博多座 『六月博多座大歌舞伎』 (2018)

 夜の部の最初は『俊寛』。静かに静かに緑と柿色と黒の定式幕が開くと、そこは一面水色の(浅黄)幕。上手の隅に房を垂らした見台が見える。竹本なんだなー。と、目で確認。隣に三味線。どどどんと太鼓の音、波にも風にも聴こえる。義太夫が鬼界が島であると語るうちに、すうっと浅黄幕が落ちる。この水色は遠く離れた孤島の海や空を表わしているのかなあ。空撮で寄っていってる感じかしら。と考えていると、ややあって下手の岩山の向こうから、悄然と俊寛(片岡仁左衛門)が登場する。景色なんか見たくないのか伏し目で、背の高い枯れ木の杖を突いてよろよろしている。足元に海藻が落ちているのを、杖に強く体重をかけながら拾い、「浦のとまや」よりもっと粗末な小屋に入る。草履の砂を丹念に落とす。全ての動作がなんとなく上品で、「都人」の感じ、挙措がぜんぜん景色や身なりに合わず、かわいそうにみえる。

 丹波少将成経(中村鴈治郎)と平判官康頼(市川猿弥)が訪ねてきて、砂の上にちんまり座るところも、三人とも行儀がいいのが哀れ。一味のひとり、陰謀を企てたかどでとらえられた誰だったかが清盛に「心得違いすんなよ」といわれて「それはおまえだろ」と言い返し殺されてしまった話を思い出し、(この行儀のよさは、反省?)などと考える。成経は千鳥(片岡孝太郎)という海女と恋に落ち、妻にすることを俊寛に話す。成経が千鳥を呼ぶと、俊寛が小手をかざして千鳥の方を見る。南の島の白い砂の照り返しやら何も起こらない島での俊寛の、珍しいものをみる心の弾みやらがうかがえる。なかなか来ないんだよね。髪に紅い飾り紐をした千鳥は、黄緑の着物にふりが桃色。きょろきょろしている。盃することになって、アワビ貝の盃を受け取った千鳥は物問いたげにやさしい少将をみる。かわいい。盃を受け取る俊寛もとても好々爺。

 そこへ、鬼界が島を指して大きな船がやって来る。上品にしていた流人の人々も、わっと灰神楽が立ったように舞いあがる。上手から本当に船が来た。岩にもやって渡り板をだし、水夫家来が控える中、張り棒で袖を四角く突っ張らしたお侍が下りてくる。瀬尾太郎兼康(坂東彌十郎)。木目込み人形のようだ。すんごい股立ちとってるの。袴をたくし上げてて、こんなに短くするのは「高股立ち」っていうらしい。西洋の王様みたいだ。金の着物中は黄色、斜めに黒に四角いつっぱり袖(?)だ。岩の蔭から千鳥がそっと覗いていて、それがほんとに千鳥のよう。

 船は赦免状を持ってきたのだが、俊寛の名はない。のってない!信じられない気持ち、俊寛は座ったまま赦免状を穴が開くほど見つめ、そのままくるりと一周する。波立つ心、身をもみ、地面をたたいて何度も赦免状をみる。すすり上げ、悔しさに袖を咥える。もう赦免状を破りそう。すごい逆上の描写。

 と、もう一人(いちにんと読みたいところ)の使い丹左衛門尉基康(中村梅玉)が現れ、俊寛も備前まで帰ることを許されたと告げる。逆上から一転、腰が抜ける俊寛。波に転がされるように気持ちを揺り動かされる。

 瀬尾は千鳥の乗船を許さない。少将は千鳥とともに残るというが、これも許されない。瀬尾はまた、俊寛の妻東屋をころしたというのだった。

 可憐な千鳥は岩に頭をぶつけて死のうとするのだが、これを俊寛は止め、瀬尾に自分の替りに千鳥を乗せてくれと頼む。しかし、聞き入れられない。さあここだ。ばらばらにちぎれた俊寛の心が、ぎゅうっと中心に寄る。仁左衛門が今まで演じてきたいい人、悪い人のなかのエッセンスみたいな決心が顔に浮かぶ。時の権力者を敵に回してたたかおうとした男、清盛に心得違いだといった仲間を持つ男なんだなとここで思う。小さく指を動かし、千鳥をちょっとわきへよけさせて、俊寛は瀬尾を斬る。

