東京芸術劇場 シアターウェスト 『TVUstage2018 家族熱』

 ひとまわりしか年の違わない、美しい継母朋子(ミムラ)。その継母を思いながら、今は彼女の出て行った田園調布の家に父と弟と住む医師の息子杉男(溝端淳平)。戻ってきた実母、祖父の死、様々な事件を挟んで、三年後、二人は祖父のお墓でばったり出会う。

 ミムラは滴るように美しく、下手から日傘をさし、白地のワンピースを着て、ベンチに少し疲れて座る。上手客席出入り口から、花を持った杉男が現れる。

 「すぎおさぁん!」歌っている。全編通してミムラは堂々とセリフを歌う。基本の発声はやってるはずだし、ミムラは凝り性で知られているから、これは演出意図なのかな。客入れの間じゅう30分も蝉が鳴いていて、すこし曲がないと思った。『帰れない二人』が最初に流れ、説明しすぎではなかろうか。

 芝居はゆっくりと進み、二人とも集中して隙なく演技を続ける。まるでカットのかからないテレビドラマみたいだ。

 溝端淳平は継母に触れようとした後朋子の顔をみず、感情を嘘なくつなげようとしていることがはっきり見て取れる。

 しかし脚本はどうか。子供を産まなかったことの息子へのかづけ方を見て、朋子ってどうなのと思わずにいられなかった。結婚には打算があったと朋子は言うが、自分をいじめている感じはぜんぜんしない。また、前妻のことを「あがりこんで」と2回言っていたが、前妻の実の息子の前でそんな風に言うだろうか。

 杉男、最後の感情の爆発まで破綻なくきっちり。でも、観たことあるような芝居じゃつまらないよ。工夫のしどころだと思います。朋子、アイロンのパントマイムは注意しないと、なにをしてるかわからないよー。

恵比寿ガーデンシネマ 『29歳問題』

 鏡を覗く度、まつげがみんな手を伸ばして、「タスケテ!」と言ってる気がしたあの頃、あの加齢不安、あれ30才くらいだったのかなあ。こういう時、いつも『風と共に去りぬ』の出産に関するスカーレットの言いぐさ、「いい具合に苦痛でぼやけて」っていうの思い出す。スカーレットって、めっちゃ前向きの人だったよね。

 目をつぶっている美しい女の顔、やがてそれをみひらくと、すこし充血した目に涙が溜まってくる。この人の名前はクリスティ(クリッシー・チャウ)、29歳。「仕事」は順調、長く続いた「恋人」がいて、人生は前進あるのみ。その頃って、ふと自分の手持ちの札を見返してしまう時期なのだろうか。「仕事」大きな役職、やり通せるか不安。「恋人」いつもちぐはぐな関係で、結婚話が出ない。「家族」忙しい彼女に認知症の父親が電話をかけてくる。クリスティのスタイリッシュなマンションに水が漏り、大家は立ち退くよう迫る。当座の住いに借りた古いフラットで、貸主の娘(ジョイス・チェン)の日記を読み、その明るさと欲のなさに、クリスティの心は変わってゆく。

 フラットをかりるまでが長く、構成が迷走しているように感じるが、ちゃんと計算されている。6:29のデジタル時計をばしっと切るところなどかっこよく、小気味よく撮れている。美術もすてき。ただ、ジョイス・チェンがとても惜しい。「屈託なさそう」なのではなく「屈託なさそうに見せ」ているし、「笑ってしまう」のではなく「笑って見せ」ている。これは、後段現れる彼女の告白とは関係なく、演技上の問題だ。隣でホンミン(ベイビージョン・チョイ)が、さりげない芝居をするので余計目立つ。

