エディット・ピアフ没後55年 『ピアフ』

 二幕、化粧前の鏡を囲む電球が、ピアフ(大竹しのぶ)の顔を照らしている。科白はない。けれど、空間は齢を取ってきた女の心で充填され、過不足なく充実している。何も言わない大竹しのぶは終幕では見る見る萎れていく何か美しい儚い夢のように見える。

 ところが、さー。大切な恋人、伝説になってしまった恋人マルセル、ボクサーのマルセル・セルダン(駿河太郎)と、やや抽象的に離れるところ、白い旗(白い幕)の上にピアフが眠るところ、ここ演出とてもまずいと思う。意図が役者に伝わってないもん。空間が埋まらず駿河太郎の表情に迷いがあるし、大竹しのぶはうまく眠るけどそこまでの動きが空白になっている。大事なシーンなのにー。

 それからシャルル・アズナブール宮原浩暢)が療養所を訪ね、傍を離れないとピアフに告げるシーンの、ピアフの「仕事がなくなったら真っ先に私のせいにするくせに」という冷徹な言葉とその愛のふり幅。どちらもピアフの「新しい男」なんかいないと「わかってる」。言わず語らず見せるきれいで哀しい愛の終り、宮原浩暢に頑張ってほしい。

 ともすれば男の人たちがみなしゅっとしてかっこいいし、皆「ピアフ好み」のせいか似たように見え、俳優の個性を出すように衣装にも工夫が要る。もっと自分を押し出していいと思うが、イヴ・モンタン(大田翔)の『帰れソレントへ』、素晴らしかった。

 曲が短く、ピアフの歌は「決然」「果断」、とても歯切れがいい。大竹しのぶは電線でじゅくじゅく鳴く雀のようなピアフ、ぼろ布のように喋るピアフを創りだし、終幕の『水に流して』はそこに天使を足したようだ。「クスリ」のシーンも素晴らしいけど、クスリに走る孤独、頼りなく心細く真っ暗な孤独がもっとないとだめ。

M&Oplays produce  『ロミオとジュリエット』

 原作通りなんですよこれ、と、終演後、席を立つ隣の人に言いたい気分。驚くよね。宮藤官九郎はワン・アイデアで二時間のシェイクスピア、それも『ロミオとジュリエット』をねじ伏せる。

 にしても何故ロミオは胸板の厚い、短躯・五十代の三宅弘城なんだろう、彼がロミオを演じることでジュリエットは細く小さく可憐に見え、キスシーンなど、(キスするのかよー!)と無残ていうか可哀そうになってしまう。ま、このキスシーンが意外にも繊細で、見て嫌な感じは全然しないけどね。

 どのシーンも面白く仕上がっており、中でもティボルトの皆川猿時は出色。剣を抜く前の顔など、こういうのを華があるというのだと思った。マキューシオの勝地涼ももちろんとてもいいが、巧くやりすぎている。もっと、シェイクスピアの台詞が野太く言える人にもなってほしいのだった(希望)。

 やっぱね、ワン・アイデアで二時間はちょっときつい。皆々、シェイクスピア役者で、このように軽やかに笑いもできる、っていう感じだとよかったのでは。

 森川葵は、最初のキスの前の不安そうな表情がすばらしい。舞台の台詞は、特にシェイクスピアは、不安な感じや悲しい感じや幸せな感じを、「作曲」しながら進んでいかないといけない。幸せな感じが3つ続くとすると、その3つをすこーし調子を変えたりしないとね。前の台詞の調子をよく聴いて、うまく自分の台詞をすげないと。よく聴いてね。

 最初は出てくるだけで、「あーあ」という一言で笑ってしまう三宅ロミオだったのだが、息を吐いてからクスリを一気に飲む彼に、純情さを感じました。

PARCO STAGE  『豊饒の海』 (プレビュー)

 三島由紀夫の「ザ・俺」。よくある大河小説のように「自分」のキャラクターを細かく割って大勢の人間をつくりだし、同時代を生きる群像劇に仕上げるんじゃなく、「りんね」の形でキャラクターが桂馬のようにぴょんぴょん跳ねる。繊細で複雑なのさ。

 とってもよくできている。長田育恵は三島の影に溶け込み、いつの間にかそっと三島の服を着て、影法師もろとも三島を動かしているようだし、演出の、死を挟んだ見つめあう恋人のシーンの劇的緊張と言ったらない。(その頂点の後の弛緩はちょっとがっかり)

