キャナルシティ劇場 『オデッサ』

 そっかー。「愉快」で同時に「愛憎深く」、この矛盾した命題を充たすためには、「推理もの」だよね!

 しかもただ推理ものじゃつまらないから、警察官カチンスキ―(宮澤エマ)は英語で話す。被疑者コジマ(迫田孝也)と留学生スティーブ日高(柿澤勇人)は鹿児島弁で、スティーブとカチンスキーはもちろん英語でやり取りする。

 「推理もの」。んー。アガサクリスティは何度も読みました。それは何回読んでも犯人忘れてしまうから。あと犯人が「金」「愛」のどちらかで殺人する。とても分かりやすい。

 今回の『オデッサ』よくできている。英語を話す宮澤は堂々としており、柿澤のたたずまいは英語しゃべれる人の自信あるそれだ。鹿児島弁の迫田も説得力がある。英語から日本語、日本語から英語に変わるとこもナチュラルだ。福岡初日、宮澤エマは謎解きの決着のとこで台詞がもつれちゃったみたいなんだけど、全く気にならなかった。それは壁に映し出されたピクトグラムぽい絵を観てたから。観客の私は台詞を捨てて絵を見たってことだよね。どうなんだそこ。字幕は大変良い仕事をしていたと思う。字幕の操作もだ。ある意味、わたしは「マンガ」を見ていたのだ。

 推理ものがいまいちつまらないのは、謎解きのためのミスリーディングなどのせいだろうか。意識的に死角を作る仕掛け。たとえば、「どうしてこの人物はこれほど他人に肩入れするのだろう」という小さい不信を作ることで犯人を見えにくくする。

 または、コメディ的な盛り上がりを作ってハグしあう二人、しかし、その体は相手に対して完全に閉じている。犯人を明らかにしないためだね。そこがたのしいの?推理ものって?わたしは、こういうのどうなんだろうなと思ってしまうけど。芝居を見る楽しみがかなり減殺される。

 愛憎をガラス瓶に入れてコメディで包む、いい手法、いい思い付きだと思うけど、永く上演されるためには、もう一工夫必要では?三者三様、たいへんよくやっている、でも、三人とも「あはれ」が出てなくない?

博多座 二月花形歌舞伎 『江戸宵闇妖鉤爪』『鵜の殿様』 2024  

「あ、ちょちょちょっと待ってて、いま読んでる本佳境だから」と江戸川乱歩『人間豹』の画面の上に出た「着信」の赤と緑の丸に慌てる。いやーおもしろかった人間豹。これ舞台、しかも歌舞伎にしたくなる気持ちわかる。妖しくて怖く、そしてその妖しさと怖さが妙に奇麗。エログロナンセンスの大正時代を、うまく江戸末期の頽廃の中に移植して、明智小五郎松本幸四郎)も恩田乱学(市川染五郎)も、景色が変わったのに気づかず疾走してゆくみたいだ。奇怪な爪を際立たせる黒い服を着て、哄笑するたびに深紅の口中をのぞかせる恩田は、乱歩の考えだした半分人間、半分けだものの獣人だ。

 ウズメ舞で名を馳せた人気ものお蘭(河合雪之丞)のもとに、熱狂的な贔屓がまいにち「鯉」を届けるとかも、「よくわかってる」よねぇー。いい。すこしうれしく、すこしメイワク、すこし生臭い。裏側に何か、鯉料理のプロセス(生きたまま捌く=暴れる鯉の尾が目に浮かぶ)があって、やっぱ怖いし。

 あのね、これ、リビドーの話やろ?情欲ってさ、せっかく築き上げた自分の人格、キャラクターをびっくりするくらい簡単に反故にしていく。内なる性的欲望を前にして、「あんただれ?」と欲望に問いかけてる青年たちの話やん。二枚目のつっころばし(?なのかな?)神谷芳之助(染五郎二役)と、神谷の想い人を誘拐してゆく恩田乱学、想い人とそっくりの容貌の妻お文(河合雪之丞二役)を持つ目明し明智小五郎は、同じ影が三重になるようきっちり仕立てないとね。仕立てがなー。そして、その三重になった影に、観客がぞっくり心を粟立てながら、自分を重ねなきゃ。

 松本幸四郎、いくつになっても青年のよう、青年の声。いつもかっこよく、何も問題ない。声が細らないよう、よーく気を付けるのと、冷たく白い漆喰壁のキズを、舌で感じるような、(奥行きの陰翳)が、芝居に出たらなー。

