カクシンハン第12回公演 『ハムレット』

 彼岸と此岸。

 上手の手前から、下手の奥に向かって、白黒のストライプが続いている。横断歩道、暗い下手奥に道しるべのような、死出の旅の伴をする蝶のような灯、舞台正面の壁は幕が取り払われて裸。下手から二筋の明かり(彼岸からの光)、濃いスモーク。ジャージのフードをかぶってケータイを持った人傘をさす人たちが4列になり、スタバ・ユニクロ・コンビニの袋をてんでに持ち、彼岸へ渡り、かと思うと此岸にわたり、また彼方へ渡る。angelと書かれたジャージの男が交差点の真ん中で斃れる。此岸、彼岸へと混沌と、整然と、人は渡りつづけ、渡り続けるその先はいつでも彼岸(死)なのだと思い当たるのだった。

 喧騒と静寂、観る人と観られる人が何度もひっくりかえって続き、お祭り騒ぎの池袋の街の下に、ちょうど足の裏をつけて反対にしんとしたハムレットの悲劇があるような気がする。呼吸音で始まるこのハムレットは窒息で終わる。考え抜かれた目覚ましいシーンが次々に現れ、テンポは速く、青年たちは美しい。

 花びら(桜)が散り、ハムレット(河内大和)が「うまれた」ように見えたシーンの意味が、ちょっと分かりにくかった。あれは「血脈、血統」を表わす何かだったのか。

 皆、アフタートークで岩崎MARK雄大が云っていたように芝居に献身し没入して「駆け抜けて」ゆく。レアティーズ(島田惇)と王(高橋克明)が去るとき、後景の王妃(のぐち和美)は何を思うのだろうか。そこんとこがちょっと疑問です。オフィーリア(真以美)、引く息が浅く、感情が息の分しか長続きしないように見えたけど、わざとかな。ハムレット、最後どこかの道端で死んでるのが見える。

日生劇場 『リトル・ナイト・ミュージック』

 「天下麻のごとく乱れ」という言葉が、ソンドハイムを聴いていると思い浮かぶ。難しい。乱れてる。その上に浮橋を架けるように旋律が載る。難しすぎて曲の姿がほとんど見えない。

 舞台にはウォータン(神さまの)でも現れそうなシンプルな坂、天井から6つの明かりが思い思いに下方を照らす。白夜の話だったなと原作のことをふと考えた。

 舞台の光量があがり、上手から誘うような不思議なソプラノが聞こえてくる。夜9時、10時、世界はいつまでも薄暮の中、何時になっても眠れはしない。ノードストラム夫人(彩橋みゆ)、セグストラム夫人(飯野めぐみ)、アンダーセン夫人(家塚敦子)、エアランソン氏(中山昇)、リンドクイスト氏(ひのあらた)が登場して歌うシーンですーっと北欧の時間に入れる。ミセス・アームフェルトの木野花は、パンフレットで『リエゾン』の出来を気にしていたが、「リエゾン」という言葉を発するとき、そこに色彩が載り、曲としてまとまっている。風間杜夫の『今』というナンバーは、もひとつ「麻」の中に紛れてしまっていて残念。生来の「かわいさ」や培った「技術」で、乗り切れるよう祈ります。ヘンリック(ウェンツ瑛士)は、悍馬のような曲をなんとか歌いこなし、しっかり橋が架かっている。

 一番よかったのはSend In The Clown、女優のデジレ(大竹しのぶ)の歌だ。歌を稽古したたくさんの時間まで、曲の表情、艶になって映りこんでいた。

 ベルイマンの原作『夏の夜は三たび微笑む』で、私は不羈で現代的な感じのする女中のぺトラが好きだったのだが、瀬戸たかの(カトリーヌ改め)のぺトラもいい。この芝居はなぜか、女性の生き方の群像劇という感じがとてもした。

東京芸術劇場 シアターウェスト『PHOTOGRAPH51』 

 「掃除して!」

 「うるせー」

というのが小学校の女子と男子のデフォルトの会話であったとすれば、まじの言い合いになりがちだった自分に比べて、スムーズに事を運んでいる女子を観察してほんとに驚いたものだった。目が全然違う。(怒ってないの、私かわいいよね…。)ちかちか目元にまたたくコケット。彼我の人生の差を痛感し、敗北し、かといって路線変更もせず今日にいたる。なんだろ、あれ。