 エンドロールの、2005年からの芝居のカーテンコールをさらっと見せるところで泣く。段々に芝居が育っているんだもん。

三越劇場 『新派百三十年 六月花形新派公演 黒蜥蜴 全美版』

 なぜ突然着替えるの明智喜多村緑郎)?とか、1ミリも考えない。

 芝居が走っているからだ。その速度は、ジャック(市村新吾)の思い切ったツーブロックの髪や、一寸法師(喜多村一郎)の入念な青いメイクや立ち廻り、殴られてそっと鼻血を出す新聞記者郷田(児玉真二)、エナメルの光るハイヒールブーツを履きこなす柏原春(伊藤みどり)の覚悟からきていると思う。

 初演の時から大幅に脚本も変わった。雨宮の秋山真太郎のキャラクターには芯があり(冒頭、仮面を飛ばして戦うシーン怖いけどかっこいい)、「歌う警察官」波多野十三郎(今井清隆)の上手すぎる歌が、観客を異世界に連れ去る。どんな小さな役にも工夫のしどころが用意され、誰もが台詞を言いやすくなっている気がした。

 春本由香、品のあるお嬢様で、もしかしてピアノのショパンは自分で弾いてたかもだが、せっかく幸せと不幸をめぐる面白いシーンを用意されているのに、生かし切れてなく惜しい。「泣く」「泣き声」にもっと敏感になったほうがいい。ほんとに悲しい時どんなふうに泣くの?

 明智小五郎と黒蜥蜴(河合雪之丞)は素敵なカップルで、拮抗している。離れあう磁石のように、裏では強い力でひきつけあっているのだ。河合雪之丞はとても美しく、手にしたレースのハンカチなど「手巾」と書いてルビを振りたいほど決まっている。ソファが海に放り込まれるとき、その音を予期する緊張、聞いたときの竦む心、聞いた後のテンションの違いなど、すばやい細かさ、繊細さが欲しい。とにかく、芝居はものすごく面白くなっている。黒蜥蜴が眸をめぐらすだけで拍手が起き、明智が白い歯を見せて満場がため息をつくまで、あと一歩だ。

渋谷HUMAXシネマ 『犬ヶ島』

 黒澤明(1910-1998)、『七人の侍』。子供の時に、テレビで初めて見たの。攻めてくる野武士、土砂降りの中の切りあい、三船敏郎の激しく鋭い身のこなし、宮口精二がむかっ腹を立てながら(と後年知った)横っ飛びに吹っ飛ばされる壮絶なシーン、こどもには何もかも驚異で、この映画を「所有したい」と思うあまりにノートにセリフを書き起こしたりしたもんだった。凡庸なこどもは所有したいと思うところで終わりだけど、ウェス・アンダーソンはクロサワを含めた日本を題材に、映画(それもパペットアニメーション)を撮ろうと思ったのだった。始まると、日本語のタテガキの説明や、鉦や太鼓を叩く3人の少年たちが、必要以上にちいさーく映る。その軽くて精巧で玩具じみた感じ。これ、日本のトータルイメージなんだろう。

 今から20年後、日本のメガ崎市では、犬の伝染病が大流行し、人間への感染が懸念されていた。権力者小林市長(声:野村訓市)は犬たちをごみの島へと廃棄することを決める。小林市長の養子アタリ(声:コーユー・ランキン)は彼の護衛犬スポット(声:リーブ・シュレイバー)を探して小型飛行機で「犬ヶ島」に何とか降り立つ。要は不時着なのだが、この不時着が説明なしでクールなところがいい。スポットとアタリが心を通わせるシーンも、護衛と親しくなってはならないという邪魔が入るために、説明抜きでものすごく濃く感じられる。イヌたち、ちょっと涙ぐむシーンが多すぎかな、決め手のシーンが弱くなる。

七人の侍』は、クロサワが「過去」を(こんな戦争だったらよかったのに)と、「どこにもなかった理想の戦争」として語ったものだった。ウェス・アンダーソンは、「いま、ここで、こうであってほしい日本の未来の理想の結末」を切実に見せてくれているような気がしてしまったのだった。

