東京芸術劇場シアターウェスト 劇壇ガルバ 第5回公演 『砂の国の遠い声』

んー。どうしたかったこれ?装置(美術:松岡泉)はきちんと仕事をして、秘密を解き明かしているのに(上へあがってゆく階段と、それと対称な「下」へとさかさまになっている階段)、肝心の芝居は?今まで何も起こらず、今も変わりなく、これからも何も起きないであろう砂漠を、監視する任務についている男たち。男たちは淡々と会話しながら、淡々と日々を過ごす。そして、幾人かは行方不明になり、帰ってこない。

 細かい角度のずれが数限りなくついている会話の、その鈍角を精密に感知すること抜きに、いきなり紙風船みたいにぜーんぶまとめてじょうずに「球」にするの無理だよ。ゆるい。一考を要す。こうもり傘が柄を上にしておかれるのは、世界がずれの果てにさかさまになることをあらわしているんじゃないの?台詞のやりとりの詰めが甘い。やりとりが、「ずれてる」「可笑しい」「不条理」と、観客にわかってもらえないまま芝居はとんとん進む。すべてを精査せずに、全部の芝居をそろえて、段差をなくす。するとどういうことが起きるか。演出の笠木泉が尊敬しているであろう才人宮沢章夫の戯曲が、別役実の――不条理劇の――やすい「転用」に見えてくる。それは本意じゃなかろうがー。

 94年、いつまでも続くと思われた、永い、だるい日々、それを2023年に、しかも宮沢の死後再演するなら、企みと精密さがもっと必要だ。

 クイズ好きの男7(ノムラと呼ばれている男=大石継太)が頬を引きつらせているところが非常に可笑しく面白く、こういうシーンがもっとあったらいいのになー。タンクに肩まで浸かられたことがわかったときとか、もっと複雑な反応が欲しいけど、芝居は「ローラースケートを履いたグレイハウンド犬のように」(ⓒロディ・ドイル)さーっと通り過ぎてしまう。怖そう。怖がらない。

 コバヤシと呼ばれている男(男5=矢野昌幸)が、両性具有的で大変いい。幕切れ、こないだ観た、別役実の『消えなさいローラ』を思い出したよ。