東京ドームシティホール 『テデスキ・トラックス・バンド SIGNS 2019 TOUR 』

 「ここは…違うよ」

 一斉におもちゃのヅラをかぶる30代の女性グループを見ていきなり後ずさる。今日後楽園は大賑わい、人気のライブや遊園地や野球でごった返している。ようやくたどり着いたTOKYO DOME CITY HALLはアリーナと、上品にくっついた二階席、そして三階四階が見える。コンパクト。ステージが人んちみたいにぎっしりだ。皆ぱちぱちスマホで写真撮っている。ドラムスの大きなシンバルが4個、首を傾けた笠のようにならぶ。

 (ツインドラムスだよね!)

 5分前、客席を照らす4ッ目の照明に灯が入る。あおってる?(今日さー、照明きっかけ一つ間違ったよねー)もう体に音が入っちゃった40代の人が揺れている。ボブ・ディランのDuqesne Whistleがフルで流れる。選曲はテデスキ・トラックス・バンド。

 先頭でステージに上がったのはスーザン・テデスキで、赤と黒の激しい柄のワンピースを着ている。フレアがきれいで、あんなに胸が切れ込んでなければ、「素敵なお母さんの服」みたい。黒縁眼鏡をかけてギターを抱え、静かな感じ。左隣に立つデレク・トラックスも、とても控えめでしーんとしているので、急に頭の中に『生活のロック』という言葉が出現する。朝食のテーブルでスーザンが新聞でも読み始めそうな、そこへ子供さんが「体育見学届」に判を貰いに来そうな、白い朝の日差しが見えそうな。デレクの束ねた金髪、スーザンのゴージャスに梳き流した金髪が、「異国のお方」と感じさせる。と思ってる間に、ベース(ブランドン・ブーン)、キーボード(ゲィブ・ディクソン)、ドラムス二人(J・J・ジャクソン、タイラー・グリーンウェル)、コーラス-ボーカル担当の三人(マーク・リヴァース、マイク・マティソン、アリシア・シャコール)、金管楽器の三人(ケビ・ウィリアムズ、エフライム・オーウェンス、エリザベス・リー)が位置に就く。バックのホリゾントに燈台と荒波が見える。「Here I am,」スーザンのびしっと滴る、落下する水風船(しずくの破裂模様が花のように咲く)のような声が、朝のテデスキ-トラックス家の幻想をぶっとばす。かっこいい。女の人もこんなにかっこよくロックできるんだな。いいなあ。それが心の繊毛をそよがせるので、受け取るものが倍。

 音が思ったより後ろ、攻めてこないなと思いながら、サックスの三段跳びに階段を上がるようなソロを聴く。「Part Of Me」だったみたいだ。最初はなぜか拙く、どんどん歩幅が縮まって、おどるようなステップがやって来る。本人も飛び跳ねているところがかわいい。音も跳ね、あたたまったところでデレクが切り込む。サックスはテディ・ウィリアムズ。デレクの音が桶の箍になっている。デレクはどんな服を着ているかチェックできないほど「ひっこんでいる」。右足を少し出して膝を軽く曲げ、その上でギターを固定し、静かに弾く。でもなんという音色でしょうか。音に鋲で留めつけられる。美しい音、ほかにない音だ。「Keep On Growing」。デレクがまたソロを取る。見ていて顔が笑ってしまう。手の動きより音が早い。どうなってる。びよーんと音が伸びるとギターのネックを持ち上げる。最高のギタリストを最高の時に見られるよろこび。

 ギターはまず低音で鳴り、段々に上がり、激しく目まぐるしく(でも一音も外さない)なっていく。これがデレク・トラックス、聴きながら足がいつのまにか爪先立ってて、力が入ってる。ブレーキ踏んでる自分、アクセル踏んでる自分、自分がバラバラになって音の中に没入する。絶対にはずさない、逸らさない音を受け止める。スーザンのギターはモノを言っている。ききみみずきんがあったらなー。