 染五郎の「おきゃあがれ」が、途中で声を裏返す「あ」でちょっと不安定。まだ18歳だから声帯が不安定なのだと思う、今は無理せず喉を大事にね。河合雪之丞が、うまく合わせてカバーしていたし。恩田の声よく出ていた。「獣人」ぽさはしぐさで出さなくていいのか。あと、なんも問題ない。宙乗りも毅然とこなし、結句、解き放たれた欲望は、あやめも知れぬ闇に音を立てない夢の花火のように打ちあがり、ひそひそと溶けてゆく。

 あと「欲望」とその「善悪」をはさんで対決する明智と恩田の明暗も、きちんと出してー。奥行きがー。

 

『鵜の殿様』

幕が上がっていく間も、大名(市川染五郎)は両手をかざして踊っている。音がすごくよく出てる、演奏立派なのさー。そういえば『江戸宵闇妖鉤爪』の新内も、その二幕の三味線の連れ弾きも、すばらしかったなあ。鵜匠の引く糸につれ、ぐいぐいっと鵜がひっぱられるところを、殿様と太郎冠者(松本幸四郎)で入れ替わりながらおどる。これ、みどころ?闊達でコミカルでダイナミックで、そして、そして、大変。架空の糸が殿様と太郎冠者をつなぎ、その「糸」が「みえる」。幸四郎染五郎はなんでもないように楽しくやる。躰が糸の方にクッと引かれ――そのとき鵜匠の手は糸を引き込んでいて――、また戻り、鵜匠の糸につれても一度体がしなう。この激しい運動量を明るく、楽し気にこなす。バレンタインデーの特別アンコールで再び幕が上がると、ふたりはずっと抑えながら小さく息を弾ませており、全力で踊りきったことがよく分かった。 

東京建物 Brillia HALL 『舞台 中村仲蔵 ——歌舞伎王国 下剋上異聞——』

中村仲蔵」。破れた蛇の目傘の水を切る、びゅっという音が聞こえ、その飛沫が見える。傘を握る仲蔵の細くしろい骨ばった手、黒い着物、朱鞘(しゅざや)の刀まで頭の中で順に思い浮かべてから「…かっこいい。」っていう。顔は、そうだ、やっぱり、藤原竜也だったのかもねー。思ってた通りだったねー。この細身のしゅっとした侍は、江戸時代の実在の人物、中村仲蔵という俳優が作り出した、忠臣蔵のオリジナルキャラクターである。今日の芝居は、二幕三時間で端役から名題(劇場前に看板をあげられる人気役者)に出世した彼の生涯を追う。仲間内で目立つために折檻され、さまざまのつらい目に遭う仲蔵だが、「やりてえ芝居ができねえなら、死んだほうがましだ。」という強い気持ちを背負い、一歩、また一歩と這いずるように地歩を固めてゆく。これね、やっぱ、「中村仲蔵」って咄がめっちゃ面白いよね。四代目市川團十郎高嶋政宏が安心でき、金井三笑今井朋彦)のにくたらしい立作者がいい。

 課題は大体二つ。①一幕が込み入ってる。②劇場が3階まである。誰も追いつけないくらい早く仲蔵(藤原竜也)の養母(志賀山お俊=尾上紫)が出てきて、仲蔵は血を吐くようないい台詞をぜんぜん場のあったまらないうちに言わなくちゃならない。たいへんだけど、いい台詞だから、工夫して、しっかり心の階段降りてから言ってほしい。この一幕、ずいぶん役者に被(かず)けられているなー。そして②につづくけど、3階まであるということは、「音」(おん)を頼りに芝居を観るお客さんがいる。怒鳴ると怒りしか伝わらない。もっと技巧的に怒鳴り声を扱わないと、3階席けっこうmiserableだよ。市原隼人の三味線はいい音がしている。しかし、舞台の仲蔵と呼吸を合わせるとこまでがんばれ。あと台詞を「うたってる」。台詞を覚えるときの調子がのこってるのだ。

 「シミ一つねえおろしたての木綿」のような男は劇界にはいない、というんだから、一幕の人たち、もっとキャラ立てないと。池田成志、鼻に抜くいつもの発声、四十年保ったのはそのキャラのおかげなのかな。役柄にもっと真向かいにむきあわないとね。

文京シビックホール 大ホール 『坂東玉三郎 ~お話と素踊り~』

文京シビックホールに向かうため、シャーベット状の雪をしゃくしゃく踏んで歩いていると、今日は玉三郎地歌舞『雪』をやるのに雪が降るとは、なんてあたしは賦がいいんだろとにこにこしてくる。

 この地歌舞というのは、狭いところで踊るもので(パンフレットの中に遊里や座敷でと書いてある)ちっとも四肢を動かさない。動いてもゆっくりだ。こんな踊りで観客の目を捉えるためには、よっぽどの集中力が要る。