唐組・第61回公演【唐組30周年記念公演第1弾】 『吸血姫』

 どんなに遅い番号でも、10番台でないと嫌だったあの頃、最前列で、水やらなんやら浴びたり、突如舞台奥のセットが取り払われ、春や秋の冷たい空気がわっととびこんできて、クレーンだのなんだのでヒロインが飛び去ってしまうのを、握りしめた両手を拍手のためにようよう引き離しながら観た、と。

 もう根津甚八小林薫はいなくて、佐野史郎が必死で紅テントを支えていた、ごく後期の状況劇場だった。

 久しぶり、たぶん30年ぶりに来たテントは、ちっとも変っていなかったが、私は変わった。体操座りがしんどいの。芝居は『吸血姫』、単行本も全集も持っていて、海之ほおずきの登場シーンなど、おぼえてしまいそうだった。意味不明、唐さんのつま先が(イメージです)、水の上を石切りするみたいにとんとんとーんと先走っていって、凄い勢いで連れまわされる感じが好きだったと思う。

 まず最初に感じたのは、状況劇場調の台詞回しは、今はもうないってことと、「つりこまれる」危険な感じが、薄いってことだ。狭いテントの舞台奥から、なんかわかんない水が(イメージです)、汚い水きれいな水地下水のように隠された禁忌の水が、どーんと流れてきたりしない。皆忠実に台詞をいう。河出書房がなくなって河出書房新社になったというような昔の話をカットせずにやっているのに驚いたし、銀粉蝶はもっと見たかった。

 海之ほおずき(さと子=大鶴美仁音)は、高畠華宵の口絵に見えるくらい一生懸命やっている。前半がいい。

 禁忌をおかして禁忌を呼び込み、愛や青春と切り結び蹴散らして、テントのかなたで輝いてほしい。昇る星と沈む星が、同義であるような、いかがわしくも美しい魔法が、また生まれますように。

M&Oplays produce 『市ヶ尾の坂ーー伝説の虹の三兄弟ーー』』

 時計がない家。近代のモダン和建築と、戦後すぐの住宅公庫で建てたような安普請が、ないまぜになってる不思議な家。思いつきのような畳の上のスツールとカウンターもある。しかし、下手手前のポトスの鉢を置いている小テーブルが、しっとりと落ち着いて、ある重さ、湿気を伝える。

 都市計画のために歯抜けのように空き家が増え、すぐわきの坂をトラックや乗用車が凄い勢いで通過する市ヶ尾の町。ここに三人兄弟が暮らしている。

 明るくなると次男隼人(三浦貴大)が下手窓を背にして立ち、ソファの美しい人妻カオル(麻生久美子)の話を聞いている。カオルは子どものころの思い出話をしている。彼女はバスに乗るまでの時間を顔見知りの兄弟の家でつぶしていることがわかってくる。

 この芝居を観ていくうちに、兄弟がカオルを愛している、というか、讃仰している、お母さんになってもらいたい!とおもっていて、カオルの子供をまるで自分自身であるかのように感じているのだと知る。水を渡しあう三連水車のような兄弟に、カオルはお茶を淹れ、ホットミルクを作る。

 麻生久美子、以前観た時よりぐっとうまくなった、というのは、台詞の中にカオルの性根、役の骨のようなものが浮き出して、この女の人が、どんな行動にでても、観客が受け止められる、理解できるという下地を作っているからだ。それは冒頭の隼人との会話に現れる。これに対して、隼人は、「享受している」「独り占めしている」感が少し薄い。大森南朋、コミカルな役が浮かずよかった。着替えを差し出すときもっと必死で、そしてそれを一生懸命隠してないと、現代では通じにくいかも。

