Bunkamuraシアターコクーン 渋谷・コクーン歌舞伎第十八弾『天日坊』

 「振り出し」は、端っこから。細かく割られたコマに土地の絵が入る道中双六が、さっと始まる。「祝」と書かれた小さな舞台と、「まねき」の上がったやや大きめの舞台がまず並ぶのは、「双六ですよ」と教えてくれてるのかも。コクーンの舞台の中に舞台がある。そしてこの、観客から見る二重の舞台は、「俺はだれか」と模索する、一人の男の見る夢なのだ。みなしごの若者法策(中村勘九郎)は、ある時は源頼朝のおとし胤であり、また腕に「天」の字の痣を持つ木曽義仲の嫡子だ。「最大」では六十四州の覇者であり、「最小」ではどこの誰とも知れない。「何者でもない」は「何者でもあり得る」。若い者につきものの、悩みと自負が透ける。法策を扶ける盗賊の人丸のお六(中村七之助)と地雷太郎(中村獅童)も、最初はよく出る歌舞伎の悪くてかっこいい人かと思うけど、高窓太夫中村鶴松、好演)を手に掛けようとするあたりから、様子が変わる。なぜおれたちこんなことしてんだろという挫折が、ありありと覗くのだ。手足が重く、暗くなる。ここ、すごくよかった。最後は素舞台だ。ふと振り向くみなしごの男は、夢から覚めたのか、それとも振り出しに戻ったのか。

 最初の発端、大事なシーンだけど、いきなり置いて行かれちゃったよ。現代語操るのがむずかしそう。このシーン頑張ってほしい。

 勘九郎とてもいいけれど、どこが自分の芝居の一番のヤマ?「なんだてめえは?」大事じゃない?お六あそこで泣いちゃってるけど、泣かないで。勘九郎にかずけて。張りつめた風船が、二か所で破れるみたいに見えるからさー。

 立ち回りが勘九郎七之助獅童と、三人三様で早くて美しく、トランペットがかっこいい。法策の野心が目覚めるところの相互作用が素晴らしかった。身体に棲みつく化け物の咆哮のようでした。