 手前へ少し傾いだ杉の木の舞台には橋掛かりがつき、しゃっと音を立てて客席出入り口のカーテンが閉まる。払い落とすように雑音が消えていき、集中だ!と思ったところにアナウンス、えー。そういうのよくないよ、でももう始まるね、と、気を取り直し、激しい水の音、そして

 「またあふぜ。」いえてないだろ。松枝清顕(東出昌大)、こんなに美しいのに、台詞ちゃんと言ってほしい。それは本多繁那(首藤康之)の「自死」という台詞や、叫ぶ安永透(上杉柊平)も同じだ。二度見三度見する現実ではないような美しい男の人たち、脚本も演出も成功しているのに、台詞きっちりいうこと出来ないのか。それだけでこの芝居成功しちゃうのに。特に東出昌大、前半の所作(お辞儀)や表情が大袈裟。映像の続きのつもりでもっと自然にお願いします。宮澤氷魚は「台詞をちゃんという」ことに自分を特化していて、確実な感じがした。その点で大鶴佐助に一日の長がある。この話ってさ、「本多物語」だもんね。ない愛よね。神野三鈴、芝居をきちんと締めている。初音映莉子、まえより良くなったけど台詞頑張ろう。笈田ヨシ、「いっすん」、びっくりした。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア』

 トレチャコフ美術館展。どの所蔵品の上にも、パーヴェル・トレチャコフの信条のようなものが、うっすらかかっている。なんだろ、時代思潮ぽいものかなあ。それが絵を皆ロマンティックにしているような気がする。「衒いのない国土への愛」「疑うことを知らない肯定感」かな?

 それはとてもラフマニノフっぽい。ラフマニノフのピアノ協奏曲など聴いていると、赤ワイン色のロマンティックがピアノと一緒に滴っていて、時々気恥ずかしくなるくらいだ。

 収蔵品の中には優美なロマンティックを突き抜けてくるものがあって、その白眉と言えるのがクラムスコイの「忘れえぬ女(ひと)」または「見知らぬ女(ひと)」と呼ばれる絵だ。

 「カキワリです」と言わんばかりにうすーく描かれた街の風景の中に(霧だって)、女は突如出現する。厳しい筆致、精妙な描写。女の、おそらくコートとおそろいの、裾の方でしぼられた丸い帽子の裏打ちは豪華な金色で、表地は天鵞絨だろう。涙型の大きな真珠のついたピンは金製、黒を引き立てるオーストリッチの羽根が泡のように白くたなびいている。襟元を飾る差し毛の毛皮はコートの前立てと袖口にもあしらわれ、透ける薄い手袋のように見えるもので覆われた手は毛皮のマフの中だ。濃紺に光る繻子の巾広リボンはマフだけでなく女のあごの下にも大きく結ばれている。

 天鵞絨、羽根、毛皮、繻子、すべすべした頬、睫毛、唇、ぴったりと体の線を出すよう仕立てられた服、それだけではない、上等の革のシート、ラッカー塗りの馬車、すべてが触感で溢れ、こういっている。《私に触って》。

 画家の高度な技量は、それをみるものに訴えかけた後、あの沈んだ眼差しを捉え、微かにうるんだ眼のぽっちりした薄い涙を描き添え、女が絵の全て、世界の全てを裏切っていることを示す。《しかし誰にも私に触らせやしない》。

 疑いのなさや衒いのなさは、ここでこの女のこの眼差しに、撃たれているなと思うのだった。だけどこの眼差しもまた、「ロマンティック」に回収されてしまうけどさー。素晴らしい絵でした。

東京フォーラムホールA 新日本製薬 presents SONGS & FRIENDS 小坂忠 「ほうろう」

 開場めっちゃ遅。場内アナウンスが遅れをお詫びするが、WOWOWをウォウウォウとか武部をタケブとか言っちゃって、読めないのか!と、順調に機嫌が悪くなる。2階席のうえの、うえの方に座った時にはすでに7時5分前で、遠い舞台にアルバムと同じ絵柄のオレンジ色のスクリーンが見え、暗いステージが時々ちらっとぼんやり明るむのは、ギターなどのセッティングを確かめるスタッフだろうか。7時20分、ふっと客席が暗くなる。20分押しかー。こういうの、音楽ではよくあることなの?

