酒田市美術館 酒田市美術館特別展 『熊谷守一 いのちを描く』

「景色がありましょう。景色の中に生きもの、例へば牛でも何でも描いてあるとするのです。それが絵では何時でもそこに居るでせう。実際のものは、自然はそこにゐないでせう。その事の描けてゐる絵と描けてゐない絵とあると思ひます。あなたは此処にゐるが、何時迄も此処にゐねぃ。それを描けるか。 (「私の生ひ立ちと絵の話」『心』1955、平凡社

 いきなりパネルの言葉が難しいね。「死んでいる絵と生きている絵」「動き出そうとする様子をとらえている絵とそうでない絵」「『無常』のある絵とない絵」とか、いろいろぐるぐる考えちゃって、くらくらする。この難しいことが四六時中思念の中にあった熊谷守一ってすごくない?人の絵も自分の絵もそうやって見てたんだろうね。

 土門拳の撮った自宅の熊谷は、前が着物の打ち合わせになった白いシャツ(たぶん、家族が刺し子を施している)を着て、蓙(ござ)の上にあおむけで寝転んでいる。腰に下げた袋は破れ、蓙の、足裏と擦れるあたりが擦り切れている。木々の隙間から空を見上げる熊谷は、ここじゃあ「とても変わった人」みたいに写っているけど、そしてそれはキャッチーでわかりやすいけど(仙人のようだし…)、そこだけ切り取ると訳が分からんと、やっとわかった今日だった。

 展示の一番目に来てる『横向裸婦』(1904)が、なにを、どうしたかった絵なのか考えちゃって考えちゃって長く立ち止まる。じーっとしてる自分。すらっと「裸婦像の変化」を概観すればいいの?なんでこの1904年の絵は、こんなに真っ暗で、裸婦が殆ど見えんのか。熊谷は美校で首席だった(青木繁も同級生だよ…)。卒業制作の自画像はすごくいい。今日の展示にはないけど(必要だよね…)、羽織を着た着物姿のハンサムな青年が、まっすぐにこちらに視線を向けていて、その眼付から、この人がこだわりの多い癖の強い性格だと一目で見て取れる。

 あれかな、暗がりで、わずかな明かりでしか見えない表現に挑戦したのかなあ。女の体というものは、暗いところでわずかにみるもので、それが美しいと思ったのかもしれない。大まかにいうと、筆は上下に垂直に動いている。目線は自然に縦に動く。塗ってある色は主に茶。ニュアンスがつけてあり、画面の右手は白くなり、明るさを示している。裸婦はあんまり見えないし、素敵でもない。ところが、50年後に様式的に描かれた『箱の上の裸女』(1960)はすごくいい。バックの絵の具の塗り跡すら口を利く。筆の始まり、終わりに、筆幅に絵の具が「一」の字みたいに残されていて、その高低(たかひく)までが調子を持ってて絵の一部だ。裸女の腰かけるオレンジ色の箱も、裸女も同じ調子、すべてが明らかで、あっけらかんとしている。油彩の美しい、きれいに並んだ筆の跡。同じ人の絵かなぁ。と思う。他に、花瓶の花の絵(『ばら』1959)は、黒い単純な輪郭線の中に白が盛り上がるように塗られ、ばらの薄紅は縦に几帳面に塗りつぶされている。ばらの葉はちょいちょいと愛情ある感じでうちそと向きにみどりいろだ。どれも大変気持ちいい。ストロークっていうんですか。様式的だけど、柔軟だ。これ、モリカズ様式って世間の人は呼んだらしい。

 『横向裸婦』から『箱の上の裸女』まで、熊谷が苦闘し捨て去ったのは、「自意識」だったんじゃないのかなー。暗がりの裸婦を描く、見えない真っ暗な画面に女の輪郭を描き、見えない真っ暗な——塗りこめた――エロスを描き出そうとする野心、俊英な画家のああも描こうこうも描こうという作画上の計算。絵の上にはいつも自分の目玉だけが残る。これ、最初の1955年の発言にもつながっているし、息子黄がなくなった時、その顔をスケッチしようとして(絵を描いている)(絵になるように描こうとしている)自分がつらくなったということに合致する。結婚以来、なかなか絵が描けなかったのも、この自意識が問題だったんじゃないの。

 さて、単純な気持ちで絵を描こうと思った(擦り切れるまで着る好きなシャツ、子供の頃のように寝転ぶ地面の上)熊谷のそれからは自在である。でっかい書の「人」という字、「為」という字、一画一画がめっちゃ軽い筋斗雲になって、空を飛んでいる(『我為人人人人為我』1974)。

 

この展覧会さ、なぞかけばっかで、答えの手がかり少なくない?最初の問いが難しすぎない?