 今日の芝居のロザリンド・フランクリン板谷由夏)は、そういう「お掃除上手」とは無縁の人だ。ユダヤ人の差別も男女の差別も厳しい1950年代初頭、抜きんでた能力で独立独歩の人生を切り開いてきた女。

 上手も下手も盆(?)の上も、皆古い木製家具で、劇場に小さく、シンプルでやさしいピアノの旋律が流れていることから、まるでアンティークのオルゴールの中に入ったような気持になる。函に閉じ込められてしまった女、彫像になってしまった女。

 板谷由夏は1975年生まれ、福岡出身。友人に「やらなくていい挑戦」だといわれながらこの舞台に臨んでいる。初舞台だ。ということはガッツがあるという理解でいいだろうか。初舞台と思えないほど堂々として、美しい。「父」のアクセントが一般的なものと違っている。「何か大きな誤解が」というセリフを言う時、「お掃除上手」的笑顔になるのだが、そういう懐柔みたいなことを、ロザリンドはするの?最初のぶつかりあい、ウィルキンズ(神尾佑)の性格と、ロザリンドの性格がはっきりせず残念。脚本をよく読んで、演技プランをしっかり立ててください。巾が欲しいです。自分で思ってるほど、巾が表現できてないんじゃないかな。 

25YEARS ANNIVERSARY NYLON 100℃ 45th Session 『百年の秘密』

 僕が月を見ると、月も僕を見る、という子供向けの詩があったように思うんだけど、客席に入って舞台を見ると、おなじような気持ちになるのだった。

 屋敷の中に巨大な木。僕が木をみると、木も僕を見る。チェーホフの登場人物は100年後に思いをはせるけど、『百年の秘密』の楡の木は、100年後の方から「私」を見、遠い過去からも「私」を透視する。視線の往還。登場人物たちのやや仰角の視線と、木の俯瞰の視線が、皆を「いま」に留めつける。シーンが重要な展開を見せるたび、そこは木のある廃墟にも思えてくる。

 ベイカー家の娘ティルダ(犬山イヌコ)とその親友コナ(峯村リエ)の12歳から死後までが、行きつ戻りつ語られる。

 戯曲を開くと、まず目に飛び込んでくるのが「百年の秘密」関係図だ。40人近くの相関図に思わずいったん頁を閉じる。すごい。『祈りと怪物』で、たくさんの登場人物が一人の男に収れんしていくのを凄いと思ったが、この芝居も力業だ。そして全体の陰翳がパズルのように組み合わされている。

 ナイロンの役者の芝居はみな内実を持っていて充実しており、観るのが本当にたのしかった。

 ただ初日のせいかパズルが少し甘く感じられる。カレル(萩原聖人)は17歳、かがやくような「お兄ちゃんの友達」でないといけない。遠慮しないでハンサムオーラを出してほしい。そうしないとティルダとコナが、木が忠告するほどの「秘密」を抱える動機が弱くなる。廣川三憲のフリッツの、失意(事業の失敗、家庭の不和)が声からうかがわれ好演、さいごの怒りをも少し深くね。松永玲子、老女の少しねじれて突き出した腰つきが完璧。手紙を見つけた時、もうちょっと動揺してもいい。

Bunkamuraオーチャードホール 『マリア・パヘス&シディ・ラルビ・シェルカウィ DUNAS』

手拍子を打つ音、楽器の調子を取る音が、微かに聴こえる。ふつふつと呟くように、幕の後ろでバイオリンが鳴ってる。

 煮えていく鍋を考える。ちいさな足拍子が、たたんと響く。

 幕が開いた。上手と下手に客席に垂直に薄幕が張られ、それを上手は女性(マリア・パヘス)が体ごと引っ張って舞台センターに歩み寄ろうとしている。下手からは男性(シディ・ラルビ・シェルカウィ)が、やっぱり幕越しに中央へ、女性と向き合おうとして歩いてくる。私の席からは女性の美しい背中が幕の後ろからちらりと見えた。中央で立ち止まり、右手を上げ布を隔てて男性の左手と合わせる。次に左手を高く上げ、合わせる。幕の中から上半身が出て、中指の爪の先が合い、手首を合わせてくるりと一周する。