武蔵野スイングホール 『アンッティ・パーラネン』

 真珠色の丸い釦が6つ3列、演奏者の左手側についていて、その向って左隣りに、小さな釦がいくつか見える。黒いアコーディオン。小さな釦の左は蛇腹、すこし開いている。開演前、何気なく舞台床面に置かれているのだ。だいじょうぶ?心配じゃない?なんとなく古い、ライカのかっこいいカメラを連想する。右手の、普通鍵盤のある所にも真珠色の釦が縦に10個、11個、12個と並ぶ。蛇腹と釦の間に、金色の文字で読めないけれど楽器の会社名(たぶん)が崩し字で書いてある。左上に赤くスイッチが光っている。「エレクトロニカ」なのね。

 暗くなり、下手(舞台向かって左)から現れたアンッティ・パーラネンがアコーディオンに歩み寄る。ノータイのスリーピース、長い髪をかっこよくひっつめに束ね、眼鏡をかけている。

 アコーディオンに息を吸わせる。

 「ハロートーキョー」渋い塩辛声だ。蛇腹を向かって右上方に、いっぱいに伸ばす。カメラなんかじゃなかった。思い違いしていた。蛇腹の上側が縮んで本体に激突する。これ、なんか、こわい生き物だ。変わった和音が規則的に鳴り、激突も音楽として聴こえてくる。パーラネンが声を出す。うなり声、うなり声じゃないGrowlingって感じ。蛇腹が左右に、心臓のように鼓動する。蛇腹には金で、U字形の飾りが描きこまれているのだが、もはやツキノワグマの首の模様にしか見えない。右足で電子音の重いリズムを取っている。パーラネンは、今日のアコーディオンの機嫌をはかっているみたい。拍手。アンッティ・パーラネンがにっこりする、アコーディオンはパーラネンの言うことを聞くことにしたみたいだ。

 アコーディオンのベルトは右ひじにぴんとかかっていて、左手を通すバンドは手首に固定されている。合いの手をアリガトウと日本語で、民謡っぽく上手に入れる。蛇腹の左側が膝から零れ落ちる、生き物のようなアコーディオンアコーディオン弾きはジムに通う必要がないんだよ、といってパーラネンは汗を拭き、上衣を脱いだ。

 歌い始めるとモンゴルのホーメーを思い出す。あのキレイナトトノッタフィンランドの山河を切ると、こんな音が出てくる。旋律では表しきれないノイズ。旋律でとらえられない世界。武蔵野文化事業団の宣伝チラシに「吹雪のごときアコーディオン!」とあって「へへー」とおもっていたのだが、あのチラシを書いた人、吹雪みたことあったのかも。

 休憩後、飼っている犬がハアハア言っているのを見て(うちの犬は12才、白くて小さいです)作った曲を演奏する。アコーディオンが両手の間で生き物(いや犬みたいに)らしく細かく息をする。犬は、何かがかなしくてなにかを待ち望んでいる感じ、何を思っているかわからないよね――食べ物のこと以外は。とパーラネンは言う。

 息は犬の思いの形、すこし音が上がり、うれしさに似た音がし、低い音も交じり、かなしいような気もする。犬の中の宇宙だ。犬の内側から世界を眺める、相変わらずアコーディオンの蛇腹はちいさく、細かく揺れている。

 そのあと、ヘルシンキから遠く離れた故郷の冬から春をスケッチした繊細な、綺麗で旋律のある曲をやり(女声の合唱があっても不思議じゃない)、さいごに、10年前、新聞の写真を見て作った曲をやります、という。ガザ。2007,8年ごろって空爆のころだ。暗い歌。写真のフレームが突然大きく拡がり、一瞬、ガザの瓦礫を足で踏んだ気がした。女の人たちのつんざくような嘆きの声が聞こえてくる。曲は聴衆を呑み込んで重い終わりを迎える。戦争がありませんように。テロが起こりませんように。すごいイメージ喚起力だった。アンッティ・パーラネンはにっこりとコンサートを終える。あの激しいアコーディオンは舞台面に静かに置き去られ、何事もなかったかのような涼しい顔をしていた。