 ためしにYou Tubeで、「武原はん 雪」の動画を見て!!なんか…なんかすごいから!!一瞬一瞬が美しいじりじりした動きで繋げられ、なんていうか乾坤一如なの。天も地も、ひっくるめて一つさ。女の心の裡も外も、ぜんぶひとつに一体化していて、指の先に体の中の悲しみがあり、たたむ傘に秘めた諦めが見える。踊る外形は、踊りの「手」「振り」じゃない、心なのだ、って、こーんな凄いものが手軽にケータイで観られる昨今、玉三郎はこれをどう踊るのか。

 幕が上がるとひとりの人が白く透ける傘を持ち、着物の後姿で立っている。暗い舞台に雪がひとひらひとひらそっと降り、後姿がすっとしているんだけど、あの、武原はんの鋭く考え抜かれた着物の、嫋嫋とした、糸一本に至るまで清々した女の姿を思うと、心配になる。でも、半身をゆっくりひねり、こちらを向いた玉三郎はやっぱり清らかだ。その清らかは、墨染めの衣になった悟りの清さに見える。この『雪』という演目は、恋人を思い切って出家しちゃった芸妓の話をもとにして作られているらしいから、そんな風に見えて当然だね。そして、コンプラ的に問題かもしれないけど、すべての女の人は成仏が難しくて、いったん男に生まれ変わるという話を思い出すと、目の前の淋しそうな人は、男でも女でもある。玉三郎は、素踊りだ。

 うぉー玉三郎すごい、「男で女」「女で男」、「男の想う女」「女の想う男」を、踊り分けようとしているな。琴の音(三味線なの⁈)に潜む鐘は淋しく鳴り、子供の頃のよる、家の皆がどこかへ行っちゃった後、カッチカッチと音を立てる振り子時計のことが瞬間的によみがえる。透いている傘を通して見える玉三郎の、傘越しのまなざし、向こうをそっと振り返る顔は、すべての未練を置いていこうとする女の人であり、男の人であり、玉三郎なのだ。乾坤一如やねえ。一つ言うとすると、俳優はどうしても顔の表現で踊ってしまう。もっと体つきで表現できると思うよ。第一部がお話、第二部が『雪』、玉三郎はリラックスしていろんな話をしてくれた。次の公演地の方々、おたのしみにー。

本多劇場 加藤健一事務所vol.116 『サンシャイン・ボーイズ』

BEN: You’re not happy. You’re miserable.

WILLIE: I’m happy ! I just look miserable.

 脚本読んだ時、ははは。と、ここすごくわらってしまった。マネージャーで甥のベン(加藤義宗)が、伯父のコメディアン、ウィリーに無聊で淋しい生活を指摘するシーンなんだけど、しんとして考えると、『サンシャイン・ボーイズ』って、happyとmiserableについての芝居かなあ。ボードヴィルの一時代を築いたウィリー(加藤健一)とアル(佐藤B作)は、その時分、売れてハッピーだったのかもしれないし、たがいにいらいらしてミゼラブルだったのかもしれない。コンビ別れだって、年を取ることだって、一人ぼっちも、ひょっとしたら死も、ミゼラブルの中にハッピーを、ハッピーの中にミゼラブルを蔵しているのでは。

 加藤健一事務所版の『サンシャイン・ボーイズ』は、「時」を前面に押し出す。うねりながら流れていく『時』、あらゆる人に同時に流れ、パラレルであるのに、ある人の中では悲惨が勝ち、別の人の中では幸福な「時」。可笑しいことも悲しいこともすべてが流れる。終始イライラしているウィリーと、年老いることを受け入れているアルに、「悲惨で幸福」な結末が待つ。ここが、かなしく、笑えて、不思議。禍福が互い違いに訪れることになっている、この世界で、いわく言い難い「同時」にぽっちり等分な幸せと不幸せが並列する。なんかもう、笑っていいのか泣いていいのか、いい話だよね。演出は流れを重要視して句読点を打たない。

 打とうぜ?これコメディやん?

