紀伊國屋ホール 『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』

10000円で2本の芝居を連続上演・幕間15分?と、戸惑いがちだった客席も、後半の別役実作『消えなさいローラ』で、ウィングフィールド家の稼ぎ手の息子トム(尾上松也)のセクシュアリティが、レースのカーテンをさっと掲げるように明らかになり、ローソクの灯を消すものの貌が露わになって、「おおっ」と声なきどよめきが起きたような気がしたのさー。これからこの2本、一挙上演マストにしたら?前半『ガラスの動物園』がややだるい。後半『消えなさいローラ』は、「待つ者」「待たれる者」がゆっくりとグラデーションで変わり、一人の女の中に老女=母と、女=娘が互い違いに出現し、同居する。『ガラスの動物園』は幻燈のように『消えなさいローラ』を呼び出す。待つことは、待つ者には、「測れない」。すべての物が、ほんの少しずつ死のうとしている。なくなろうとしている。けれど、それをはっきり知るのは、待たれる者だけだ。そこへ砂が積もる。砂時計みたいに。

 一本目『ガラスの動物園』さ、ジム(和田琢磨)が飲んべえなのだということがあっという間、あっさりと理解でき、「ああー」と、ものすごく哀しくなる。酒飲みだったんだね。だから出世しない。しかもローラとのあの会話、酒の勢いだった。ばかあ。ダンデライアンの瓶からじかのみするジム(そして後半の「男」=尾上松也)に男たちの性的なものがぼんやり暗示される。にしちゃ、3人(ジム、ローラ〈吉岡里帆〉、トム)のダンスシーンはいまいちシャープじゃない。何かもう一歩、かっこいい、削いだような振付が必要だねー。ウィングフィールド家が一家として成り立って行けるかどうかは、ただひとつ、「トムの意思」にかかっている。このトムはまだずいぶんと子供だ。家族を捨てようという意思は、トムが「子供だから」なの?

 若い時、「劇団三〇〇はせりふにきびしい」と聞いたよ、「アドリブはだめで台詞もきちんという」ってね、でも、今日の渡辺えりの台詞は、身体に入ってる順、思い出している順だった。『消えなさいローラ』の冒頭が、突出してぎらぎらしてんのに、母アマンダと別役の中盤以降がめっちゃまずい。「演出されてない」。『ガラスの動物園』の芝居の質を落としている。月を肩越しに観るときの娘へのめちゃくちゃな愛(函が急に開いたみたいな)が足らない。終盤の歌は初演よりぜーんぜんいいけど、ハモるのが怖そうな尾上松也であった。『ガラスの動物園』の最終景、トランクしまって立つところ、しぐさが歌舞伎っぽくて我に帰っちゃったよ。ローラは手が目立って表情がよくわからん、煩雑。ジムとの会話は人生の全てなんだよ、賭けろ。