 上手側のドラムス(タイラー・グリーンウェル)が輪になった鈴を鳴らす。いったん引っ込んでいたバンドメンバーがまた位置につく。鈴は小さい響かない音しかしない。しかし空間を祓う。もう一度。インド風の旋律が現れる。西洋音楽と全然違う。西洋音楽ってさ、遍き、全き感じがするけれど、インドのラーガ(っていうの?)は、宇宙のどこかに穴が開いている不思議な世界の法則のようだ。テデスキ・トラックス・バンドはラーガに頭の先までつかる。たわんで揺れるギターの音、おそれず不知の世界に踏み込む。ネジバナのような螺旋の花を思った。くしゃっと潰れたインドの旋律を聴きながら、ちょっとだけ、ええー?となってしまう。どうやって帰還すんだよぅー。音が徐々に集約していき、ギターの音をサックスが引き取る。シンプルで純粋なその音が、宇宙の一点。裾がどこまでも拡がる円錐形の頂点と、別の円錐形の頂点が、的確に接する。すっごい小さな点でインドと接地、すばやく始まる「Midnight In Harlem」、世界がうらがえったようだ。かっこいいー。と気持ちよくこの有名ナンバーを聴いていたら、デレク・トラックスがインドのフレーズを弾く。インド来てる!ハーレムに!とその水際立った展開にびっくりしていると、突然澄んだ音がする。縦横に空を駆け回る。スカイドッグだね。スカイドッグだよ。でもたった今弾くたった今の音色はデレク・トラックス。裏と表、宇宙の穴でつながっている西洋と東洋ってことかなあ。単純な西洋音階が聴こえて、曲は終わった。

 このあと、ベース、キーボード、ドラムスやとにかく全員に見せ場が来る。皆受けて立つ。弾きあうのがデレク・トラックスなのだから、最高のプレーをしないわけにはいかない。鎮魂のような、教会の感じも、そこここに漂っていた。とても素晴らしいライブだった。私の鉛筆の先から、煙が出れば、わかってもらえるかしら。

吉祥寺シアター serial number 02 『機械と音楽』 2019

 「10月革命が成就するロシアの歴史的な夜である。と、走ってくる少年、15歳のイヴァン・レオニドフ。人ごみにまかれ戸惑っているらしき少女オリガを発見し、叫ぶ。

 イヴァン   オリガ!  」

 言えてねー。オリガ(きなり)が見えてないし、実体もない。愛がない。この人イヴァン(田島亮)の大事な幼馴染じゃないの。田島亮、ハンサムだし、頑張っているけど、声は嗄れ気味で、その時その時の台詞を一生懸命言うだけで、役柄が俯瞰できてない。結局どういう話なのか、わかってない。それは作家・演出家も同じ。エレーナ(三浦透子)、妻ニーナ(熊坂理恵子)、オリガと、三人の全く違った女が出てくるけど、だから何っていうくらい放り出しっぱなし。エレーナとのせめぎ合う愛、ニーナに与える抑圧、オリガへの淡い大切な思慕っていう三本柱にならないとだめじゃない?三浦透子もっとがんがん行こう。役柄は命綱なしで愛を叫ぶよう要求してると思う。マヤコフスキーとも関係あるよね。俯瞰して。

 ロシア・アヴァンギャルド建築の旗手イヴァン・レオニドフ、コンペで勝てず、敵でさえその純粋な天才性を認めているのに、建物は全く建たない男。こんな面白いプロットがありながら、まじめに深く研究した脚本にすべて埋没してしまい、結果フラットな作品になっている。惜しい。

 マヤコフスキーと自分の妻と3人で同居していた(妻はマヤコフスキーと関係があった)オシープ(大石継太)が革命の夢の終りを陰翳深く演じる。この人本当に正体のわからない面白い人だった。ギンズブルグ(酒巻誉洋)の眼鏡も少し笑いたかった。

 ネットで演劇情報をみると皆serial numberが面白いって言っている。期待しすぎちゃったかなあ。頑張ってほしい。

池袋芸術劇場 上海京劇院日本公演 『西遊記~旅のはじまり 2019』

 聴こえてくるものすべてが節。チャイーンチャイーンと鳴る鐃鈸(?)、カカカカと聴こえる小さな平置きの太鼓(たぶん)、銅鑼、どれも声だ。(ついでにいうと、どうして1500円のパンフレットに、楽器の紹介がないのか?挨拶文で優に6ページって驚きだし、こないだの『理査三世』が無料の充実したものだったのに、どうしてこれはと思わずにいられない)そして役者の裏声がその中を割って一際明瞭に響く。どうしても「サウンド」が聴けない自分に、ぴったりはまるチューンの粋みたいな京劇の「声」である。三蔵法師(李春)は裏声の台詞と地声の台詞とを、めまぐるしく取り替えながら「うたう」。どの音も、節回しが気持ちいい。ただ、演奏と声が、どのくらいあってればいいのかがわからなかった。