 You Are So Beautiful

コーラスの美しい声ですべて忘れる。今日の音楽監督武部聡志が現れ、小坂忠のことや、『HORO』(プロデュース:細野晴臣)を次代とつなぐことについて語る。武部さんてきらきらのピアノ弾くんだなー。

 次に登場したのは小坂忠の娘のAsiah、『アンフォゲッタブル』をきちっと歌い上げる。アメリカのシンガーなら普通なのかもしれないけど、とてもうまい。折り目正しく、楷書のよう。

 小坂忠は若いころ「フォージョーハーフ」というバンド(後藤次利、駒沢裕城、林立夫松任谷正隆)をやっていて、バンド名は当時はやった「四畳半」フォークを英語読みしたものだ。まあ、その頃のフォークって、きわめて身近な生活感を歌った歌が多かったので、大人がそんな風に呼んだんだね。

 しかし、高橋幸宏小坂忠がうたうと(カラスの歌だった)、二人が2人とも、四畳半からはみ出し、出て行っちゃってることがわかる。なんだろ、おのおの、自分のつくりだした自分の「たたみ」をもっているのだ。それは若いミュージシャンのさかいゆうもおなじで、ファルセットで、分類できない、聞いたことのない声が出てくる。

 田島貴男は蛇腹をつぶしてひしゃげさせたような低い声から、いっぱいいっぱいに伸ばした声までを表現する。

 槙原敬之は街で流れているあの声だったけど、『風来坊』の歌いだしの「ふらりふらふら」のところ、解釈に迷ってる感じがした。しかし、『機関車』の「愛しているんだ」がすごく聴き手の身体に入ってくる。日頃のポップスの地力だね。

 そしてCharの登場でまた歓声が沸く。おや?ギター少し遠慮がちかな、曲の枠内に収めているかなってところから段々、熱くて冷たい音が滲み出てきた。HotでCool、最高やん。

 田島貴男さかいゆう槙原敬之、Char、それから小坂忠、並んで歌うのを聴きながら、みんな自分の位置を探して苦闘したんだなと思うのだった。次に出てきた荒井由実はマイクを忘れつつも、同時代にすごい人がいると、自分にできることをやっていくしかない、と、自分の言ったことを必ず通してきた人の声で言う。小坂忠のライブを中学生の時に聴いているそうで、「洋物のようだった。そしてまねではなかった。」と感想を述べていた。それから二人でのどかな歌を歌う。「山のふもとの小さな村、桑の隣のあの花畑」、[通してきた人の声]がのどかな歌に少し不穏さをプラスする。彼女はさっと去り、小坂忠の「めんそーれ」という挨拶にBEGINの比嘉栄昇が「はいさい」と応えた。『ボン・ボヤージ波止場』。よかった。そのあと出てきた高橋幸宏(時間があったんで着替えてきました)が「すごいよかった」というくらいよかった。しっとりしていてスモーキー。もうこのコンサート「紅白」でいいじゃん。道具立ての感じやきっちり精一杯歌うところが似てるけど、こっちの方が絶対いい。これなら私見るよ紅白。

 でも…ちょっと言っていい?みんな話が長いよ。集中が続かない。小坂忠が奇跡について話して(奇跡はプラスの変化です)、とってもいい話なんだよ、でも、狭山で面白い青春を過ごした人たちの美学(小坂「照れくさいから曲へ行こう」細野晴臣「うん」)に反してて、尾崎亜美の話もウェットなかんじがして、「反則~」とおもったのだが、そのあと小坂忠と二人で歌った『機関車』の「目はつぶれ」が、とてもこの世の苦悩を背負っていてよかったのだった。複雑な気持ち。

 矢野顕子のピアノと小坂忠の歌は、互いを引き立てあって輝いていた。『I Blieve In You』の歌の迫力、拍手も大きかったと思う。矢野顕子はピアノの殻をむいて中身出してるみたいなんだよね。