 ねー。普通の芝居だったらここで終わりだけど、俊寛には三人を船に乗せ、見送りする山場がまだあるのだ。

 両手を上げて「おーい」と船に呼びかける。まだ船の人の眼鼻が見え(たぶん)、俊寛はにっこりしている。「おーい」船が遠くなり、少し悲しい気持ち。波の音、風の音にまぎれて船の人々の気配が聞こえなくなる。ぼうぜん、後悔、気落ち、パニックで少し自分を見失う。しぶく波の中に駆け入り、着物が水にぬれ(と見える)花道のすっぽんで、胸まで海に入った格好になったかと思うと、また舞台に戻り、老人には登り難い岩に取りついて登る。この岩、崖に近いんだな。松に縋りながらまた船に声をかけるが、船は見えなくなってゆく。力を込めて身を乗り出していた松の枝は折れ、船は消え、俊寛は放心する。彼は自分で自分を葬ってしまったのだ。

 

 

 

 

『口上』

ラ・マンチャの男』で、セルバンテスドンキホーテだった松本幸四郎、『阿修羅城の瞳』で初めて観た市川染五郎、(それからSWITCHでぬいぐるみ劇場を見せてくれた松本金太郎)この人たちがそれぞれ襲名して、白鷗、幸四郎染五郎と名が変わる。前の名前の印象が強いせいで、観に来ている私はなかなか慣れないけれど、名前の変わった当人が、さらりと衣を一枚脱ぎ捨てたみたいにあっさり淡々としているので、それでなんだか納得し、受け入れやすくなっていく。そういう物なのかも、「襲名興行」。

 

 

 

『魚屋宗五郎』

 世話物。町人の生活の写実ね、と思うけど、具体的にはどうなんだろうと思っていた。幕が開くと、町家の座敷、玄関も見えるがとても平面的。宗五郎女房おはま(中村魁春)や小奴の三吉(中村亀鶴)が、背景から浮いて見え、悲しそうなのもよく分かる。そのための平面?主人魚屋の宗五郎の妹お蔦が、不義の疑いをかけられて、勤めていた磯辺のお屋敷でお手討ちになってしまったのだ。悲しむ友達(菊茶屋娘おしげ=中村壱太郎)やそのおかあさん(菊茶屋女房おみつ=上村吉弥)がお線香をあげる。あ、お線香の香り!急死した人を包むあわただしさやおどろきが、この線香にあふれている。外はお祭りで浮かれているのに、家の中は悲しさでいっぱいだ。

 と、そこへ宗五郎が帰ってくる。花道を町人の狭い歩幅で歩いてくるが、その足音は重く強い。無念なんだな。お寺で戒名をもらってきたんだって。足の間を拳でぽんとたたき、着物を割って座りよくしてから座る。これがなんかかっこいい。様になっている。ネットで見ると、このことを「裾割」などといって、浴衣や男の人の着流しとかは、最初にやっとかないと動きにくいと書いてあるが、現代のそれとはちょっと違う。芝居の空気の小さい句読点になっている。写実だよね。町人のいい形だ。宗五郎はお茶を淹れてもらう。このお茶が熱い。耳たぶ触るくらい熱い。九州のお父さんだったら、「あつかろうが!」と怒っちゃって大変だけど、お蔦が死んで家の中がとりのぼせているし、宗五郎は文句を言わず何度も手を伸ばし伸ばし、さいごはくるくる湯呑を回して飲み干す。ここも写実かな。ちょっと熱い。