 第一場は大仏の前に僧がシンメトリーに舞台端を廻って位置に就く。ここ、ちょっと左右の僧が対称じゃなかったけど、最終的にはびしっとしていた。二場、三蔵についてきた二人の弟子がすぐ片足を地面からあげるのが、「怖い」のを表わしていて可笑しい。そして恐ろしく勢いのいい虎。この後は3連続、4連続で宙返りしたり、側転したりするあの「オリンピックに興味のなかった人たち」が大挙して現れる。ひらりひらりと舞台を行きかう様が、とても美しく、迫力がある。めっちゃ体の切れる山賊を、適当にあしらう悟空(厳慶谷)、虎の顛末と山賊の最後が可哀そうで、三蔵法師は悟空を叱って怒らせてしまう。この、花果山に帰る、斜め上に向かう悟空だけどさー。一回はいいよ、一回はご愛嬌、でも二回は要らない。悟空は頭に輪を嵌められ、しぶしぶお師匠様に従う。そして、龍と戦う。激しい音を立てる旗の群が、波を表わす。鱗の眷属が、次々に悟空の前に現れ、頭に触角を生やした龍(洪小鵬)も強い。これ、はやく「通」になって、いいところで拍手したいなあ、と思ったことでした。

世田谷パブリックシアター+KERA・MAP#009 『キネマと恋人』 (2019)

 カチカチとフィルムの回る音がして映画が映し出され、ヒロインのハルコ(緒川たまき)が登場し、刻々と変わる心情を全身で生きる。妹ミチル(ともさかりえ)が謝りに来たと知ると色つきの足袋をはいた足は踊り、夫電二郎(三上市朗)の浮気に棒立ちのカラダが部屋とともに揺れる。 

 ハルコが一番悲しい時に、『月の輪半次郎捕物帳シリーズ』の間坂寅蔵(妻夫木聡)は映画の中から出て来てくれる。ここがもう、演劇や映画、エンターテイメントになんとか助けてもらってほそぼそと生きてきた人間の心をつかむ。つぼだよぅー。

 この再演で、電二郎や梟島キネマ支配人小松さん(尾方宣久)の表現が深くなり、役柄たちが思ってもみないところでかわいげや味が出た。嵐山進(橋本淳)は、より嫌な奴がシャープになり、ミチルが「もう(こんな恋人は)見つからんだり!」と堰を切ったように泣き崩れると、その絶望に共感して、そんなことも言ってた過去の自分に少し笑いつつ頷いてみせるような気持になった。

 一番変わったのは高木高助(妻夫木聡二役)の最後のシーンで、ちょっと暗い気持ちになった後、ふわっと夢見るようだった前回とは違い、今回の高助はずいぶん自分を責めて落ち込むのである。ここは、いい。彫が深くなった。すこしありきたりだけどね。今日、妻夫木聡は力が入っていた。高助の1幕2場は、力が入りすぎていて、耳が聴こえていない。体の中の圧力が強すぎるのだ。息してなかったかもだな。気を付けてほしい。ダンサーと揃えて体を動かす緒川たまき、差がありすぎる。

 かなしい、こわばった顔が、うつむき加減から段々にスクリーンを振り仰ぎ、静かに花が咲くように笑みがこぼれる。妹と笑いあう。最高のシーン、最高の演技だ。

 

熱海五郎一座 新橋演舞場シリーズ第六弾 東京喜劇 『翔べないスペースマンと危険なシナリオ~ギャグマゲドンmission~』

 前説はフリップを持つ官房長官のギャグ。答えたくないことはスルーする間合いが巧く、東貴博は生き生きとやっている。だが、そこに女性記者の姿はない。あー、ここがめざす「昭和の茶の間」(パンフレットの作者挨拶より)って意味?エッジィなところに突っ込んでいかないんだね。もうはじめっから「アルマゲドン(ネタ元の映画)みたいな担保なしじゃあありません」と言われてる感じ。言っとくけど、今は昭和じゃないんだよ。

 毎年「熱海五郎一座」を見るたび、「なんだ、今年の方が全然面白いじゃん。去年面白くなかったんだー。」と、奇妙な感慨を持って帰途に就く。

 今年の熱海五郎一座、出色。一幕の登場人物の会話が全部面白く、そうでもない所でも――例えばラサール石井が調味料を橋本マナミに聞くシーン――役者の力で面白くなってる。自然に笑え、スポットで抜くいくつかの会話なども、よくできた四コマ漫画のように輝く。

 二幕の展開はそれに比べるととても落ちる。種明かしがもったりしていて滑りが悪く、スピードもない。ここ、演じている方は無駄に疲れるだろうと思う。役名は変わらないというやり取りとか、要らないよ。フリップ出せば?奥さんが若くてとかの楽屋落ちもいらない。鉄板だから安心だろうけど、技倆があるから関係ないし、何より「アルマゲドン」(担保なし)じゃない。