 「触れる」ということ。「触れる」にはいろいろな段階がある。切ってしまった爪、脱ぎ捨てた服のような空々しさから、指先が触っただけで胸を一撃される強烈さまで。舞台の始まりの「触れる」には、何かもどかしさが付きまとう。人は「表面」から、逃れることができない。「触れる」のは「表面」である。表面は砂丘のように姿を変える。変容する「表面」が「触れる」男女を引き離す。男は女の「踊る手」を邪魔しない、それがせめてもだ。パヘスの美しく整って踏み鳴らされる足拍子に、女性の苛立ちと、怒りと、情熱がこもっている。シェルカウィとパヘスが同じ振りを踊るとき、確かにその振りは同じなのに、鮮やかに異なっている。そこがとっても素晴らしい。これは一人の人間の二つの顔なのだろうか。それから、薄い幕に投射される砂絵。砂の奥から男の顔がのぞく。ただ食物連鎖などの絵に「?」マークをつけるのは、意味がつきすぎじゃないかと思う。

劇団青年座 第231公演 『砂塵のニケ』

 青く暗いロゴが目立つオレンジの庇「青年座」。浮かれていた時もあった、めそめそ泣いてたこともある、何十年もいやってほど前を通ったけど、一度も入ったことがない劇場。今日はこの劇場の最終公演。

 中は案外こじんまりとしていて、広くない。140席くらい?

 舞台には八枚の色鮮やかな抽象画があり、一つ一つが美しく照らされている。中央には大きなギリシア遺跡風の柱が3本立っているのに、ちっともそちらへ気が行かない。陽に血管を透かし見るような赤い絵や、ちょっとターナーみたいに見える水色の絵が、様々な向きにある。上手には病院のベッド、下手には絵画修復士の冷静な仕事場が、冷静に設えられている。柱の陰にイーゼル、小津っぽい真っ赤な湯わかしがコンロに載っている。

 すぅっと暗くなり、病院の器械音が聞こえる。ベッドに寝ていた女(緒川理沙=那須凛)が左手を出して眺める。理沙は子どもをおろして自殺未遂をしたところだ。理沙を父親のいないまま育てた母美沙子(増子倭文江)との折り合いのまずさ、芝居は二人を解き明かしていく。「空っぽの空洞には戻らない」美沙子は若いある日、そういうのだが、そのせいなのかどうなのか、一幕目の一場など、セリフのやり取りがほぼ空洞なのである。劇場の大きさに比して芝居の仕方が大きいせいなのか、「空洞」を意図しているのか、判断に迷う。「こんな気持ちです」と説明してくれてはいるけど、「ほんとにそんな気持ちなのか」が感じられない。長田育恵のいいセリフが空洞化しているのを、ほとんど無残の気持ちで眺めた。話面白いのに。

 美沙子、『ガープの世界』(ジョン・アーヴィング)の「ガープのお母さん」みたいな人だったらもっと面白かったのにねー。娼婦のふりをするところ、娼婦が迫真で、娘らしさがない。かつらもいかん。

劇団民藝 『神と人とのあいだ 第二部 夏・南方のローマンス』

 『神と人とのあいだ 第二部 夏・南方のローマンス』1970年。別役実岸田戯曲賞受賞が1968年と知り、ふーんと思うのである。『夏・南方のローマンス』って、一度も役名で呼び合わないし、派手な服(赤いブラウスにグリーンのフレアスカート)の女(漫才師である=桜井明美)と、誰だかわからない兵隊服の男(齋藤尊史)とのやりとりは、まるで乾いた不条理劇のように面白いのだ。

 そう思ってみていると、木下順二の指定に肉付けしたセットのありようは、別役みたいな電信柱を登場させていて、時代の後先を、凄い力でつなぎ合わせているような気がする。残虐な拷問の行われる南の島、戦後の日本の公園、客席と、砂の敷き詰められた舞台面も、どこまでもどこまでも拡がるような気がする。そして神に向かって伸ばす手のような木。

 女漫才師の恋人(塩田泰久)は南方の島にいながらブランコのさがる骨組みにひととき登って足を掛けたり、手を広げきれいな十字を作って、受苦の人であることをさりげなく示す。紗幕の開いた後、どのシーンも掩蔽壕の中にあり、壕は空に向かって口を開けている。全てが「真実」から身を守っているように見える。

 ここに一人残る派手な服の女は、きっと掩蔽壕からでるのだろう。出られるだろうか、星空がそこから覗く。神さまへの異議申し立て、それが演劇の役目ってことじゃないの。

 桜井明美、冒頭恋人を「悪い奴」と呼んだりするのだから、「恋愛のデーモン」がちらりとでも見えたほうがいい。齋藤尊史、ほんとに兵隊に見えた。参謀の本廣真吾、おもしろい役なのであまりひかえめにしなくていいのでは?塩田泰久、またお芝居観にいくので、油断しないようにね。