 酒を断ってる酒癖の悪い宗五郎は、死の顛末を聞かされ、お蔦の朋輩(おなぎ=市川高麗蔵)の持ってきた上等のお酒を、さっきの湯のみで飲む。お茶とまるで違う。酒が見える。いい酒だね。高野豆腐がお湯を吸うみたいに一気に飲む。何事もなかったように、二杯目も飲む。ああうめぇとやっという。三杯目は、酒の表面を観客に感じさせながら(透きとおって、水とは違うすこしとろとろした感じが心の中でアップになる)味わっている。背骨が少しゆれる。呑兵衛の酒は後を引くっていうけれど、こんなものじゃ宗五郎は納まらない。思い屈していると酒は暴れる、と観ててはらはらするが、どんぶりのような片口登場。ごくごく飲むのだ。干天の慈雨って言葉を思い出すぐらいに。さっきまで気が晴れないだろうからお飲みなさいと勧めていたおはまも止めるけど、「もう飲まねえ、これでしめぇ(仕舞)だ」と言ってやっぱり飲む。三公につがせ、角樽をひっくり返して、とうとう全部飲んでしまう。この描写すさまじい。矢でも鉄砲でも持ってきやがれ。いつの間にか、ものすごく酔っ払っている。上体はぐらぐらだ。これ、ただの酔っ払いだったら笑えもするが、底にはきっちり「誰に断わって妹ころしやがった」という悲しさと怒りがある。江戸時代、お屋敷に上がった女の人には、こんな話がいくらもあったんだろうなあ。そして、その身内が怒ってお屋敷には、なかなかいけなかったんだろうなあ。角樽振り上げて玄関の格子を壊した宗五郎は、かっこいい怒りの見得を切って花道を引っ込んでいく。

 怒った宗五郎は屋敷の玄関先でさんざん悪態をついたが、最後には殿様磯辺主計介(大谷友右衛門)がとても丁寧に謝り、お金と扶持を下賜されることになる。(お金か…。)とおもっちゃうけど、こういうとりかえしのつかないことって、最後はそういう解決しかない所が現代と共通だ。時代物と違い、傍に立っている人(若い者の三公や、二幕の足軽)がリアクションとるのだなと、それも世話物の一部のように思いました。

 

 

 

 

『新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子』

 大奥。テレビや漫画で、なんか怖いとこに思ってるけど、女の人の就職口としては憧れだったはず。器量がよくて賢くないと務まらないのかも。やっぱ怖いとこかしら。

 お正月にお餅を曳く「お鏡曳き」の余興に踊りを所望されたお小姓弥生(松本幸四郎)。はじらう弥生、いったんは引っ込むけれど、断れないよね。長唄が七人、三味線が七人、太鼓、大鼓(おおかわ)、鼓が四人に笛の人。

 つーと音が幸四郎の体に入るのが目でわかる。憧れているような遠い目つきをする。あずき色と紫との間の色の着物、たぶんこれ古代紫っていうんだと思う、金色の刺繍(ぬい)の帯、オレンジのひもが衣装を引き締めている。緋色の袱紗を帯に挟んでいて、それを手に踊る。(「くちぐちにー」と歌が伸びると、なんか、生まれて初めて長唄きれいだなと思った、)幸四郎清潔で艶めかしい。袱紗で踊り、塗扇で踊り、手で踊り、二枚の扇で踊る。

 よく見ると、どの踊りも、助詞がいれかわる。

袱紗「で」踊り

袱紗「が」踊り

袱紗「と」踊る。

扇と踊る。袖で踊る。

 「ちりちりちりちりちりかかる」と詞章が進むと、扇の上におぼろ月や牡丹やちる花が載る。

 手前と奥に重ねて持った扇をさっと飛び越させたり、くるくる回したり、長篇だね、これ。中学の時の二年間、これを踊った幸四郎は厳しい試練をやり通すような大変さだったと思うな。

 手獅子が弥生と別の意志を持ち始めるのがぞわっと怖くて面白い。

 宗之助と壱太郎の二人の胡蝶の精が赤い着物で現れる。黄緑の帯、牡丹の刺繍。髪の銀色のぴらぴらした飾りが揺れ、胸につけた小さな太鼓を撥でたたく。

 鼓と大鼓の掛け合い、笛が鳴り、三味線が傍で音締めしている、とおもったら、三味線のソロ。立三味線ていうの?かっこいい。三味線二挺がつづけて演奏。はっこの演奏は、もしかして次の展開を呼び出しているね。緊迫の間。鼓。ここバシッとやらないと獅子が出てこれない。気合いの入った演奏が続く。拍手のしどころだ。

 きました!わくわくっとなんか座席にじっとしてられないきもち。白いカシラに金と薄碧と白の装束、揚幕が生き物のように素早く上がり、いったんは吹き飛ばされたように去る獅子。清浄。再び現れ、カシラを地につけてあげる。体の両側につけてあげる。回す、後ろに跳ね上げる、回す、はやい!

 早い!と叫びたくなった心に、一斉にかかるこうらいや!という掛け声が嵌ってる。やー、すごくかっこよかった。心が躍りました。