 冒頭足を組み替える橋本マナミはすごく面白く、高島礼子は一生けんめい声を張って、吹っ切れているところが素晴らしい。

 春風亭昇太の滑舌悪いセリフが、説明も全くいらない自立したギャグになっている。「滑舌悪い」という芸である。丸山優子、もっと厳しく歌下手に突っ込もう。

紀伊国屋ホール ラッパ屋第45回公演 『2.8次元』

 地に足ついてる。それが面白さと、侘しさの源泉だ。

 だってさ、舞台いっぱいに建てこまれた老舗の劇団の稽古場が、それ以上でもそれ以下でもなくリアル、天井まで三つに区切って縦に貼られた羽目板が、昭和中期を思わせて、本当に貧しく質素。力の弱そうなクーラー、壁に貼られた「人間を見せよう 人間を生きよう」というモットーも、間違ったことは言ってないのに、さびしい。赤と緑の安物のスツールがそこここに置かれ、下手にはアップライトピアノがある。暗幕で隠してある窓が二つ。

 あかるくジャズピアノの生演奏で始まり、ミュージカルのように歌うけど、これ、現実やん。現実。老いの問題入ってるし。現実。と少し肩を落とす。人間いくつになっても夢が見たいのか。

 経営不振の新劇の劇団が、2,5次元の俳優(TOSHI=林大樹)と演出家(SHOW=中野順一朗)を受け入れ、2,5次元ミュージカルを劇団主催で公演する。新劇のプライドと、飛ぶ鳥落とす勢いの2,5次元の「アニメに忠実」なつくりとの齟齬、2,5次元の人々の微妙なコンプレックス、「キャラが薄い」せいでテレビに売れない中高年俳優の諦めと矜持が入り混じり、「演劇」の現在、悩みと希望を照射する。空飛んだりファンタジーに都合のいいことが起こったり全くしない。ラッパ屋の老年の俳優たちが淡々と芝居を進めていく。その現実とも芝居ともつかない「ためいき」のようなリアルな運びが、彼らの出演する2,5次元の芝居を薄皮一枚剥がす。感動させる。地に足ついてる所から、ありきたりのしょぼい場所から、遠くまで来ちゃったなと思いました。

 老年であること、リアルであることを逆手にとってこの芝居はできている。いつもこの手は通用しないよね。小西雄介(おかやまはじめ)の台詞は「稽古中」じゃなく「練習中」では?素人だし。

三越劇場 『六月花形新派公演 夜の蝶』

 君は夜の銀座を見たことがあるか。夕方タクシーがばたんばたんときれいに髪を結い上げた女たちを路上に吐き出し、七時半にもなるとその女たちと食事した客が、得意満面で「同伴」してバァに向かう。目線をどこにやってもきれいな女の人とおじさんしかいない風景。わたしびっくりした。「餡パンとデパートと劇場の銀座」、昼の銀座とはまるきり違ってる。

 今日観た『夜の蝶』はその銀座の一流バァ、「リスボン」と「おきく」のせめぎあいを店の中から見せる芝居。

 なんかよく…わからなかった。脚本が登場人物を次から次に「リスボン」に呼び入れては帰す冒頭のシーン(説明のシーンである)が平板。回想もあか抜けない。そして、川口松太郎が葉子(河合雪之丞)とおきく(篠井英介)に喋らせる内容がもう、(記号か?)と思うくらい紋切り型で退屈だ。ロミオとジュリエット的な展開になっていくのなら、そこをおさえるとかしないと、全部が総花式でつまらない。「おきく」のセットが蕎麦屋みたいで興ざめだった。

 役者は頑張っていて、周旋屋の秀(黒田秀二=河合穂積)がいい。さらりとした裏方振りで、芝居がなめらかに始まる。お景(瀬戸摩純)もとても小ママっぽい。おきくに附いてるお春(山村紅葉)が唯一、本音の心をすぐ顔に出し、客(中里=喜多村次郎)が開高健そっくりで笑った。たのしんで芝居するのって大切だなあ。

 篠井英介、客席から登場の横顔がくらく、硬い。全ての台詞をきちんと言おうとしており、わかるけど、楽しもう?さらりと流す台詞は流そう?もっとばりばりお葉と戦った方がいいよ。

 喜多村緑郎、感じ悪い自信過剰でいいんじゃないの。この人は決して主役ではない、奥さんとバァのマダム、二人の天使に支えられた昔懐かしい昭和の男だよ。