 きれいなグルーヴ(?一面のアラベスク模様のような)のティン・パン・アレー鈴木茂林立夫細野晴臣松任谷正隆)、『風来坊』や踊り止められない男の『HORO』、5分かかって(?)皆が登場したアンコールの『ゆうがたラブ』、1フレーズしか歌わない吉田美奈子の声が辺りを薙ぎ払い瞠目した。最後の小坂忠のYou Are So Beautifulの歌い納めの張った声は、天を指すレーザー光線のようだった。紅白はこのようなものにしてもらいたい。観るほうも「紅白だ」と思うと長さに心構えできるし。

新国立劇場小劇場 『誰もいない国』

 勇気ある。作品に、演出に、俳優に、プロダクション全部が「勇気プロジェクト」だよ。作家の心の芯、作品の奥底、極北へ近づいてゆくじりじりした歩み、ほんとに怖く、すごいなと思った。かかわりあう、そしてかかわりあわない、四人の男。台詞は細かくカットした宝石に乱反射する景色のようだ。

 私にとっての主人公ハースト(柄本明)は、おそらく無頼な生活をしてきた人。男色、覗き、母子相姦、不倫、けれども彼には一つも傷跡がない。彼はぱりっとしたブレザーを着てこざっぱりしている。彼はお金持ちだ。確かにハーストについてたくさんの「性交渉」が匂わされているが、ハーストは誰とも「関係」を持っていない。全ては閉じ込められている。写真の中に、壺の中に、水の中に、封じ込めたものが騒ぎ立てる時、彼は酒を飲む。登場したハーストはウォッカを何杯もあおる。よっかかって体が斜めになったまま、めちゃくちゃに飲む。観ながら考える、もしかHirstって、Thirstを隠しているの?水には深い意味がある、ハーストの家に来たスプーナー(石倉三郎)はもう一人のハーストだろう。誰とも関わらず生きる傷つかない男はノー・マンズ・ランドに辿り着く。そこにはひっそりと水の景色が広がる。死んだ男の見る景色、誰もいない国が。

 スプーナーはみすぼらしい筈なのに、石倉三郎がすっきりしているために立派に見えちゃう。衣装もうちょっと考えて。フォスターの平埜生成はきっちり役割を果たしているけど、女っぽくてもいい、体の中に棲む人に、巾があったほうがいいもん。ブリグズ(有薗芳記)の「パンを切ってくる」は刃物の連想があるので、もっと怖い感じがほしい。柄本明台詞忘れないように。水べりの急坂の草を握る手をあっさり放して、思い切りよく死へ滑り込むような勇気を感じる終幕。

新橋演舞場 十一月新派特別公演 『犬神家の一族』

 純情という物はふつう、世に表れない物で、一人で生まれ一人で死ぬ。純情が外に出るのなら、それはうかつだったか、もはや純情でなかったかのどっちかだ。

 ここに純情を守れなかった一人の男犬神佐兵衛。彼のすることなすことからいちいちあやつりの糸が垂れ、遠近法の消失点が、逆に物の位置を決めていくように、佐兵衛亡き後の犬神家を決定してしまう。

 莫大な財産、三人の娘、毒殺、猟奇殺人と、演出の齋藤雅文は、細かくシーンを割り、上手下手から、頭上から、そして舞台も廻してスピーディに、西岡善信に負けないくらい立派なセットで、有名な『犬神家の一族』と試合う。なんといっても「滅び」の視点を入れたのが立派。けど…まだできてない。まず、松子(波乃久里子)、竹子(瀬戸摩純)、梅子(河合雪之丞)の、「佐兵衛の欲求を満たすために妾として飼われていた母たち」の恨みが語られない。ここがないと殺人に発展していく理由が半分しかわからん。

 そして、竹子の役作りにぶれと迷いがある。声を低くして、つよい厳しい女を出そうとしているけれど、なりきれていない。出てきたときの歩く姿が決まっているのに、惜しい。

 女衆さんたちが布巾で塗りものを拭くシーンがいい。すき。「本気でころされそうになったなあ」(河合侑季)はとてもいいからもっと遠慮せずいうべきだ。浜中文一は華奢だけど、「謎の復員兵」が登場して助けるところは仁王立ちでないと。もっと足の裏の1000キロ下を意識してほしい。あとマフラー邪魔な長さ。松子と香琴(水谷八重子)の母心と、それに寄り添う息子の心が、舞台をぎりぎり締め上げ、ともすれば立ち位置のわからなくなりそうな現代の私たちに、透視図の線をそっと付加してきて、ぎょっとさせられる。