 可笑しいシーンがたくさんあるのに、立ち止まるのは往年のコメディ「おはいり」あるいは「どうぞ」の一か所だけで、あとはサラサラだ。こんな私でも、「ほほー」と5行に1,2回は読むのを休むくらい感心のあまり眼が止まるのに、可笑しい台詞がなんだかもったいなかった。皆好演、だけど、こっちは滋味ある表情見逃さないように必死だった。加藤義宗は、二人の老人を補助する脇役、昔よりすごくよくなってる。でも台詞の受けが全部同じ調子になりそう、気を付けて。

東急シアターオーブ ミュージカル『オペラ座の怪人 ~ケン・ヒル版~』

脳みそが、「PHAAANTOM OF THE OPERA IS THERE~」漬けになるほど聴いてきたら、全くの別物だったこの驚きよ。

 あっちが年嵩の男、年若の男、そして若い娘の三角関係を描くものだとすると、こちらは全てが慎ましくベールをかぶっている。そして、「あれ」がちょっと寸の詰まった豪華劇場なら、「これ」は木製の、細部に凝った古風な公会堂って感じに見える。

 ガストン・ルルーの原作に一番忠実に作られているという触れ込みだけど、要所要所で、あっそうだったねーと小説の記憶がよみがえるのだった。

 前半、皆硬くて、台詞と台詞の間が空きがちで、前の台詞の音(おん)を受けて発語するというとこが手薄。やりとりに隙間がある。しかし、有名オペラに歌詞をはめ込んだ歌の歌唱が始まると、(…まあそれはいいか。)と思ってしまう。だってクリスティーン(タイラ・アレクサンダー)すごいもん。二幕の「Somewhere Above The Sun Shines Bright」(ヴェルディ『海賊』 「私の頭から暗い考えを」)とか、圧巻。怪人から仮面を引きはがす寸前の歌唱も素晴らしかった。動画サイトの投稿からプロになった人らしい。一方、携帯電話の販売員から一躍有名歌手となったポール・ポッツは、うつくしい声のまっすぐな強さが半端ない。いい声だった。しかし、歌いまわしはどうなのかなあ。(あと、特鼻褌みたいな錦のまわしだけど、着こなさなきゃ駄目さ。自信持ってないと笑えない。)ここ、伸びしろやん。というのも、怪人を演じたベン・フォスターが、終演後、『ジーザスクライスト・スーパースター』のなかの「ゲッセマネ」をうたったのだが、ほとんど声を使わなかった。ちょっとー、大御所老人歌手みたいだよー、と思ったけど、もー、テクニックが多彩。いくらでもやれる。どんなふうにでも声出せる。でもいまはあんまり声出さないプレスリーみたいな感じだったよ。欲を言えばびしっと歌ってほしかったけどね。あとポール・ポッツ、たくさん友達作りなよ。しんぱい。ファントムだってお墓参りしてくれる友達いるらしいよ。

TOHOシネマズ日比谷 『カラオケ行こ!』

「おもろいやん」二音ずつ下がってくる関西弁(しかも脱力)でつぶやいてしまうような映画。

 黒い細身のスーツで現れる歌下手ヤクザ、狂児を演じる綾野剛が、こちらの視線を一瞬のダレも緩みも許さず吸い取ってゆく。綾野は画面上のゆるく自由な自分を、息を殺して厳しく律する。それは精密に間合いを測られており、最終的にはギャグにつながるシーンでも、重要シーンと同じように演技される。狂児の祖父で、ちょっとだけ出る加藤雅也もよい。すこし乱れたすさんだ髪型もリアルで(ヘアメイク風間啓子)で、加藤の芝居を助けている。二人とも細緻な芝居なんだよなー。けど、綾野剛はカラオケの歌い分け、エックスの「紅」の挟み具合の亢進ぶりとか、歌のとこもっと細かく芝居したらよかったのに。綾野に比べると、ヤクザの人々の演出、画面上の扱いが、やや雑な気がした。ていうか雑。

 歌下手ヤクザが合唱部の中学生(岡聡実=齊藤潤)に歌唱指導をしてもらう話である。ヤクザは組長(北村一輝)の趣味の刺青に困っており、カラオケ大会で罰ゲーム的に施される入れ墨を逃れたい。少年はついつい釣り込まれて、ヤクザとカラオケに通う羽目になる。中にさ、うっすら互いを思いあう淡い色彩がつけてあって、そこもよい。しかし、作品としては中学時代のパートで、そして聡実少年の最後のあの台詞で締めるべきだったね。夢か現か、って、すてきじゃないのー。数年後のシーンが入るのは、いま、現実に生きる聡実少年たちのためには必要だと思うけど、そして映画は、完成度だけがすべてじゃないのだと、映画の社会性とか考えるけどさー。私にとっては、ここが、瑕瑾。原作にもこのシーンあるけど、これは別れがたい、いいキャラクターだからじゃないのかなー。答え合わせみたいだよねー。

 模様入りの傘、模様入り音叉、輝く食卓の鮭の皮と、小道具も力を発揮しているが、入れ墨を透かす白シャツの濡れ具合が、旧来のお金かけられない日本映画風で醒めました。