を脱力して全体に重さを出し、「つまらない気持ち」を深くこちらに伝えてくるからだ。最後の一言、も少し考えてもいいんじゃないかなあ。

 三郎次がこどもみたい、お人形さんみたいと思ったら、まるで足つけ根の所を20センチ畳んで縮めていたように、三年後がぱりっとしていたのだった。おっ、タッチをつけていたのかー。やるなー。でもさ、畳んだとこが伸ばしたらそこだけなんか令和なの。身体の使いかたかな。バランスが令和の青年だからかもしれないねー。

 

 『唐茄子屋 不思議国之若旦那』 台東区の5時のチャイムが鳴っている。それをやり過ごすようにして二つ目の演目が始まる。勘当された若旦那のこころの旅さ。若旦那徳三郎(中村勘九郎)は店の金に手を付けて勘当され、身投げしようとしたところを実のおじ、達磨町の八百八(荒川良々)に助けられ、ぼてふりの唐茄子売りを命じられる。

 宮藤官九郎が楽しそう。身体がすごく利いて、切れて、踊れて、プロ意識も高い歌舞伎の俳優を使って、「本日ただいま」の日本の空気を掴み、おもちゃ箱をひっくり返したような芝居を、精緻に組み上げる。あ、レゴ踏んだね!というシーンもない。下ネタだって江戸時代には絶対あったよね。なかったのはゾンビくらい、ってわかる気がする。「歌舞伎俳優が」、「現代風の」、あんなことをする、こんなことをするっていう、異化効果みたいなの、あんまりなくてよかった。いきていることはかっこわるいという芝居の芯は、観客に正しくレゴを踏ませる、いたっとなりました。若旦那が自力で唐茄子売ったわけじゃないのに、観ているこっちも最後には、若旦那と同じ、百文が尊い気持ち。中村勘九郎の若旦那、キュートにへなへなしながらも出ずっぱりである。中村獅童、声掠れてない?掠れたらだめだ、啖呵切る人たちみんな頑張ってほしい。大家さん(源六=坂東彌十郎)の息子(源助=坂東新悟)が部屋にいる時、居かたがむずかしそう。もっといい考え(演出)、ないの?